W杯ドイツ戦で決勝ゴールを決め なでしこジャパン初のベスト4、そして優勝へ
- 丸山 桂里奈さん/元なでしこジャパン代表
- 1983年生まれ、東京都出身。現役時代のポジションはフォワード。2002年、第14回アジア競技大会の北朝鮮戦でなでしこジャパン代表デビュー。03年、第4回FIFA女子ワールドカップ出場。04年アテネオリンピック、08年北京オリンピック出場。11年、第6回FIFA女子ワールドカップで優勝を飾る。12年ロンドンオリンピック準優勝。16年に現役引退、現在はタレントとしてバラエティー番組で活躍中。著書に『丸山式「謎手紙」のススメ』がある。
好きな男の子に誘われ小6でサッカー少女に
生まれは東京大田区の大森です。明るくにぎやかなことが好きな両親と兄に囲まれ、私もおしゃべりで活発な女の子に。また、父は野球、母は陸上にテニス、兄も陸上というスポーツ一家で、私も小学校の6年間はずっと陸上部でした。小さいころから足は速かったです。
小学6年生のとき、好きな男の子ができて、その子に「一緒にサッカーをやろうよ」と言われたのがサッカーを始めたきっかけです。陸上で鍛えた足が生き、初めてボールを蹴って走ったらチームの男の子全員を抜けたのが面白くて、がぜん真剣になりました。
中学に入る少し前、東京ヴェルディの女子チーム「ベレーザ」の下部組織「メニーナ」のセレクション(選抜試験)があることを知りました。受けに行くと500人ぐらいの同じ年の女の子が会場にいて、「女子でサッカーをやる人ってこんなにいるんだ!」とびっくりしたのを覚えています。めでたく合格し、中学1年生からは下部組織での本格的な練習が始まりました。
「ベレーザ」には日本代表に選ばれるような有名選手がたくさんいて、澤穂希選手もその1人でした。澤さんが、そのころからなぜか私のことをかわいがってくれ、「自分も大人になったら、澤さんと一緒にサッカーができたらいいな…」と、密かな憧れを持っていました。
アメリカでの挫折がサッカー人生を変えた
日本代表メンバーに初めて選ばれたのは19歳のときです。最初の遠征で同室になったのは澤さん!不思議な縁を感じました。
それまでもU‐18などカテゴリー別の代表には入っていましたが、A代表となると年齢も幅広く、伝統的なしきたりもあって、サッカー以外の礼儀や挨拶、上下関係はとても厳しかったです。「うまいだけじゃ代表にはなれない」と思い知ったのもこのとき。でも、「うまいだけじゃダメ」の本当の意味を知ったのは、2010年、トライアウトを受けてアメリカのフィラデルフィア・インディペンデンスに移籍し、プロチームで1年を過ごしたときでした。
年俸や背番号が決まり、意気揚々とアメリカへ。しかし、日本で交わした契約では通訳がつくはずが、現地に着いてみると英語を訳してくれる人がいません。困ったのは細かい戦術が分からないことです。日本で英語の勉強をしてこなかったことを悔やみましたが、それも後の祭りです。監督にすれば、技術的に未熟でも戦術の分かる選手を使ったほうが勝つチャンスがあるというもの。結局、私はスタメン入りもできず、出場したのは年間たった3試合くらいでした。
このとき、サッカーで初めての壁にぶち当たりました。自分で望んだアメリカのプロリーグだったのに、つらくてホームシックにもかかりました。
監督から「このままチームにいても試合には出られない。日本に帰っていい」と言われて、悩んだ挙句に相談したのは、同じころ、ワシントンのプロチームで活動をしていた澤さんです。「自分が一度決めたなら、ワンシーズンは踏ん張らないとアメリカまできた意味はないよ」と澤さんに励まされ、どんなに悔しくてもシーズン終了まではこのチームで自分ができることをやろうと、覚悟が決まりました。
いいプレーを見せて福島に元気を届けたい
日本に戻ってジェフユナイテッド市原・千葉レディースに移籍したあとも、サッカー一筋で生きることを選びました。日本の女子サッカー選手は、なでしこジャパンのメンバーであってもアマチュアの立場で世界の試合に参加しています。仕事を終えてクタクタに疲れて練習にくるチームメイトを見ていて、サッカーだけに没頭できる環境をつくりたいと思ったからです。ベストを尽くすことで、アメリカでの一年間外れていた代表に、また選ばれたいという強い思いもありました。
私の場合は実家暮らしで、アメリカで得たお金もあったので、貯金を切り崩しながらやりくりしていました。
そんなとき、東日本大震災が起きたのです。千葉県は地震による液状化現象で一時、練習もできなくなりました。でも目前にはW杯があり、どうしてもメンバーに選ばれたい一心で、毎日20キロの走り込みをすることにしました。走っていると、渡米前に所属していた東京電力・マリーゼでお世話になった福島の人たちの顔が思い浮かびます。「W杯でいいプレーを見せたい。どうにか福島の人たちに元気を届けたい」と、トレーニングに力が入りました。
佐々木則夫監督(当時の日本女子代表監督)いわく、「丸山はそれを機にプレーが変わった」「今までと気迫が違う」。実は、帰国後の私をずっと見てくれていたのです。それで再び代表に選ばれました。
アメリカでの挫折、東日本大震災がなければ「今までの自分でいい」と、逆にW杯のメンバーには選ばれなかったかもしれません。挫折したことで見える世界が変わって、もう一つ粘り強く踏ん張れるようになったかなと自分では思っています。
光の道筋通りに蹴ったドイツ戦の決勝ゴール
そして臨んだW杯ドイツ大会。ドイツ戦では延長戦で決勝ゴールを決め、初のベスト4進出。まさかの優勝まで果たしました。
あのときのことは今でも鮮明に記憶しています。私のポジションはFWですが、スーパーサブといって、試合の流れを大きく変えたいときに起用されるメンバーです。ドイツ戦では珍しくハーフタイムで呼ばれました。「0‐0」のまま延長戦後半にもつれ込み、監督から「この試合に勝つために点を入れ、歴史を変えられるのはお前しかいない」と送り出され、「ここで決めるしかない」と思ってピッチに戻りました。
そしてプレーが始まり、澤さんのアシストでボールを受け取ると、不思議なことにそのボールからゴールに向かってスッと光が見えました。「このまま蹴ればいいんだ」と思い、ゴールを見ずに光のイメージ通りに蹴ったのです。その数秒間は、観客が何万人もいたのに、ピタッと声が消えていました。再び大歓声がワーッと戻ってきて、「決勝ゴールが決まったんだ!」と分かりました。
あんな奇跡のような出来事は、サッカーをやってきて最初で最後でした。ゴールを決めたのは私ですが、いろんな人の想いが乗って得点できたのだと思います。とても特別な、今までに感じたことがない瞬間でした。
自分の決めたやり方でサッカー界に恩返し
W杯の2カ月後に大けがをしてしまい、思うように力が出せなくなって、2016年に現役を引退。その後は「元なでしこジャパン」のタレントとして活動しています。わざわざその肩書を付ける理由は、私がテレビに出ることで女子サッカーの映像が流れ、目を向けてくれる人をもっと増やしたいという思いからです。
ところが、最初は「ぶっちゃけキャラ」「なぜサッカーの仕事をしないんだ」と多くの批判の声がありました。親しい人にも言われたときはショックでしたが、自分が決めたやり方でサッカー界に恩返しができればいいと、何を言われようとずっとやり続けました。すると徐々に「あの番組見たよ」「面白かった」とまわりも認めてくれるように。自分を信じて進んでよかったと思います。
意外かもしれませんが、芸能界の仕事はいつも緊張しています。ただ、私は自分らしく、できることをやればいいという感覚です。そうすると、芸人さんたちが助けてくれたり、フォローしてくれたりするのです。みなさん努力家で頭がよく、人間的にもできた魅力ある人ばかり。そういう人たちと仕事をご一緒できることが、今は一番幸せです。
共演者に手紙を渡すのは昔からの習慣
番組で共演するみなさん1人1人に、小さなお菓子に手紙を添えて渡すのが私のルーティンです。これは親譲りだと思いますが、子どものころからとにかく手紙を書くことが好きなのです。
選手時代は、遠征先から必ず両親にエアメールを書いていました。同室になった選手にもこっそり手紙を書くのですが、1カ月後ぐらいにふいに届くので、よく驚かれていました。その習慣が今も続いているというわけです。逆に手紙を渡せないと、ルーティンが守られていないせいか今一つ調子が出ません(笑)。
2年前に結婚した本並さん(元日本代表のGK・本並健治さん)にも手紙は書きます。最近は、「コンビニに行ってきます」とか「これは夜に食べてね」とか、付箋を貼るような連絡事項が多いですね。誕生日には少し長いお手紙にしています。
本並さんとは、スペランツァFC大阪高槻で監督と選手という関係から、その後、同じ事務所の所属になり、サッカー教室の指導内容を相談したのがきっかけで恋人に発展し、結婚しました。
今後の夫婦の目標は、夫婦でCMをやること!2人ともけっこう体を張れるほうなので、多少ハードな撮影でも問題ありません(笑)。プライベートでは、「子どもが欲しい!」と。目下の話題は「子どもが生まれたらサッカー選手にしたいかどうか」で、本並さんは「女の子が生まれたら、プロゴルファー」と言います。2人の子どもならメンタルは強い子になると思うので、自分を信じてできるスポーツがいいかなと、私も最近、思うようになりました。
(東京都目黒区にある事務所の一室にて取材)
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