東大卒の父、旧家出身の母… 18で夜の銀座へ、一流クラブのママに
- 伊藤 由美さん/ クラブ由美オーナーママ
- 1959年東京生まれ。名古屋育ち。18歳で上京、有名クラブで活躍後、83年4月、23歳でオーナーママとして『クラブ由美』を開店。昨年春、開店満40周年を迎えた。2015年11月シャンパーニュ騎士団より叙勲、オフィシエ・ドヌール(名誉将校)を叙任。著書に『「運と不運」には理由があります』『銀座の矜持』 (ワニブックス)など。17年、21年に『徹子の部屋』出演。銀座社交料飲協会(GSK)理事。動物環境・福祉協会Evaの理事も務め、動物愛護活動をライフワークとする。
カフェーの女給に憧れ 人生を変えた1本の電話
少女時代の私は、いわゆる世間知らずでした。父は東大を卒業後、新聞社から昭文社(道路地図や旅行ガイドブックの会社)の専務取締役を務め、母は薩摩藩家老・中原家の出で、何不自由なく育てられ、一般的な人生を歩むことをみじんも疑っていませんでした。
ところが、作家・林芙美子の『放浪記』を読んだ後、人生観が大きく変わりました。主人公が生活のためにカフェーの女給、今でいうホステスに身を落とすシーンが強く印象に残り、自分もカフェーの女給になりたいと思うようになったのです。
そんな矢先、美容院で手にした女性週刊誌に「銀座のクラブで働く女性たち」の特集記事を見つけ、さらに心引かれていきました。
それから数日後、父の書斎で偶然、銀座のクラブのマッチを見つけた私は、そのマッチの『紅い花』というお店に衝動的に電話をかけ、「そちらのお店で働きたいのですが…」と切り出していました。自分でもなぜあんなに大胆な行動ができたのか、今でも不思議です。しかし、この電話が、自分で選んだ人生を生きてみたいという自立への一歩になったことは間違いありません。
『紅い花』の面接の約束を取り付けた私は、両親に「探さないでください」と置き手紙を残し、名古屋から東京行きの夜行バスに乗りました。そのとき17歳。高校3年生の夏休みでした。
1年でナンバーワン、5年で自分の店を持つ
幸運にも『紅い花』での採用が決まり、運良く先輩ホステスさんの部屋に居候させていただけ、上京当日から働くことになりました。地方の女子高校生にとって、夜の銀座は見るもの、聞くこと、出会う人、すべてが刺激的でした。右も左もわかりませんでしたが、やさしい先輩たちに囲まれ、何の不安もありませんでした。
ところが、この銀座生活は1週間であっけなく終わりを告げることに。先輩たちのすすめで母に居場所を連絡したところ、即、強制送還となったからです。しかし、人生を自分で切り拓く面白みを知ってしまった私は、もう元の生活には戻れませんでした。
親に猛反対されながらも、自分の意思を貫くことを決め、高校の卒業式当日、再上京。そして、再び銀座を目指した日、私はまず3つの目標を掲げました。「1年でナンバーワンになる。3年で有名クラブの雇われママになる。5年で自分の店を持つ」。それは本当の意味で、自分の人生が始まった瞬間でした。
22歳、銀座で1番若い雇われママが誕生
そうはいっても高校を卒業したばかりの小娘です。それに対して、クラブにお見えになるお客様は、政界、財界、芸能界など、普段ならまずお会いする機会のないお歴々ばかり。ただ、お席でも会話の中で堂々と目標を公言していたところ、逆に面白がられ、「そこまで言い切るなら、君は銀座で1番になれるし、オーナーママになれるよ」「その若さで大した度胸だ。がんばれ」と応援してくださる方が大勢いらっしゃったのです。
その3カ月後には、名門といわれていた『くらぶ宮田』に引き抜かれ、その後初めてナンバーワンのタイトルを手にしました。まだ19歳、銀座に出てきてわずか1年足らずのことでした。
それから3年後、22歳のとき、俳優の勝新太郎さんが経営する有名クラブ『修』の雇われママにスカウトされ、“銀座で1番若いママ”として、ちょっとした話題にもなりました。
大きな試練を超えて23歳でオーナーママに
この当時の私は、順風に帆を掲げられ、物事がすべて思い通りに運んでいたかのように思います。ですが私自身、いい気になり慢心していました。そのまま過信しすぎていたままなら、どこかで足を引っ張られ、銀座から姿を消していたかもしれません。でも神様は愚かな勘違いを正しい方向へと導き、自分の力で強く生き抜いていくための試練をくださいました。
“雇われママ”を務めていた『修』が、経営者の不祥事で閉店を余儀なくされたのです。それだけではありません。お店に多額の出資をしていた高利貸し業者が、私に対して売掛金1500万円の一括返済を要求してきたのです。実際にはママといっても“雇われママ”に過ぎず、入金サイト前(当時は発生から60日)の返済義務はないはずですが、若い身空のうえ経験不足もあり、毎日追い込みをかけられ続けました。
ですがそれが発奮材料となり、逆に燃えてきたのです。ママを引き受けたのも自分。だったら腹をくくって、売掛金を早めに返済して自由になろうと考えました。というのも、高利貸し業者は、お金を回収するために、私をどこかの他のクラブに勤めさせようとしていたのです。当時の銀座には、他のクラブへ移籍の際には、お金を前借りできる上に、1年ごとに売上に準じた契約金を支払うというシステムがありました。しかし、そのオファーを受けてしまえば、また自分の人生を他人に左右されることになります。それでは「5年で銀座のオーナーママ」という本来の目的はかなわず、不本意だと思ったのです。それゆえ、自分自身で、直接売掛金を回収し返済する選択を選び、お店を開くことにしました。
今から約41年前の1983年4月11日、23歳のとき、こうして『クラブ由美』は始まりました。最初はわずか13坪の小さなお店でした。そして、お店をどうにか軌道に乗せ、約2年半後、別の場所へ移転。お店の規模も大きく拡大したのです。
3000人のお客様の名前と電話番号を暗記
「着物は私の戦闘服」「次にお会いしたら、前回の話の続きから」これは41年前から私が言い続けている言葉です。
私にとって着物は戦闘服ですから、全身に気合いを入れ全力投球で挑みます。お客様は眼識のある方が多いので、着物に関して金に糸目はつけず、華やかさと高級感を醸し出すよう心がけています。
また、お客様が次にお見えになられたとき、それが半年後、1年後だったとしても、前回の会話の続きからのお話しができると、とても喜んでいただけます。そのためにも、まずお顔とお名前、会社や肩書、電話番号まで覚えます。方法としては名刺をいただいた際、シャッターを切るように自分の脳の記憶の中に入れるのです。「3000人のお客様のお名前とお電話番号を覚えています」というのが、かつてキャッチフレーズだったこともあります(笑)。
実はそれがきっかけで、NHKの情報番組で行われた“記憶力王の大会”に抜擢されたこともあります。メモは取らない、名前は2度聞かない、名刺はもらわないというルールのもと、50人の名前と顔を順に覚えていき、1時間後に全員の名前をフルネームで言い当てるという厳しい戦い(笑)でした。私はエア筆記で書いた映像を記憶に残しながら、大会にチャレンジ。参加した5人の“記憶名人”の中でチャンピオンになり、面目躍如を果たすことができました。
経営哲学と銀座への思い
自分の城を持ってから毎朝欠かさずやっているのは、SNSチェックです。夜の仕事をしていると、朝が遅いイメージを持たれると思いますが、実は毎朝7時ぐらいには起きて、ブログやインスタグラムの更新、写真の整理、メールの返信。さらにお客様1人1人のお顔を思い浮かべながら、直筆でお礼のお手紙を書くことを習慣にしています。
そのような毎日で私が心からうれしいと感じるのは、「また来ていただきたい」と思う方にお手紙を差し上げ、その思いが伝わった瞬間です。ていねいな返信をいただいたり、突然お店にお見えになられたりすると、本当にうれしくて。まさにこの仕事の醍醐味(だいごみ)ですね。そこはある意味恋愛と一緒だと思います。
銀座の“一流クラブ”を自負する以上、お客様も一流であってほしいと願うのは当然のこと。私が考える一流のお客様とは、お店や店の女性を大事にしてくださり、なおかつ銀座を愛している方。銀座のクラブは大人の社交場であり、文化。遊び方も粋に、節度を持って振る舞っていただきたいのです。
確かにそれを「説教くさい」「堅苦しい」とおっしゃる方もいます。でも、そこで生まれる人脈もあり、私はそのサロン的な部分を大事にしたいのです。それが銀座の文化を守ることにもつながると信じています。ですから「この方は」と思えば応援し、いろいろな方にご紹介させていただいています。それゆえ、お客様も本当にいい方を紹介してくださいます。「由美ママのところなら安心だから」と、ご家族や親子代々で使ってくださるお客様もいます。「息子に品のいい銀座の遊び方を教えてやってくれ」とおっしゃる方も(笑)。そんなすてきなお客様でいつもお店をいっぱいにしたいと思っています。
大好きな人を応援 動物愛護活動家の顔も
プライベートでは、俳優の杉本彩さんと一緒に、もう10年以上、動物愛護活動に取り組んでいます。お金のために命を売られ、人間の身勝手な都合でゴミのように捨てられる…。そんな弱者である動物たちを守りたいという彩さんの思いに共感したのです。今では私のライフワークになっています。
生体販売のルールの厳格化のほかにも、たとえば、大震災や台風などによる災害に備えて、動物のための避難場所をつくってもらおうと陳情に伺ったり、伝統と称して動物虐待につながりかねない全国の行事に異議を申し立てたり、時間が許す限り動いています。
動物に対してだけでなく、人に対しても、「やさしさと思いやりがすべて」だと思います。私は今、母と暮らしているのでよくわかりますが、正直、ケンカもします。でも「ケンカをする相手がいるだけでも幸せ」と思うのです。人生は一度限り。いずれはみんな年を取っていきます。最後は笑って死ねるためにも、過去のことをいつまでも恨み悔やむより、目の前の相手を大事に思って過ごしたい。これからも前向きに、自分の人生を生きていくつもりです。
(東京都銀座『クラブ由美』にて取材)
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