劇団四季『オンディーヌ』に感激 9カ月で退団、テレビの世界へ
- 岡 まゆみさん/女優
- 東京都生まれ。1974年、劇団四季研究所に入団、翌年、退団。75年、『歌だ!飛び出せ2万キロ』のリポーターとして芸能界デビュー。76年、ポーラテレビ小説『絹の家』のヒロインに抜擢され、以降、赤いシリーズ『赤い衝撃』『赤い絆』『赤い嵐』、時代劇、サスペンスなど多数出演。78年から『まんがはじめて物語』のお姉さんを6年務めた。83年、劇団四季に再入団。『コーラスライン』『エビータ』などのミュージカル作品を始め、『オンディーヌ』などのストレート・プレイにも出演。89年、劇団四季退団後は、舞台、映画、テレビ、ジャズライブなど、幅広く活動を続けている。
少女時代はおてんばであまのじゃく
生まれは東京ですが、銀行員の父が転勤族で、小さい頃は伊勢、奈良、東京などを行ったりきたりしていました。幼稚園は2回転園、小学校は2年生までに3回転校。その後は同じ学校で過ごすことができましたが、お友達のつくり方は下手くそなままでした。
そうかといって内向的な性格ではなく、おてんばで、かつあまのじゃく。2つ上の姉が絵に描いたような優等生で、近所のお母さんたちにいつもほめられているのを傍目に、自分はその逆を行こうと、大人に反抗するようなところがありました。今振り返れば、なんと不器用で生意気なやつ…と思うのですが、この性格が後々自分を追い込んでいくことになるとは、知る由もありませんでした。
15歳のとき、運命の芝居と出合う
お芝居はずっと好きで、小学校から演劇部にいました。その後の自分を決定づける作品と出合ったのは15歳のときです。
日生劇場で劇団四季が上演した『オンディーヌ』というフランス詩劇を観に行って衝撃を受け、「私の進むべき道は舞台だ!」と。それ以外のものは見えなくなってしまったのです。一度思い込んだらわき目もふらず、『オンディーヌ』の作者、ジャン・ジロドゥの作品を読み漁り、ついにはフランス詩劇を得意とする劇団四季に入りたいと、真剣に考えるようになりました。
ところが、親は「やりたいなら大学を出てからやりなさい」と大反対。特に父は東大法学部出身で、ずっと真面目な銀行員だったせいか、どうしても首を縦に振ってくれません。当時、女子美術大学付属高校に通っていた私は、「このまま短大に進み、卒業時に劇団を受ける」と約束したのです。
そんなとき、劇団四季が初めて夜間部の研究所を創設、研究生の募集が始まりました。夜間部なら昼間は大学にも通え、一石二鳥です。今度は親も研究所の試験を受けることを許してくれ、無事合格。けれども親の期待には結局、応えられませんでした。その理由は、夜間部の合格者は私1人だったのです。
劇団幹部の方が父の職場まで会いに行き、「お嬢さんを昼間の部に通わせてください」と父を説得してくださり、頑固な父も承諾。劇団に通い始めると、楽しくて、楽しくて。大学のキャンパスに足を踏み入れたのは入学式のみでした。
「外でがんばります」18歳でたんかを切った
そのまま劇団の役者になれたら順風満帆だったのですが、そううまくはいかないのが人生の皮肉なところです。
四季の浅利先生(創設者の1人、浅利慶太氏)にもかわいがっていただき、夢に向かって歩き出したのもつかの間、持ち前の反骨精神がむくむくと頭をもたげてしまいました。劇団としては、私を育てようと、四季の芝居を観ることに専念させ、必要な本を与えてくれたのですが、私は反対に狭い世界に閉じ込められたように感じてしまったのです。
「もっと広い世界を見ないと自分がダメになってしまう…」。そう思ったら、頭でっかちな私はもう止まりません。親の反対を押し切って入った四季をたった9カ月で辞めてしまいました。
私はよく覚えていないのですが、浅利先生に辞めることを伝え、「外でがんばります」と、自分から握手を求めたそうです。のちの笑い話で、先生から「18歳で俺と握手して辞めていったやつはお前だけだ」と言われました。
突然のスカウト。岡田太郎・吉永小百合夫妻に芸名をもらった
一途に憧れた劇団四季の舞台には一度も立てず、短大も中退し、何もかも失ってしまった私は、当時通っていたクラシックバレエの教室に行くのが日課になっていました。
そんなある日、四季のマネージャーをしている人にばったり再会。「これから台本を届けにフジテレビに行くけど、一緒に行く?」と誘っていただき、初めてテレビ局に連れて行ってもらいました。
そこで出会ったのが当時フジテレビのディレクターだった岡田太郎さんです。その日、私は黒いトレンチコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込んでリハーサルの様子を眺めていて、岡田さんと一瞬目が合ったのです。そのときはそれだけでした。ですが、数日後、四季のマネージャーを通して「会いたい」と連絡をもらったのです。
指定された喫茶店に行くと、岡田さんともう1人、番組プロデューサーがいて、新番組『歌だ!飛び出せ2万キロ』のリポーターを探しているということでした。それが事実上のオーディションで、その場でお2人が「うん、彼女でいこう」と。私は「YES」とも「NO」とも言っていないのに(笑)。
私の夢はあくまで「舞台」。しかし、全国を旅できて、おいしいものが食べられると聞き、興味をそそられました。自分のなかでは「面白そうなアルバイト」。ただ、世間的には芸能界デビューです。岡田さんが私の芸名を考えてくださることになりました。そして、新妻・吉永小百合さんが待っているマンションに呼んでいただき、吉永さんの「あなたの岡の字をあげたら?」の発案で、本名:五十嵐まゆみから、「岡まゆみ」になったのです。
あのとき、四季のマネージャーに会わなかったら、その後の私の人生はまったく違っていたかもしれません。ここから18、19歳とさらに激動の2年間が私を待っていました。
ポーラテレビ小説『絹の家』主役に大抜擢
初出演した歌番組のあとは、『クイズグランプリ』のアシスタントに呼ばれました。これも私にとってはアルバイト。ただ、『スター千一夜』とともに、フジテレビの毎日の顔的番組で、私は徐々にお茶の間に知られる存在になっていきました。
その裏で、私はある劇団の研究生になろうとしていました。入団が決まったら、テレビの仕事は一切辞めるつもりでした。ところが、入る直前になってその劇団が分裂。岡田さんが「舞台はいくつになってもできる。今、せっかくテレビに毎日出ているんだから、僕が事務所を探してあげよう」と親身になって動いてくださったこともあり、「プロダクション道」に所属することになりました。
女優・岡まゆみの初仕事は、ポーラテレビ小説『絹の家』のヒロイン。そのときまだ19歳でした。
ドラマの最終放送日は父の告別式だった
当時の記憶で忘れられないのは、『絹の家』の最終回と同じ日が父の告別式だったことです。もともと病気を患っていましたが、53歳、若すぎる死でした。残された母は専業主婦、姉は大学生、働いているのは私だけという状況でした。
私はその頃も、「舞台をやりたい」気持ちがぶれることはありませんでしたが、今は仕事があるだけありがたいと思いました。さらに、父が亡くなってからわかったのは、私が入学式しか行かなかった短大の入学金と授業料を、いまだにローンで払い続けていた事実。これには参りました。そして、思い詰めるように、「これからは父に代わって私が家の面倒を見なくては。そのためにも、テレビの仕事はこのまま続けよう」と心に誓ったのです。
おかげさまで仕事は途切れず、1日2本、3本とドラマのかけもちが続き、息つく間もなく日々を過ごしました。『まんがはじめて物語』という歴史番組も始まり、6年間モグタンのお姉さんを務めました。しかし、心のもやもやが晴れることはなく、それが次第に大きくなっていったのです。
26歳のとき、ついに「1年間、仕事を休ませてほしい。単身ニューヨークへ行きたい」と申し出ました。現場は当然、大反対。しかし、事務所の代表は、私の心が荒れているのを見て、「少し外を見ておいで」と言ってくれました。
収録の関係で最終的に1カ月半のお休みをいただきニューヨークへ。初日からブロードウェーを堪能し、それは楽しい日々を過ごしました。少しのびのびした気分で日本に帰ってきたとき、古巣の四季から「戻って来ないか」とお話をいただいて、心が揺れました。そして、「1年待ってください」とお願いし、その後、レギュラー番組をすべて降板して再び四季に戻ったのです。
舞台もテレビも、人生の枝葉の1つに
今は四季を離れ、舞台だけにこだわることなく、私にやれることを1つでも多くやりたいと、テレビ、映画、求められれば何でもやらせていただいています。「その心境の変化はどこにあったの?」と聞かれると難しいのですが、きっかけは還暦です。
本当は60歳になるのが嫌でした。でも、何か目標があれば、超えられるかもしれないと思い、一番苦手なことをやろうと、歌を始めたのです。すると、音のシャワーを浴びるステージが心地よく、あらたな世界に目覚めました。今はJAZZを勉強中で、年に数回、ライブを開いています。
そうなって初めて、「舞台にしか立ちたくない」と、退路を断ってきた過去の自分がウソのように消えたのです。今は自分という太い幹にたくさんの枝葉があっていいじゃないか、という感覚です。その1つが舞台であり、歌であり。不器用な自分がやっとそういう気持ちになれました。
今は93歳になる母と2人暮らしですが、母もまた枝葉の1つと考えるように努めています。母は私にとって誰よりも大きい存在。でも、私も人生の終盤に向かっています。自分も大切にしながら健康に留意して、悔いのない日々を送っていきたいと思います。
(東京都内にて取材)
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