父は「世界のクロサワ」、母は元映画女優 大河ドラマなどの衣装を手がける
- 黒澤 和子さん/衣装デザイナー・エッセイスト
- 1954年、黒澤明の長女として東京に生まれる。スタイリストの仕事をしながらファッションデザイナーを目指し、フランス留学の準備に入るも結婚が決まり断念。出産後ファッション関係の仕事に従事。その後、離婚を経て、黒澤プロダクションにて父の秘書的仕事をする。90年の『夢』から黒澤組に参加。『八月の狂詩曲』(91)、『まあだだよ』(93)と衣装を担当。近年は、映画のほか、大河ドラマ『西郷どん』『麒麟がくる』『青天を衝け』を担当するなど、衣装デザイナーとして活躍。エッセイストとして著書も多数。
父・黒澤明は素直で無防備な人
父・黒澤明の最大のヒット映画『七人の侍』の打ち上げの日に、黒澤家の長女として生まれました。母は元映画女優の矢口陽子、兄・久雄とは9歳違いです。
黒澤明といえば、180センチを超える大男で、何かといえばすぐ怒鳴る、頑固一徹の独裁者というイメージを持っている人が多いでしょう。でも、娘の私から見ると少し違います。あれは現場で必死になっているだけで、家では子どもみたいに素直で、裏表がなくて、映画のことしか考えていない、無防備な人でした。家族全員が黒澤映画に向かって動いているという感じで、「勉強しろ」なんてうるさいことも言われませんでしたし、私は怒られた記憶もありません。
ただにぎやかなことが好きで、人に食べさせることが好き。私の幼い頃は、映画関係者が家に頻繁に出入りするのはもちろん、誰かが住んでいたり、居候がいたりで、高校生ぐらいまでは家族水入らずで過ごすことはありませんでした。知らない人が家でご飯を食べていて、「あの人誰?」と父に聞いても、「知らないよ」なんていうことも。それがうちらしい日常の光景でした。
母なくして黒澤映画はできなかった
一方の母は気風がよくて、明るくて、父より男らしかったんじゃないでしょうか。父が黙っているときは、たいてい映画の構想を練っているので、母の話をほとんど聞いていません。同じ話を3回繰り返して、「あ、聞いていないわね。こういうときは言っても無駄ね」と、さっぱりしたものでした。そんな母でなければ父の妻は務まらなかったでしょうし、黒澤映画の陰の首謀者は母だったと思います。
また、母の料理の腕はたいしたもので、その料理を食べさせたくて、父は人を呼んでいました。お正月は特に多く、入れ代わり立ち代わり100人くらいは来たでしょうか。私も小学校2、3年から台所に入り、忙しい母を手伝っていましたが、年末年始は包丁を使いすぎて腱鞘炎になったほど。手を氷水に浸けながら料理していました。
中学に上がる頃には、母が「もうおせち料理は和子に任せるわ」と。それぐらい分担しないと本当に回らなかったのです。その代わり、父が地方ロケのために家をたつと、「バンザーイ!バンザーイ!さあ、和子、銀座に行こう!」と言って、それから何日も学校を休んで銀座で買い物をしたり、食事をしたり。両親とも「いいものを見ている子は良く育つし、愛されている子は良く育つ」が口癖で、学校にはそれほど重きを置いていなかったようです。
誘拐騒ぎで学校以外、外出禁止に
私は小さいとき、突然、ワーッ!と泣くので「爆弾娘」と呼ばれていたそうです。小学校に入った頃から、「黒澤明の娘だから」といじめられて、それで少し暗くなってしまって、元祖登校拒否児になりました。
でも、父も母も「学校に行け」とは言わなかった。父は縁側に画用紙をポンッと持ってきて、「好きな絵でも描いてごらん」と、気にもしていないようでした。もともと心配性で、林間学校などで私が家にいないと、「飲まなきゃやってられないよ」と朝からふてくされていたぐらい。そうすると「学校に行ってみようかな」という気にもなるもので、自然と不登校は解消しました。
ところが、誘拐事件を題材にした映画『天国と地獄』のあとに、「お前の娘を誘拐するぞ」という脅迫がきて、今では笑い話ですが、父と母がひどく心配して、学校以外、外出禁止に。学校の送り迎えは運転手付きという時期がありました。そのときは囚われの身というか、自由がなかった。だからか、夢見がちな少女に育ってしまったのかなと思いますね。
夢はなくても花は咲かせられる
ファッション関係の仕事に進んだのは、母の影響です。祖母がとてもおしゃれな人で、そのセンスを受け継ぎ、母も着るものに凝って、家族全員の洋服も母が生地を選び、デザインしていました。
その母が、ある日突然、私の部屋に入ってきて、「今どきの女の人は、職業を持っていないとダメよね。離婚もできないし」と言うのです。たぶん父とケンカしたのでしょう。それで、「あなたも仕事を決めなさい!」「何になりたいの?」と言うから、とりあえず「ファッションデザイナー」と答えました。あまりにすごい剣幕だったから、それに押されて答えただけで、そんなに深い意味があったわけではありません。
ところが、すぐにフランス語の先生を呼んできて、高校を中退してスタイリストの学校に行くことになり、咄嗟(とっさ)に口にしたことがどんどん現実になってしまったのです。
でも「それでいい」というのが私の考え方です。家族の中心はともかく「黒澤映画」であり、父と、父を支える母のことが優先される家でした。だからといって、そこに不満を持って生きるのは嫌だった。だったら、自分に与えられた環境で精一杯やってみよう。そうすればおのずと結果はついてきて、きっと自分の花が咲くだろうと。子どもの頃から染みついたその性格は、今でも変わっていません。
父のひと言で映画界へ 一生の仕事をもらった
母の他界後、「一緒に働こうよ」という父のひと言から33歳で映画界に入ったのも、自分の意志や夢があったからではありません。
普通なら反発したり、逆らったりするでしょうが、そういう感情はなかった。最初は「黒澤明の娘」という目線もありましたが、衣装部に回され、人の10倍働けば文句は言われないだろうと必死になってやっていたら、衣装デザイナーと名乗れるようになりました。これは親にもらった財産だと思います。
それに、母という緩衝材がなくなったことで、私が父の身の回りの世話をすることになり、父との距離がぐっと近づきました。実は母が生前腹を立てたほどの似た者父娘。すっかり意気投合して、仲良く楽しく同志のように、十数年を片時も離れず過ごしました。それは輝くような、実り多い日々でした。
世間の枠に自分たちをはめても仕方ない
私は21歳で結婚、2人の男の子を産んだ後に離婚し、黒澤姓に戻りました。でも、母は何も言いませんでした。父に至っては、奇想天外な人ですから、離婚して2年も経って「お前はいつから黒澤になったんだ?」「黒澤に戻ってきたのか!」とうれしそうな顔をしていました(笑)。
その後、もう1人、男の子を産んだときも、何も聞かずひたすら孫をかわいがってくれました。父も母も世間体なんて大嫌い。それが普通の家だったので、私も元夫や新しい奥さんと今も仲良く、家族ぐるみのお付き合いをしています。自分がこだわらなければ、人の輪は広がる一方です。
自分に素直でないと人生を生き抜けない
私にとって、仕事の一番の原動力は自分が楽しいこと。そして、適度にガス抜きをするのが長く続く秘訣(ひけつ)だと思っています。
昔の衣装をデザインするのに時代考証はとことんやりますが、そんなに根は詰めません。合間にゲームもとことんやっちゃうんです(笑)。だから、「私、すごいがんばってるな」と思う必要がない。そのあんばいがストレスなく生きるコツなんだろうと思うのです。
仕事でなくてもそうで、やりたいときはとことんやる。嫌になったらやめる。自分に素直でないと、長い人生は生き抜けません。今はコロナ禍ですが、真面目に、深刻になりすぎてもしょうがない。だったらおいしいものを食べて、楽しい気持ちになったほうがいい。黒澤家を生きてきてもアップアップしなかったのは、そういう考えだったからだと思います。
子育てには親が楽になる部分も
その時代にどんな素材・色の着物を身につけていたのか、地域や身分の上下によってどう違っていたのか、それこそ飛鳥時代から幕末まで時代考証し、資料を集めたり、整理したり。仕事の依頼がなくてもある程度準備しておくのです。そうすると、どんな時代の作品がきても、デザインや生地選びまで短時間で決断できる。映像の仕事はここでクランクインしてここでクランクアップしないといけない、時間との闘いなので、決着は早いほど喜ばれます。
大河ドラマなど長い作品になると、衣装も何千着にも及び、準備を入れると2年ぐらいの期間がかかります。でも「こんなにやらなきゃいけないの?」と思ったら、人間、力が入りすぎてうまくいきません。「今日が最善だったら、明日はもっとよくなる」ぐらいで、気楽にかまえているほうがいいのかなと思います。
それに、今は3人の息子たちが私をサポートしてくれます。長男はオフィスの社長としてビジネス面を、次男は私の片腕に、三男は絵を描いて力を発揮してくれるので、仕事もますます楽しめています。
3人とも料理が上手で、この頃、私はまったく料理をしなくなりました。子育てというのは、子を育てることで親が楽になるという部分も必要だと思います。この先も4人のチームプレイで、泳いでいるみたいに楽しくやっていけたらと思っています。
(都内にて取材)
(無断転載禁ず)