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309号 注目の人 女優三田 佳子さん

自分の肉体を絵筆に 「人生」という絵を描く。
三田 佳子/女優
Profile

三田 佳子/女優
1941年10月8日大阪府生まれ。高校卒業と同時に東映に入社。以後、日本映画全盛期を代表するスター女優のひとりとして活躍した。67年に独立した後は、舞台・テレビにも活動の場を広げ、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞・ブルーリボン賞・芸術祭賞等賞歴多数。芸歴50年を越えてなお、新しい表現に挑み続けるアクティブな姿勢は変わらず、最近は自らの歌を「役者唄」と語り、音楽活動にも精力的に取り組んでいる。昨年、旭日小綬章受章。3月27日、ウェスティンホテル東京で「女優生活55周年記念DINNER SHOW 役者唄特別編」を上演予定。



お話を作ったり絵を描いたりするのが大好きな少女

小学生のとき、宝塚劇場の前で

小学生のとき、宝塚劇場の前で

 私は太平洋戦争開戦の直前、1941年、父の赴任先である大阪で生まれました。母は東京の人でしたから、父が出征すると一度東京に戻ったのですが、戦況が悪化すると、4歳の私と、生まれたばかりの弟を連れ、つてを頼って山梨に疎開しました。その弟は疎開先で亡くなっています。無医村だった疎開先から甲府の中央病院に連れて行く途中、弟は母の腕の中で息を引き取ったそうです。

 後に、私はNHKの大河ドラマ『いのち』(1986年)で医者の役を演じましたが、舞台は青森の無医村でした。その中で、病に倒れた母が大きな病院に連れて行かれる途中に息を引き取るというシーンがありました。  

 そのとき、「母の経験とは、こういうものだったんだ」と実感しました。

 戦後、復員した父と母の間にはいろいろなことがあり、私が8歳のとき両親は離婚。戦後すぐに生まれた2番目の弟は父と、私は母と暮らすことになり、2人で東京へ戻ることになりました。

 その後、母は離婚にもくじけず、すぐに働きに出て日本橋に小さなお茶漬けのお店を出して、女手ひとつで私を育ててくれました。実家は武士の流れで商売とは無縁の家系。末っ子のお嬢さま育ちだったはずなのに、非常にたくましい人だったんですね。私は学校が終わると電車に乗って母のお店に行って、よく本を読んでいました。お手伝いができなくても、そばにいるだけでほかほかして気持ちが良くて。
 

1955年ごろ、児島善三郎画伯のモデルに

1955年ごろ、児島善三郎画伯のモデルに

 母は私に何の苦労もさせませんでしたが、きっと私の見えないところで苦労もあっただろうと思います。母のすごさが分かったのは後になってからです。もしあの母がいなかったら、私の人生どうなっていたことか。母は80歳で逝きましたが、「すごい母だったなぁ」といまだに思います。

 もともと私は恥ずかしがりの性格で、授業中に指されたりすると恥ずかしくて泣いてしまうような子どもでした。でも、お話を読んだり演じたりすることは好きだったようです。特に努力したわけではなく、自然に授かったものだと思います。

 よく近所の子どもを集めて自作の紙芝居をやりました。紙芝居のおじさんがやっているのを見て覚えた話をアレンジしてお話を作って、絵を描いて、皆に読んで聞かせたりしていました。その後、女優になることを相談したとき、担任の先生が「あなたには向いているからやってみなさい」と言ってくださったのも、私のそういうところを見てくださっていたからかもしれません。

映画界の厳しさを知ったデビュー作

中学生のとき、日本橋の高島屋の前で

中学生のとき、日本橋の高島屋の前で

 高校在学中にある方から声をかけられてテレビCMに出演することになりました。当時は民間放送(民放)の黎明(めいれい)期で、CMに出演する少女たちは「コマーシャルガール」と呼ばれ、新しい時代の顔として注目されました。そんな少女たちを集めて週刊誌が組んだ特集が映画会社の目に留まって、スカウトされました。

 でも母は、高校はきちんと卒業しなさい、という考えでしたから、卒業まで待ってくださった東映さんに入社することになったんです。

 そんないきさつで女優になりましたが、当時は正直、女優になった実感がありませんでした(笑)。というのも、中学から女子美術大学付属校に通っていたので、スカウトの声がかかったころは大学の洋画科に進んで、趣味で絵が描ける奥さんになるつもりでいましたから。でも、映画会社さんが「来てくれ来てくれ」と言うし、学校の先生も「あなたは向いている」って勧めるでしょう。「じゃあ、よっぽど私は女優に向いているのかな?」と思って(笑)。それから55年間、女優ひと筋。
 

1960年、『殺られてたまるか』
スタッフルームにて

1960年、『殺られてたまるか』スタッフルームにて

 何があっても続けてますから、もう今となっては「天職」と言わざるを得ないですね。

 デビュー作の『殺(や)られてたまるか』(1960年)は、映画ブームがピークに達していたころで、東映は波多伸二(はた しんじ)さんと、私を「ゴールデンコンビ」と命名して、青春映画をシリーズで作っていく予定でした。

 ところが撮影初日、主演の波多さんが、オートバイの練習中にみんなの目の前で亡くなるという事故が起きてしまいました。当時の私は、高校を出たばかりの、半ば素人。「こんな悲しい事故が起きたのだから、撮影は中止になるのではないかしら」と思いました。ところが2週間ほどたつと、何事もなかったように撮影は再開されたのです。そのとき、人が亡くなっても悲しみに暮れている余裕などない映画界の非情さ、すごさを知りました。また、同時にプロとしての覚悟と決意が固まったのもこのときでした。

肉体を絵筆に「人生」という絵を描く

1974年、結婚式inタヒチ

1974年、結婚式inタヒチ

 私は女優になったとき、「女優というのは、何をどういうふうにやればいいんだろう」と思って、本屋さんに行ってみました。そして何気なく手に取った1冊をめくっていると「すべての役をif(もしも)で捉えたら」という文章が目に飛び込んできました。この「if(もしも)〇〇ならば」という発想が、その後の、私の演技の原点になったのです。

 「もしも自分が1000年前を生きた、源氏物語の中の一人だったら」「明治時代を生きた野口英世のお母さんだったら」…。その視点で物語の歴史や背景をひも解き、役柄に向き合ってきました。

 役作りにもいろいろなタイプがあります。自分自身に役を引きつけて、どちらかというと自分が前に出ていく演じ方もありますが、私の場合は、できるだけ自分を消して、役の世界に行こうとします。どちらかというと、苦労する役作りの方へ軸足を向けたんです。だからいつも死ぬ思いで、もがきながら「どうやったらあっち(役)の世界に行けるんだろう?」と、役を演じてきました。
 

最愛の母と

最愛の母と

 過酷な女優生活を長く続けられたそのエネルギーは何かと聞かれれば、表現することが好きだった私自身の「血」でしょうね、と答えます。その表現ってなんだろうと考えたとき、「演じるということは、自分の肉体を絵筆にして、人生という絵を描くこと」―そう思ったら、すべてが納得できました。だからずっと続けることができた。それが真実の思いです。

 ですから、この仕事は、体が健康でないとできないですね。自分が不健康になって集中力が途切れたら、もうやめるしかないんです。だからいつも命がけ。

 一人で8役を演じた、売れっ子脚本家・宮藤官九郎さんの舞台『印獣(いんじゅう)』(2009年)では、もうボロボロでした。ラップにロックにシャンソンに旅役者、戦隊ヒーローショーの悪役「毒マグロ貴婦人」になって、かぶりもので歌い踊る、ランドセルを背負った小学生のコスプレ…。もう毎回毎回泣きましたよ(笑)。

 ところが、その舞台を音楽関係の方がご覧になっていて、「三田さんがシャンソン歌手のエディット・ピアフを演じたら、きっとすごく似合う!」と言ってくださり、それがその後につながっていくのですから、人生、不思議なことが起きるものです。

70歳で開花したシャンソンの世界

2011年、『私の中のピアフ』

2011年、『私の中のピアフ』

 私は、デビュー当時からシャンソン歌手の石井好子さんに憧れていて、「石井さんのようなシャンソン歌手になってみたい!」と、ドレスを着て歌手の格好をして週刊誌に出たことがありました。それを石井さんがご覧になり、ずっと後の2003年に、「あなた、私のファンだっておっしゃっていたでしょう。私と一緒にシャンソンを歌わない?」と声をかけていただき、歌の指導もしてくださって、石井さんが開いたチャリティーコンサートで『雪が降る』を歌ったのです。

2012年、『役者唄』

2012年、『役者唄』

  それから8年後の2011年。芸能生活50周年の節目に上演したのが『私の中のピアフ~いいえ、私は後悔しない』です。歌と芝居の舞台で、共演は『印獣』でご一緒した俳優の池田成志さん。東京はじめ全国8公演、70歳での初挑戦でした。

 今年は芸能生活55周年。3月27日には「55周年記念ライブ」と銘打ったシャンソン・ショーも開きます。こんな歳になって、また第一歩を飾るという挑戦です。

 私は自分の歌を「役者唄(やくしゃうた)」と言っています。つい先日も初めてのディナーショーを静岡で開き、お客さまからは「三田さんの歌には情景が見える。それがとっても心にしみる」と言っていただきました。

 ここにきて、歌で表現することも楽しくなってきました。3月の舞台も、ハイヒールを履いてロングドレスを着て、歌を10曲歌ってMCもやります。そんなことがこの年齢でできるかな、といつも思います。でも、結局やっちゃうのよね(笑)。

 2月に公開の映画『マンゴーと赤い車椅子』では、監督さんに「三田さん、そこまでやらなくても」って言われるくらいリアルな老けメイクで臨みました。

 ロケ先では帽子をかぶってメガネをかけて、猫背に見えるように少し詰め物を入れた映画の衣装のままATMに行っても気付かれなかったくらい(笑)、徹底しておばあちゃん役を演じました。

孫が成人するまで

三田 佳子さん

 2010年に2人の息子にそろって男の子が生まれ、私にも孫ができました。特に次男にはいろいろあっただけに、余計にうれしかったですね。オフタイムには、そのかわいいボーイフレンドとの逢瀬(おうせ)を楽しんでいます。孫たちは私のことを「バーバちゃん」って呼ぶんですよ。最初は「バーバラって呼ばせたら」なんて義妹が言ってくれたけど、結局はバーバとジイジ。でもそれでいいの(笑)。

 私は「孫たちが成人する姿を見る」と公言しています。それは自分に勢いをつけるためでもあります。孫が生まれたのがちょうど70歳の時だったので、彼らが成人するときには、私は90歳になります。もちろん人間ですから明日死んでしまうかも分かりません。でも「90歳まで生きよう!」って口に出せば、前に向かって生きていける。そう思っています。
(東京都中央区内にて取材)



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