バドミントンが五輪の正式種目に 「1%の可能性」にかけて選手続行

- 陣内 貴美子さん/元バドミントン選手・タレント
- 1964年、熊本県生まれ。16歳でバドミントンの日本代表メンバーに選ばれ、国内外の大会で活躍。92年にはバルセロナオリンピックに出場。94年の現役引退後はスポーツキャスターに転身。2010年から2024年まで『news every.』でメインキャスターを務める。夫は元プロ野球選手の金石昭人氏。くまもと誘友大使。日本バドミントン協会総務本部広報委員会委員としてバドミントンの普及活動にも尽力している。トップス:MOGA、イヤーカフ:Jouete
「小さい」ことがコンプレックスだった
今でこそ私の身長は168㎝ですが、子どもの頃は学年で一番背が低くて、小学校の整列ではいつも一番前。それがものすごくコンプレックスでした。当時は「ちび」という言葉に敏感で、言われるたびに泣いていたことを覚えています。
運動会の鼓笛隊ではどうしても指揮者をやりたかったのに、「あなたは小さいから、後ろの子が見えないんだよね」と先生に言われて断念。小さいというだけで諦めなければいけないことがあるんだと、この時も悔しい思いをしました。
今、振り返ると、その頃から負けず嫌いだったのだと思います。大きな子には負けたくない。強い子にも負けたくない。そんな気持ちをいつも胸に抱えていました。でも、その悔しさこそが私の原点だったのかもしれません。
母のひと言で始まったバドミントン人生
バドミントンを始めたのは小学4年生です。私が生まれ育った熊本県(八代市)は、全国でも屈指のバドミントンが盛んな地域。ちょうど小学校の部活としてバドミントン部が新設されたタイミングで、年子の姉が「バドミントンをやりたい」と言い出したのです。
すると母が、「送迎が1回で済むから、あんたもやりなさい」と。わが家は習字やオルガンといった習い事もすべて姉とセットでした。バドミントンも例外ではありません。最初はまったくやる気がありませんでした。体育館でお菓子を食べて、みんなが羽根(シャトル)を打ち始めたら少しだけ参加してそそくさと帰る。そんな毎日でした。
ところが、初めての大会で2回戦敗退。それが悔しくて仕方なかった。次は絶対に勝つ。そう決めて3カ月、本気で練習しました。みんなの倍走り、倍の素振りをして、居残りで練習もしました。そして、次の大会に出たら優勝できた。その時、「努力すれば結果が出る」ことを初めて知りました。
ただ、調子に乗った私は「自分は天才なんだ」と勘違いし、また不真面目な態度に逆戻り。次の大会ではまた2回戦で敗退してしまいました。あの時は同じことを二度繰り返した自分に腹が立ちましたね。気持ちを入れ直してからは、もう負けませんでした。
結果が出ると楽しい。楽しいからもっとがんばる。私の競技人生はそこから始まりました。
365日休みなしの青春
中学に入ると、八代市内の中学校から選抜された生徒が集められ、八代の強化クラブに入ることになりました。正直に言うと、入りたくはありませんでした。一度だけ見学に行った時、その練習の厳しさを見て怖くなったからです。しかし、大人たちの間では話が進んでおり、1日体験のつもりが、入部が決まっていたのです。その時は本気で「大人ってうそつきだ」と思いました(笑)。
そこから3年間、休みはありませんでした。大みそかまで練習し、「来年もがんばりましょう!」とあいさつをした翌日は、「今年もがんばりましょう!」と練習が始まります。
学校がある日は授業を終えると走って帰宅し、母が握ってくれたおにぎりを食べて自転車に乗って練習場へ向かいます。そこから3、4時間練習をしてからやっと家に帰る毎日でした。
16歳で全日本へ 笑わないプレイヤー
16歳で日本代表メンバーに選ばれ、戦いの舞台は世界へと広がりました。同時にプレッシャーも大きくなりました。同世代には負けられない。先輩たちにも追いつかなければいけない。だから練習をするしかありませんでした。遊ぶ時間があるなら練習をする。後悔しないくらい練習をする。毎日その連続でした。
その頃、私は全日本の先輩たちから一つのことを学びました。「ポーカーフェイス」です。勝っても笑わない。負けても表情を変えない。感情を相手に読ませない。もちろん素の私はそうではありません。でも、勝負に勝たなければ世界上位には行けません。相手に「何を考えているのか分からない」と思わせることが、勝つための戦略の一つだったのです。
当時の私は本当に笑わなかったと思います。試合中はもちろん、試合が終わっても無表情のまま。周囲からは「怖い」「近寄りがたい」と思われていたかもしれません。そんな日々を積み重ねる中で、私は少しずつ世界の大会でも結果を残せるようになっていきました。
引退も考えたが…オリンピックへの執念
26歳の頃、私は本気で引退を考えていました。当時は世界ランキング上位の常連で、周囲から見れば充実した選手人生だったと思います。
ただ、体は正直でした。朝起きてベッドから立ち上がろうとすると膝が抜ける。肩は痛くて上がらない。トッププレイヤーとして戦うためにはさらに厳しい練習が必要だと分かっていても、体がついていかなくなっていました。
ところが、そのタイミングでバドミントンがオリンピックの正式種目になったのです。正直、心が揺れました。そのとき、監督から言われました。
「1%でも可能性があるなら挑戦してみないか」。
それから4つのことを考えました。「挑戦しないで後悔はないか」「引退後、ほかの選手を素直に応援できるか」「2年先まで体力が持つか」「トッププレイヤーとして精神力を保ち続けることができるか」…3カ月後に出した答えは“選手続行”でした。
さらに、自分で自分の退路を断つため、両親に「2年後のオリンピックに連れて行くから、パスポートを作っておいて」と伝えました。
そこからの2年間は自分との戦いでした。それでも踏ん張れたのは、アマチュア競技の人間にとって、オリンピックはやはり最高の舞台だったからにほかなりません。
夢の舞台で知ったこと もう後悔はない
初めての夢の舞台、オリンピックはやはり特別でした。当時の世界チャンピオンの手が震えていました。空振りをする選手もいました。世界のトッププレイヤーであっても平常心が保てないほど、みんな緊張していたんです。私も同じでした。
普通の試合なら、ウオーミングアップをしながら、ライトの位置や風の向き、どちらの方が見えやすいかどうかなどを把握して、試合開始に備えます。ところが、五輪のマークが目に入るや否や、情報がまったく入ってきません。シャトルが飛ぶのか飛ばないのかさえ分からない感覚でした。
結果はメダルに届かず、9位と満足できるものではありませんでした。でも不思議と悔しさはありませんでした。監督からも「お前、すっきりした顔してるな」と言われましたが、これが今の自分の実力だと素直に納得できたのです。もう後悔はないと心から思え、帰国後、バドミントン人生に区切りをつけました。
引退後はスポーツキャスターに
引退後は所属チームのコーチに就任したのですが、明石家さんまさんの番組に出たことがきっかけでスポーツ番組から声がかかり、「自分が出演することでバドミントン界の裾野が広がるなら」と、司会を引き受けました。ただ、最初は毎日のように向いていないと思っていました。熊本弁もある。原稿も上手に読めない。アナウンサーのような訓練も受けていない。自信なんてありませんでした。
そんな私を救ってくれたのが、ラジオ番組でご一緒したアナウンサーの大沢悠里さんの言葉でした。「貴美はアナウンサーじゃない。心で話せばいい」。
その言葉で肩の力が抜けました。そこからは技術論ではなく、選手の気持ちに寄り添うことだけを考えました。ケガをした時の不安、負けた時の悔しさ、プレッシャーとの向き合い方なら私にも分かる。やがて選手たちのほうから「こういう時陣内さんはどうでしたか?」と相談を受けるようになりました。その時、やっと自分の役割が見えた気がします。
人を支えることが今の私の仕事
そして、数年後、今度は『ニュース・エブリィ』のメインキャスターに。気づけば14年間もお世話になりました。ここでも「番組をより良くするために、自分に何ができるだろう」と考えました。ニュース原稿が配られると大事な部分に線を引き、出演者が分かりやすいように整理する。原稿に書かれている情報だけでは足りないと思えば、自分で追加情報を調べて共有する…。誰に頼まれたわけでもありません。誰かの役に立つならやりたいと思ったのです。
振り返ると、選手だった頃の私は「勝つこと」が目標でした。でも、今は違います。誰かを支えること。誰かの力になること。それが私の喜びになっています。
(都内にて、6月17日取材)
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