農家に生まれ、高校中退し上京 流行りに乗らず“ナオコ流”で
- 研 ナオコさん/歌手、タレント
- 1953年静岡県生まれ。歌手になるため高校を中退し16歳で上京。71年『大都会のやさぐれ女』でデビュー。『愚図』(作:宇崎竜童&阿木燿子)、『あばよ』『かもめはかもめ』(作:中島みゆき)、『夏をあきらめて』(作:桑田佳祐)などヒット曲多数。タレント、女優、コメディエンヌとしてCMやドラマ、バラエティー番組でも活躍し、2020年で歌手デビュー50周年を迎えた。YouTubeチャンネル「研ナオコ Naoko Ken」も人気。
小さい頃から「人は人、自分は自分」
物心ついたころからずっと「私は私」。みんながやっているから自分も、というのは嫌いでした。みんながやらないならやろうと。要はへそ曲がりなのです。同じ年頃の子どもたちと遊ぶのも面白くなくて、表で「な~おこちゃん、遊びましょ」という声がすると、「い~な~い」と返事をして、一人で遊んでいました。
田舎の大きな樽風呂を締める鉄製の輪っか(タガ)をフラフープにしてぐるぐる回したり、あぜ道で風呂敷マントを風になびかせながら走ってスーパーマンになりきったり。遠くにおいしそうな柿やみかんを見つけると、木に登って実を取って食べるのも遊びの一つでした。あるとき、細い枝の先まで登ると、その枝が突然しなり、ボキっと折れて。下が畑だったので何ともありませんでしたが、それから高所恐怖症に。バチが当たったのです。今も家の2階から下を見るのが怖いです。ステージの階段を上るのも怖いので、コンサートではなるべく使わないようにしています。
どうしても上京して歌手になる!
そんな私が歌手を目指したのは、小学生のとき、のど自慢大会に飛び入りで歌ったことがきっかけです。
小さいころから歌が好きで、歌手には憧れがありました。テレビの歌番組を見ると、みんなきれいなお洋服を着ていて、「歌手になったらお金持ちになれるんだろうな」と。子どもだから、単純です。うちは農家で、両親は毎日朝から夜遅くまで働き詰めなのにお金がありません。親が苦労しているのを見て育ったので、歌手になって稼いで楽をさせてあげたいと思ったのです。でも“歌手”はとても遠いところにあって、もっと身近な職業として、バスガイドや美容師、幼稚園の先生を思い描いていました。ところがそののど自慢大会で静岡地区の決勝まで進んでテレビ放映され、そのとき「本当に歌手になりたい」と思いました。
高校生になった私は、「どうしても東京に行って歌手になる」と決意。いまでもそうですが、思い立つとすぐ行動に移してしまいます。せっかく入った高校を中退し、上京しました。その後、宝塚劇場の照明をやっていた叔父から「映画会社の東宝がレコード会社をつくるらしいから、オーディションを受けてみないか?」と言われて、父親と一緒に会社を訪問。そこで無事合格し、レコード会社が決まりました。
無名の歌手が苦労するのは当たり前
17歳のとき『大都会のやさぐれ女』で念願のデビュー。ところがレコードがなかなか売れません。あの当時、無名の歌手がラジオやテレビ番組に出るには、オーディションに受からなくてはいけませんでした。オーディション仲間には野口五郎さんがいて、いつも一緒に落ちていました。「今日もダメだったけど、次はがんばろうね」とお互いに励ましあった仲です。
一方、オーディションを受けずに番組に出る人もいます。「この差はなんだろう?」と感じることもありましたが、私たちイチオシでない歌手はキャンペーンで日本全国を回る日々。町から町へ夜行列車での移動だったので、2カ月間お風呂に漬かれなかったこともあります。でも、何も知らずに芸能界に入りましたから「売れるためには仕方ない」「あとは誰かと巡り会って、いい作品と巡り合えば、いつか売れるだろう」と思っていました。
私にぴったり合う曲はこれだ!
その後、元ザ・スパイダースのドラマー、田邊昭知さんが代表を務める田辺エージェンシー初の所属歌手・タレントとしてスタートしました。すると、生活が一変。次から次へとドラマやバラエティー番組に出て大忙しでした。愛川欽也さんと共演したカメラのCM「僕は美人しか撮らない」「だからシャッターは押さない」が評判になるなど、異色のタレントとして顔が売れ、知名度が上がりました。
ところが本業のレコードが売れない。歌っている本人も「売れないかもしれない」と感じながら歌っていたので苦しかった。聴いてくれる人に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。その思いを田邊社長にぶつけ、レコード会社も移籍。このとき宇崎竜童さん、阿木燿子さん、社長、私の4人で会い、「ナオコはこういう人間だ。感じたまま好きに書いてくれ」とお願いして上がってきた『愚図』がヒット。歌手として大きな転機になりました。
その次には、中島みゆきさんとの出会いがありました。飛行機内でたまたま耳にした中島みゆきさんの曲『アザミ嬢のララバイ』が気に入って、隣に座っていたマネージャーに「東京に帰ったらこの人に曲をつくってとお願いして」と。中島さんがまだ知る人ぞ知る存在だったからよかったのです。それで、『あばよ』『かもめはかもめ』など、今も大事にしている曲をつくっていただきました。
私は、自分に合う曲を見つけるのがうまいのです。桑田佳祐さんの『夏をあきらめて』もそう。サザンオールスターズが新しいアルバムを出すというので聴いたとき、音楽スタッフは『私はピアノ』を推していましたが、自分にはこっちのほうがいいと直感的に思ったのです。『私はピアノ』は結局、高田みづえさんが歌い、両方ともうまくいきましたね。
結婚、出産、子どもの心配は今も
テレビ番組のレギュラーに歌番組、忙しい毎日でしたが、20代は遊ぶことも一生懸命でした。寝る暇を惜しんで、夜の街に遊びに行くことがまた楽しかったのです。プライベートな時間で一息つくことで、精神的なバランスを取っていたのかもしれません。
すぐに社長に見つかって「今日からは絶対に行くなよ」と言われても、遊びに行っていました。給料は安いのにタクシー代がかかるのはもったいないと、自転車まで買って。お店まで乗りつけて、黒服さんに「これ、よろしく」って預けて。私はお酒が飲めないので、オレンジジュースとかでしたが(笑)。
その後、34歳で結婚。子どもができて「親」になり、2人の子どもを育てながら仕事をしていくという体験をさせてもらって、人間的に成長させてもらっているなあと、いつも感じていました。
一番大変だったのは、子どもたちがまだ幼稚園の頃です。毎日お弁当を作りますが、仕事が夜中まであって、目まいを起こして台所で倒れてしまったのです。何とかがんばらなくちゃと思っていたのに、私のせいでその日は子どもたちを休ませることになり、かわいそうなことをしたと思いました。
今は2人とも大きくなって、いろんなことに挑戦しているところです。ただ、いつまで経っても子どものことは心配です。母親ってそういうものだと思います。
シリアスな私も面白い私も、どっちも私
昨年、歌手デビュー50周年を迎えましたが、コロナ禍でコンサートや舞台もすべて中止や延期に。急に時間ができたのでYouTubeを始めたところ、思わぬ人気に私がびっくりしています。
最初は子どもたちに「ちょっとやってみたら?」と言われたのがきっかけでしたが、コロナウイルス撃退のために扮(ふん)した“アマビエ動画”や、すっぴん状態からフルメイクが完成するまでの“メイク動画”がネットニュースで話題になり、ありがたいことにファン層がさらに広がりました。「癒やされます」「たっぷり笑いました」なんてコメントもいただきます。本当はもっと面白いけどね、もったいないから隠してます(笑)。
歌はシリアスな曲も多いですが、どっちも私。楽しいことをやるときは思い切って体も張ります。でも、表現の仕方が違うだけで、どちらも力の入れ方は一緒です。これからも流行りに乗らず、自分流でやっていきます。
血はつながらなくても家族になれる!
私の元気の秘訣は、楽しみを見つけて笑うことです。自分が思う「いい子」をみんな近所に集めて、一緒にご飯を食べたりして、家族みたいにしちゃう。長年、お仕事をお願いしているヘアメイクさんもそうです。マネージャーなんてもう23年間、一緒に住んでいます。うちのボスです(笑)。
そして、家族同様の人たちのご両親もコンサートにお呼びしたり、楽屋に遊びにきてもらったり。そういうお付き合いが好きなのです。
なぜそこまでするのと聞かれることがありますが、その人たちの親御さんに安心してもらいたいというのが私の中の理由です。芸能界というのは、外から見るとよくわからない。でも、私がテレビに出ていれば「研さんの仕事をしているんだな」とわかってもらえるし、楽屋に来れば「娘は大事にされているんだな」とホッとするでしょう?今は離れてしまったマネージャーでも、「お母さんがコンサートにいらっしゃるなら、必ず楽屋に呼んで」と。それも親孝行になりますから。
そういうつながりが、実は私ががんばる原動力にもなっているのです。たとえ血はつながっていなくても、好きな人と話していれば自然と楽しくなるし、笑いが出ます。今、この瞬間、一緒にいてくれる人たちが、私と同じように“家族”の存在を感じてくれればいいなと思っています。
(東京都港区の国際文化会館にて取材)
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