「俺の原稿を女に読ませるな」TBS初女性キャスター、報道最前線へ

- 吉川 美代子さん/フリーアナウンサー・キャスター
- 1954年生まれ、神奈川県出身。早稲田大学教育学部卒業後、77年にTBS入社。『JNNニュースコープ』『JNNニュースの森』『CBSドキュメント』など多くの報道番組のキャスターとして活躍。また、TBSアナウンススクール校長を12年間務めた。2014年にTBSを定年退職。現在は、フリーアナウンサーとして司会業や情報番組のコメンテーターなどを務める傍ら、講演活動で全国を飛び回るなど、幅広く活躍している。17年より京都産業大学客員教授も務める。
音楽のある家庭で育ちきれいな言葉に憧れた
私は昭和29年、横浜で生まれました。父は中学校の音楽教師、母は当時まだ珍しかったピアノ教室を自宅で開いていました。
きょうだいはなく、一人っ子です。だからといって1人で寂しい思いをすることもなく、本を読むのが好きで、子どもの頃からたくさんの本を読んでいました。しつけに関しては両親とも厳しく、甘やかされた記憶がありません。子どもながらにきちんと礼儀正しく、勉強も好きで、学校では常に優等生。親から見れば手のかからない子どもだったと思います。
アナウンサーという職業を認識したのは小学生のときです。昭和30年代はテレビよりラジオが娯楽の中心。音楽番組、インタビュー番組もあり、司会も今のようにタレントさんがやるのではなく、きれいな標準語を話すアナウンサーが担当していました。「私もこんな人になりたいな」と思いながら、誰に聞かせるでもなく朗読に励んでいたことを思い出します。
私の人生を決めた山本アナのひと言
中学校では迷わず放送部へ入部し、部長になりました。そんなある日、憧れが目標に変わる出来事がありました。TBSラジオで昭和28年から現在にわたって放送している『こども音楽コンクール』にわが校の吹奏楽部が出場することになり、私が部の紹介役を務めることになったのです。
そのとき、コンクールの司会をしていたのがTBSの大先輩、山本文郎アナウンサーです。そして、紹介が終わった私にわざわざマイクを向け、「未来の吉川アナウンサーでした!」と言ってくださったんです。「これはもうプロになるしかない。将来は必ずTBSのアナウンサーになる!」と心に誓いました。
大学4年の秋にマスコミ各社の採用試験が一斉に始まり、私はもちろんTBSのアナウンサー試験に臨みました。試験は7次まであり、3次のカメラテストまで進んだときのことです。面接官のなかにあの山本文郎さんを見つけました。そこで事前に準備していた自己紹介をやめ、とっさに「こども音楽コンクールで、山本さんから『未来の吉川アナウンサー』と言っていただき、絶対にTBSのアナウンサーになると決心しました。そして今、私はここにいます」と言ったのです。
この即興自己紹介が功を奏したのかは分かりませんが、3次試験もクリア。その後も役員面接まで順調に進み、ついに「TBSのアナウンサーになる」という夢を叶えることができました。
女性初のキャスター しかし風当たりは強く
アナウンサーになったからには、やはりニュースを伝えたい。報道番組を担当したいと思っていました。しかし、当時の放送局は完全に男性社会。女性アナウンサーが担当していたのは、ラジオの子ども向け番組の司会やワイドショーのアシスタント、テレビは天気予報ぐらいで、報道はすべて男性の仕事でした。私は山本さんから引き継いだ『こども音楽コンクール』の司会の傍ら、大沢悠里さんがパーソナリティーのラジオ番組のアシスタントをしていました。もちろんやりがいのある仕事でしたが、「報道をやりたい」という思いは隠さず、周囲にも伝えていました。
転機が訪れたのは入社5年目。早朝の大型ニュース番組で初めて男女2名のアナウンサーがキャスターを務めることになり、私が指名されたのです。ただし、半年間は現場に出て報道記者の修業をする、というのが条件。担当していたラジオ番組はすぐに降板し、政治部に配属されて、国会記者クラブでの仕事が始まりました。そして半年後、念願のニュース番組がスタートしました。
ところが、報道局には女性アナウンサーがニュースを読むことに異を唱える人たちがまだ多くいて、風当たりは相当強かったですね。「俺の原稿を女に読ませるな」と目の前で言われたこともあります。絶対に失敗できない雰囲気のなか、緊張の日々が続きましたが、それでも報道番組を担当できる喜びがつらさを上回っていました。
人一倍の努力が実り看板番組に大抜擢!
それからは前に進むことだけを考え、努力を続けました。たとえば、朝のニュースが終わると、今度は昼のニュースの原稿づくりを手伝います。この頃の原稿はもちろん手書きです。メールがない時代でしたので、取材現場からの電話(口頭)で原稿の中身が伝えられたり、記者クラブからFAXが届いたり。それらをアナウンサーが読む原稿として清書しました。テロップの発注など細かい仕事も引き受けました。
ほかにも、朝から晩まで夢のなかでも仕事のことを考え、技術を磨き、どんな現場でも的確なリポートができる表現力をつけるため、政治経済の勉強はもちろん、会社の行き帰りも目に入る情報すべてを中継しながら歩くぐらいの努力をしてきました。
そのうちに報道局でも「あいつはがんばっている」と評価してくださる方が増え、重要なリポートを任されるようになっていきました。そして1年半後、夕方の看板番組『JNNニュースコープ』のメインキャスターに抜擢されたのです。
指導者としての経験も 定年までいてよかった!
その後も、週末の『JNNニュースの森』のメインキャスター、『CBSドキュメント』などを担当しました。その間、TBS社員としては役職が徐々に上がり、アナウンス部の専門職部長に。報道番組のキャスターを後進に譲り、みのもんたさんが司会のワイド番組のコメンテーターを担当している頃は、専門職局長になっていました。
振り返れば、平社員でスタートしてからは「自分のために勉強する」というように、主語はいつも自分でした。しかし、報道アナウンス班デスクになると主語が「報道アナウンス班」になり、部長になると「アナウンサーたち全員」が主語。局長になると「アナウンス部や会社」が主語に。主語と共に視野も大きく広がっていきました。
途中で会社を辞め、フリーの立場になっていたら、いつまでも「自分」のことしか考えなかったでしょう。在職中の最後の12年間は、TBSアナウンススクールの校長も務め、人を育てる喜びも知りました。そのことを思うと、定年まで会社にいてよかったとつくづく思います。
定年退職後も広がった視野はそのまま、いろいろな局にお邪魔した際も、若いアナウンサーと一緒になると、つい「こうしたほうがもっとよくなりますよ」と余計なアドバイスをしてしまいます(笑)。
2度のガンを乗り越え健康のありがたさを痛感
会社員時代、ほとんど病欠しなかった私ですが、ガンなどで長期の入院を2回経験しました。私の代わりに番組を担当してくれるアナウンサーは仕事が増えますし、長期で休むとまわりに迷惑をかけてしまいます。また、しばらく放送の現場を離れると、滑舌が悪くなったり生放送の勘が鈍ったりするような気がして、好きな仕事を続けるためには、何よりも健康でなくてはならないと実感しました。
また、アンチエイジングケアもしています。といっても、私の場合は“声”です。年を重ねると声帯が衰え、ハリのないかすれた声になってしまいます。「お婆さん声」にならないよう、60代半ばからボイストレーニングの専門家について習っています。おかげで講演会が続いても喉の調子はいいです。TBSの社員で結成したジャズバンド『吉川美代子とジャズフレンズ』で40代からボーカルを務めていることもあり、プロの指導を受けてよかったと思っています。
社内イベントを機にジャズバンドを結成
ジャズバンドを組んだきっかけは社内イベントでした。ボージョレ・ヌーボー解禁日に社員食堂で『ボージョレ・ヌーボーとジャズの夕べ』が開催されることになり、学生時代にジャズ研で本格的に活動していた社員がバンドを結成。「ボーカルがいない。吉川、ジャズ好きだよな?歌ってくれ」と誘われたのです。高校時代からジャズファンだったので、勇気をだして挑戦。社内だけでなく、赤坂の商店街イベントなどでも演奏しました。
定年退職後もバンドは続き、時折ライブを行っています。趣味とはいえ、チケット代をいただく以上、遊び半分ではできません。そのためにもボイストレーニングは欠かせませんし、最近は音域を広げるためにオペラのレッスンにも通い始めました。ライブには、私が出演している番組関係者の方々をはじめ、アナウンス部の後輩、学生時代の友人や親戚などが来てくれていつも楽しく盛り上がります。準備は大変ですが、達成感も大きいですね。
保護猫たちとのにぎやかな暮らし
一心不乱に仕事のことしか考えない時期があったからこそ、今は趣味が楽しいと言えます。さらに、40代半ばから一緒に暮らした猫のおかげで精神的にも癒やされました。もともとは野良猫ですが、とても人懐っこく、ハンサムで、びっくりするほど頭がよくて、22歳まで長生きしてくれた「ゲン」。私の腕のなかで息を引き取ったあとはしばらく泣き暮らしたほど、私にとって大事な存在でした。
しかし、それから3年半が経ち、猫好きの友人から「引き取り手のない保護猫にも猫愛を注いでほしい」と言われたのを機に、2匹のメス猫を迎え入れました。そこに最近、もう1匹メスが加わり、猫3匹とのにぎやかな暮らしが続いています。この3匹を見送るまでは私も元気でいなければと思いながら、今日も変わらずがんばっています。
(都内にて取材)
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