どうやれば嫌われるか…そればかり考える毎日
- ダンプ松本さん/プロレスラー・タレント
- 1960年生まれ、埼玉県出身。80年、本名・松本香で全日本女子プロレスデビュー。84年、リングネームをダンプ松本に変更し、クレーン・ユウと「極悪同盟」を結成。クラッシュギャルズ(ライオネス飛鳥&長与千種)との抗争を通じて、全女のプロレス人気をけん引した。88年、人気絶頂のなか、突然プロレス界から引退、タレントとしてドラマや舞台に多数出演。2003年、現役復帰し「極悪同盟」を再結成。還暦を迎えた現在も、芸能活動をしながらリングの上に立ち続ける。
お金持ちになって母に楽をさせたかった
プロレスに興味を持ったのは、中学生のとき。当時、人気絶頂だったマッハ文朱さんが試合に負けたあと、リングの上で泣きながら『花を咲かそう』を歌う姿を見て、衝撃を受けたのがきっかけです。従来の女子プロレスとはまったくイメージの違う、アイドルスターの世界観に夢中になり、「自分もプロレスラーになりたい」という夢を持ちました。
高校生になると、マッハさんに代わって今度はビューティ・ペアが人気の頂点に立ち、さらに熱が高まりました。私はジャッキー佐藤さんのファンになって、友達と“追っかけ”をするように。対戦相手のヒール役が反則攻撃をするたびに「ふざけるな!バカヤロー!」と怒鳴っていました。数年後、自分が怒鳴られる側になるとは、そのときは思っていませんでしたが(笑)、プロレスラーへの憧れもどんどん強くなっていきました。
その想いを後押したのが、「お金」です。うちは父が働かず、母が布団張りなどの内職で得たわずかな収入で私と妹を育ててくれたのです。子ども心に「なぜうちはこんなに貧乏なんだろう」と思っていました。そんなとき、「プロレスラーになればOLの給料の倍以上稼げる」という記事を見つけたのです。「強くなればなるほど収入が上がる」とも書いてあり、自分がプロレスで稼いでお母さんにおいしいものを食べさせてあげたい、洋服を買ってあげたいと本気で考えるようになりました。
もとは同期だったクラッシュギャルズ
全日本女子プロレスには2回目のオーディションで合格しました。ビューティ・ペアの人気もあって応募者は6000人ぐらいいたそうです。合格した同期十数名のなかに、のちにクラッシュギャルズになるライオネス飛鳥とオーディション枠ではなかったけれど長与千種、大森ゆかり、極悪同盟を組むことになるクレーン・ユウがいました。
特に私と千種、クレーン・ユウは落ちこぼれ組。優等生でうまい人は新人でも試合に出られますが、私たちは地方巡業にも連れていってもらえず、寮に残されることが多かった。「荷物を持って家に帰れ!」と、しょっちゅう怒られていました。
先輩の壮絶ないじめ。ゲームのお金を渡されて
やっと巡業に連れていってもらえるようになっても、落ちこぼれ組は標的になり、先輩からよくいじめられました。
今でも覚えているのは、移動するバスのなかで『人生ゲーム』で使うお金を渡され、「これで饅頭を買ってこい」と言われたこと。もちろん買えるわけはありませんが、上下関係が厳しい世界ですから、逆らえません。手ぶらで戻ると、私を置いてバスが出てしまい、必死で走って追いかけるということがありました。
それでも逃げなかったのは、まだ稼いでもないのに、このままやめたらやめ損だと思ったからです。それに、リングの上なら先輩も後輩も関係ない。強くなって「いじめた奴を一発ぶん殴ってからやめたい」という一心でがんばっていました。
下積み4年を経て「極悪同盟」を結成
プロレスはビューティ・ペアのような「ベビーフェイス」と悪役の「ヒール」に分かれているのはご存じでしょう。私は自分からヒールを希望しました。理由は、マッハさんやジャッキーさんのように身長も高くなく、すらっとカッコいい、いわゆる“人気者タイプ”ではなかったからです。
一方のヒールなら、実力で強くなれば他をおさえてのし上がることができる。「私の生きる道はこっちだ」と最初から決めていました。そして、そのビッグチャンスが4年後にやってきたのです。
クラッシュギャルズの人気に火がつき、対抗する強力な悪役チームが必要になり、白羽の矢が当たったのが私とクレーン・ユウです。「極悪同盟」の名前は仲のいい記者さんが考えてくれました。
ヒールのメインに指名されたのを機に、リングネームを本名の松本香からダンプ松本に改名。金髪に暴走族が着るような革ジャン、チェーン、ポリスの帽子、サングラスと、コスチュームは全部自分で考えてイメージチェンジをはかりました。
極めつけはあの派手なペイントメークです。アメリカの人気ロックバンドKISSをヒントに毒々しいメークを施しました。これは童顔とえくぼを隠すためでもありました。その後、「日本で一番殺したい人間」と呼ばれることになるダンプ松本が誕生したのです。
「クラッシュのライバルになるからには、日本中のファンから嫌われる最高のヒールになろう」と心に誓いました。
私生活もヒールに徹し実家には石を投げられた
嫌われることが自分の仕事です。クラッシュギャルズをいじめればいじめるほどファンが泣いて、自分が嫌われ、クラッシュ人気はさらに高まる。そうなれば女子プロレス界が盛り上がり、自分のギャラが上がる。どうやって嫌われるか、毎日それだけを考えていました。
転機になったのは、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた試合です。会場の広さに私は驚きました。2万人近い収容人数があり、過剰なほどのオーバーアクションでなければ後ろの席からはどちらがヒールかわからない…。そのとき、「そうか、これを日本でやればいいんだ!」と気づいたのです。
これが私のスタイルになり、リングで悪の限りを尽くすようになりました。案の定、ものを投げられたり、罵声を浴びせられたりするように。自分のやっていることは正しかったんだと、確信を持ちました。
しかし、「リングを下りたらやさしい人」と思われてしまったら、元も子もなくなります。絶対に笑わない、ファンと口をきかないと決め、プライベートでも徹底しました。近所の人に「香ちゃんのサインがほしい」と言われると、目の前で色紙を投げ捨て、「家まで来るんじゃねえよ!」と追い返したこともあります。あとで母がお酒を持って謝りに行ったそうです。怒った母に「もう帰ってこないで」と言われて、2年ぐらいは実家にも帰りませんでした。
ファンの行動もエスカレートし、実家に石を投げられ、新車に傷をつけられ、バイクをパンクさせられ、タクシーには乗車拒否されました。それでもお金持ちになるために、ダンプ松本を貫くことはやめませんでした。
突然の引退。リングで流した涙…
引退したのは27歳でした。まだ体力があり、プロレスも大好きでしたが、会社の方針が自分に合わなかったのが大きな理由です。クラッシュギャルズとの抗争を繰り広げる相手が急にいなくなれば会社が困るだろうと、これまで会社の指示に従ってきましたが、最後の最後に反旗を翻しました。
引退試合では、マイクを渡され、「ちーちゃん、飛鳥のファンのみなさん、今までクラッシュをいじめてごめんなさい!」と叫びながら、涙があふれて止まりませんでした。会場のファンもみんな泣いていました。自分なりのけじめをつけ、嫌われ者のダンプ松本にも別れを告げたのです。
引退直後は母の誕生日でした。「お母さん、何が欲しい?」と聞くと、「家が欲しい」と。娘が“ダンプ松本”だったことで苦労をかけた母に一軒家をプレゼントし、恩返しをすることができました。
父のことはずっと嫌いでしたが、3年前に亡くなる少し前、体を壊してからはやさしく接するようになりました。88歳の母は今も元気で、一人で身の回りのことをこなしています。ただ高齢なので、妹と交代で実家に行き、買い物などを手伝っています。
涙を笑顔に変える プロレスには夢がある!
実は、2003年から再び「極悪同盟」にかかわることになりました。「今は試合にお客さんが入らず困っている。もう一回『極悪同盟』をつくって、マネージャーとして手伝ってくれ」と言われて承諾したのですが、北海道巡業のチラシに“選手”として私の名前が刷られていたのです。
話が違う! と言ったところであとの祭り。ですが、リングに上がり、お客さんに喜ばれたらやはりうれしいものです。それに、私が試合に出ることでチケットが売れれば、若い選手たちもギャラを受け取れます。プロレス愛は失っていなかったし、仲間が好きだったから、そこに迷いは生まれませんでした。そのまま現役に復帰、一昨年にはデビュー40周年を迎えました。
なぜそこまでプロレスが好きなのかと聞かれます。答えは「プロレスには夢がある」からです。昔、クラッシュのファンにはいじめられっ子が多かった。やられても、やられても、立ち上がって、千種が私に向かってくる姿を自分に重ねて、「私も逃げずに学校へ行く」とがんばっていた子たちがいたのです。そして、「ダンプ死ね!」「バカヤロー!」と会場で大声を出して、ストレスを発散していたそうです。それと同じで、今、仕事や家庭、人間関係で悩んでいる人がいたら、プロレスの試合会場に来て怒りをぶちまければいいと思うのです。一人で泣いていないで、スッキリして笑顔を取り戻してほしいと思います。
私の夢は、年を取ったらプロレス仲間みんなで暮らせる家をつくること。大きなリビングでプロレスのビデオを見ながら昔話に花を咲かせ、最後まで笑っていたい。そのためにも今を大切に、身体を張ってがんばろうと思っています。
(都内にて取材)
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