Wendy-Net トップページ > Ms Wendy > Back Number > 317号 注目の人 「里山文化」プロデューサー セーラ・マリ・カミングスさん

Ms Wendy

BackNumber

317号 注目の人 「里山文化」プロデューサーセーラ・マリ・カミングスさん

里山の素晴らしさを未来の世代に伝えたい
セーラ・マリ・カミングス/「里山文化」プロデューサー
Profile

セーラ・マリ・カミングス/「里山文化」プロデューサー
株式会社文化事業部代表取締役、NPO法人桶仕込み保存会代表理事。1968年米国ペンシルベニア州生まれ。91年留学生として初来日。93年ペンシルベニア州立大学卒業。94年株式会社小布施堂・桝一市村酒造場入社。98年の長野冬季オリンピックでは英国アン王女と英国選手団の民間特命大使役を務め、同年に国際北斎会議を誘致。日経ウーマン「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞受賞。2013年小布施堂を卒業、文化事業部の代表を務め、長野市若穂保科地区で、里山を活かした「かのやまプロジェクト」を企画している。【株式会社文化事業部HP】http://www.bunji.jp/



古民家再生への取り組み

 今、私が取り組んでいる「かのやまプロジェクト」は、農業を中心にしたコミュニケーションの場づくりです。「かのやま」というのは、日本の唱歌で有名な「ふるさと」の歌詞にある「兎(うさぎ)追いし かのやま」の「かのやま」。ふるさとにある、一人一人にとっての特別な山をイメージしたネーミングです。

 このプロジェクトを進めるために、まず作らなければならないのが、勉強会や交流会などで「人を迎える場」です。それで今、地元の大工さんと一緒に急ピッチで古民家の再生を進めています。

 ここ(若穂地区)は長野駅から車でわずか20分の中山間地。この建物はもともと私の主人が住んでいた家ですが、初めて来たとき「なんて夢のようなところなの!」と思いました。美しい蝶(ちょう)が空に舞っていて、この場所を選んだ主人はとても偉いと思いました。

 長野で知り合った主人は、日本で英語の先生をしているアメリカ人です。お父さんが獣医さんでお母さんは学校の先生という家庭に育った彼は、忙しいお母さんに代わって小学校2年生から週に1回、家族全員の食事の支度をしていたそうです。だから料理はベテランだし家事もひと通りできるので、とても助かっています。

 音楽が大好きでオペラの曲も歌いますので、よく「ケ~セラ~セラ~(なるようになるさ)」と、大きなバリトンで歌いながら畑仕事をしています(笑)。

 5歳の息子は、剣道を習っています。せっかく日本にいるのだから、剣道を通じて礼儀や心の持ち方を覚えてほしいと思っています。「心・技・体」という言葉がありますが、丈夫な体をつくると技術も身につき心も元気になると思うから。

 この場所に拠点を移したのは一昨年。新しい土地で新しいことを始めるのは不安もありますが、今年7月に開いたキックオフパーティーの「独立祭」には200人以上の方が各地から集まってくれて、手応えを感じているところです。

おてんばだった少女時代

きょうだいと。左から2番目が6歳ごろのセーラ・マリ・カミングスさん

きょうだいと。左から2番目が6歳ごろのセーラ・マリ・カミングスさん

 私はアメリカのペンシルベニア州に育ちました。家族は、エンジニアで大学教授の父、小学校の図書館で働いていた母と、姉、兄、妹の4人きょうだいの3番目。子どものころはとてもおてんば娘でした。父がボーイスカウトのマスターで野球のコーチでもあったので、男の子たちと遊ぶ方が多かったですね。穏やかというよりは激しい性格だったと思います(笑)。

 父の教育は厳しく「悪いことを言うぐらいなら、何も言うな!」と叱られたことをよく覚えています。父はグチをこぼしたり言い訳をしたりすることを一切許さず「no,but(でも)」という言葉は絶対にダメでした。グチを言って何かが良くなることは一つもありません。父のこの教えは、私の財産です。

 また私は、おばあちゃん子でもありました。おばあちゃんには4人の子どもがいましたが、1番下の子どもが生まれる2週間前におじいちゃんが事故で亡くなって、4人の子どもを女手ひとつで育てた人です。

 でも、おばあちゃんはそのことを一度も悔やんだことはなく、常に感謝の心を忘れない人でした。「一つ一つ、自分が恵まれたことを数えなさい」とよく言われました。料理が上手で、誰が来ても温かく迎え、たくさんの人に愛情を注ぎました。そんなおばあちゃんが私は大好きでした。すでに亡くなりましたがいつも私の心の中にいて、少しずつでも近づきたい目標の人です。

交換留学生として来日

 私は1991年に、関西外国語大学に交換留学生として来日しました。アメリカの大学で日本語を勉強していましたから、言葉はある程度できるという自信がありました。でも、飛行機から降りたとたんに習った日本語がまったく通じなかったり、表記が漢字ばかりで看板が読めなかったりと、苦労もしました。でも、道に迷うとわざわざ案内して連れて行ってくれるなど、日本人には、とても親切にしてもらいました。

 ホームステイ先のご家族は、当時60代のご夫婦。朝はお母さんの包丁の音で目覚めていました。朝食は関西であったにもかかわらず、白いご飯に納豆。そのお宅での家庭料理は品数も多く、とても特別なものに感じられました。「ひじきを食べると髪が真っ黒になるわよ」と言われて「大丈夫かしら」と心配したこともありましたっけ(笑)。

 知人のお宅を訪問したときには、何を出されてもありがたく頂戴するように心掛けました。まず食べてみて「ところでこれは何でしたか?」と聞くこともよくありましたね。食べてからそれがナマコだとわかったときはビックリ!(笑)

 当時、国際電話は1分が400円くらいだったと思います。携帯電話もインターネットもなかった時代だったので大変でした。今はスカイプで毎日のようにアメリカの両親とコミュニケーションが取れますし、iPadで撮影した動画を見せることもカンタンです。この20年で世界はとても近くなりました。

世界に誇れる日本の着物文化

着物コンテスト出場時

着物コンテスト出場時

1994年、信濃毎日新聞社社長(当時)、長野電鉄社長(当時)と

1994年、信濃毎日新聞社社長(当時)、長野電鉄社長(当時)と

 最初に長野に来た年の夏、特別な「浴衣」をある方から頂き、ずっと大事にしてきました。そして、大切な浴衣が、おばあさんから娘へ、そして孫へと伝わっていくものだということもその時に知りました。

 私は以前、舞台の上でいかに早く着物が着られるかを競う「着物装いコンテスト」に出場したことがあります。それで自分で着付けができるようになってから着物を着る機会が増えました。着物は、わずか5分か10分で「心の模様替え」をすることができ、違う自分に出会える素晴らしい民族衣装。世界に誇れるものだと思いますね。

 だから私は、日本の小中学校で、着物ではなくても、せめて浴衣の着付けを子どもたちに教えることを義務化するように文部科学省にお願いしていこうと思っています。「日本人なら浴衣くらいは自分で着られるのが当たり前」になったらいいなと思います。 

 今、若い人たちの間では浴衣を着て踊る盆踊りがブームになっていると聞きます。風に揺れる袂(たもと)やわずかに見える女性の足首の美しさ、浴衣を着た風情(ふぜい)がすてきだということに若者たちが気づき始めたのでしょう。 

 2020年には東京オリンピックがありますね。その開会式の日は、男女年齢を問わず、全国で一斉に浴衣を着るようにしてはどうでしょう?JRのスタッフもタクシーの運転手さんも政府の方もできる人は全員が浴衣を着るんです(笑)。

 皆の心が一つになれる大きなお祭りです。開会式の日が皆の誇れるうれしい一日になったら最高じゃないですか?日本の着物にみられる「粋」は本当に素晴らしい文化だと思いますし、日本のお祭りは世界に輸出できるものだと思います。

世代をつなぐ架け橋になりたい

2000年ごろ。台風娘と呼ばれていた当時の改装風景

2000年ごろ。台風娘と呼ばれていた当時の改装風景

 私は以前、小布施で「台風娘」と呼ばれていたように、ハンマーを持って壁を壊したりして(笑)、確かに乱暴だったかもしれません(※)。若いときは生意気で、先輩方に「掃除をする時は、布巾をきれいにたたんで拭きなさい」と言われても、「どういうふうにやっても結果が同じならいいでしょう」と思っていました。でも今は、同じことをするのでも「気持ちよくやることがプラスにつながる」ということが理解できます。あのとき先輩が言っていたことの意味が、ようやく分かるようになりました。

 叱ってくれる人がいるというのはとても大事なことですね。たとえそのときには十分に理解できなくても、5年後、10年後に「そういうことだったんだ」と思えるときが来ます。

 私が小布施の〈桝一市村酒造場〉に入ったころは、先輩たちが一生懸命頑張っていましたが、若い人はいませんでした。その後若い人たちが加わって数年すると彼らもたくましくなって頼れる人材になりました。先輩方と若い人たちが力を合わせるとそこに新しい価値が生まれます。桝一市村で新銘柄の日本酒づくりがうまくいったのもその成果だったと思います。だから私は、できるだけ若い人と先輩方をつなぐ役割を果たしたいと思っています。

里山の素晴らしさを未来の世代に

現在の拠点での、改築作業の様子

現在の拠点での、改築作業の様子

 ここ若穂地区もそうですが、日本の農村にはとても温かいコミュニティーがあり、日本の良さが色濃く残っています。玄関に野菜が置いてあったり、何かを交換したり、家同士で行ったり来たり、「共に生きる」感覚があります。相手を思いやる心、お互いの助け合いがあります。私はそれをぜひ未来の世代に届けたい。もちろん、これからの農業はどうしたらいいか、後継者の問題、空き家や荒廃地の対策、教育のあり方など課題はたくさんありますが、先輩たちと一緒に考え、走りながら持続可能な農村づくりを目指していきたいと思います。

 9月からは、毎月9日(ここのか)に「ここのか=ここ農家(のうか)」という勉強会を開く予定です。外部から講師を招いて、地元の皆さんと一緒に良い取り組みをたくさん知って、皆でレベルアップして問題を改善していけたらいいなと思っています。

 また、地域の先輩たちが持っている農業を中心にした暮らしのノウハウも大切にしていきたいものです。編み物や昔のバスケット(籠)づくりなど、農業がオフのときにしかできない手作業の復活にも取り組んでいきたいですね。

セーラ・マリ・カミングス

 私はひつじ年の今年を「改善の年」にすると決めました。本当の改善というのは「穏やかに、マメに、徹底的に、少しずつ磨いていく」こと。「善」という漢字の中には「羊」がいます。昔の私はイノシシでしたけど(笑)、羊のように穏やかな改善は、一見ソフトかもしれませんが実はその方がパワフルで効率的だと思うんです。いちどに全部やろうと思ってもなかなかできないから、意識することから始めて少しずつ、小さな調整を積み重ねていく年にしようと思っています。

 小さな蝶の羽ばたきが台風を起こす力もあるといいます。一人一人が小さな変化を起こすことができれば、それが大きな変化につながると思います。一人にできることは限られていますが、皆が少しずつ協力しあえばできると信じています。

 最近は全国的に里山を再生する、とても良い動きが始まっていますね。里山が生き返れば、全国の限界集落の問題解決にもつながるかもしれない。そして、海外にも日本の里山の素晴らしさを発信できたらもっといいなと思っています。
(長野市若穂保科にて取材)

※株式会社小布施堂・枡一市村酒造場在職中、担当した酒蔵を改装したレストラン「蔵部(くらぶ)」建築中のエピソード。



BackNumber

(無断転載禁ず)