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279号 注目の人 漫才師/内海 桂子さん

言葉には、裏も表も縦も横も、あるんです
内海 桂子/漫才師
Profile

内海 桂子/漫才師
1922年生まれ。東京都出身。1938年、高砂屋とし松とコンビで浅草橋館に漫才初出演。1950年、内海好江とコンビ≪内海桂子・好江≫結成。1998年に漫才協団会長に就任。また、2005年に漫才協団が社団法人漫才協会になり、同協会会長に就任。1989年に紫綬褒章受章、以降も数々の賞を受賞。漫才活動の他、映画・ドラマ・トーク番組・バラエティー番組などに出演し、最近ではレポーター、講演会の講師、今村昌平監督の日本映画学校・演劇科講師を務めるなど常に新境地を開拓し、現在各番組でコメンテーターとしても活躍中。


自分の行動のきっかけはいつも「人助け」

 私が学校に上がったのは昭和4年。駆け落ちした親から生まれた私は、落ち着いた生活からは縁遠く、10歳で母親の助太刀を買って出ました。

 そのころ母にはほれた職人がいて、新しく所帯を持つための敷金が必要でした。だけどどうもその20円のお金に困っているとみて、私が奉公に行くよと言ったんです。母親に頼まれたわけじゃないんですよ。「あたいが奉公に出て助けてあげるよ」って自分から言い出したの。相手が何も言わないうちにこっちが進んで動いちゃうのね。

 私が動くきっかけは、だいたいが人助けなんですよね。子どものころからそうだったけど、自分の欲でやったことはほとんどない。今でもそうだけど、いつも働くことばっかり考えているのね。働けばお金になるから。でもその稼いだお金は自分が使うんじゃない、自分の周りを助けるため。

 数えで10歳の私は母親に連れられて、上野の仕事斡旋所に行きました。小さくて、カウンターにも届かないくらいの背丈。

 神田の更科という蕎麦屋が坊ちゃんのお世話役を探していたので、早速働き始めた。10歳の少女が7歳の坊ちゃんのお世話をするわけ。毎朝、坊ちゃんの草履袋を持って学校へ送っていき、終わるまで外で待っていて一緒に帰ってくるのが、仕事。

 私は学校には3年しか行ってない。その3年間で皆勤賞を6枚もらうくらい学校が大好きだった。本当はずっと通いたかったし、奉公に行っても通えるかなあと期待はしていたんだけど、それは叶えられなかった。だから、先生の教える声を教室の外で聞き、地面に書き取りしてたんです。

 あるとき、坊ちゃんのチャンバラ遊びの相手をして額を割られて血を出してしまい、お店は「申し訳ない」と、3年もたたないうちに奉公から返されました。
 

漫才を始めたのは16歳のとき

昭和19年、外地慰問の際に撮った記念写真。左奥が当時の相方であり、夫

昭和19年、外地慰問の際に撮った記念写真。左奥が当時の相方であり、夫

 当時の下町の女の子は、琴や三味線の手習いを結構していたんですが、奉公から戻されて、なんか習っておきなと母に言われ、南千住のお師匠さんに、三味線と踊りを習うことに決めました。でもそのお月謝だって自分で稼いだのよ。近所の鼻緒屋さんで鼻緒の前ツボを作って、1日10銭、1カ月で3円稼ぎ、その半分を月謝に充てたんです。

 お稽古を始めてしばらくして、私が踊りと三味線ができるのを知った近所の芸人が、踊り子が1人足りないから助けてくれないか、と言ってきました。興味もあり、2カ月の興行についていくことになったんです。

 そんなことをやってるうちに夫婦漫才師のおかみさんのお腹が大きくなって、続けられなくなったからと、私に目をつけたの。一緒に舞台を見ているからネタは覚えてたし、あそこはもっとこうすりゃ面白いのに、って生意気なことを思ってたのね。それで、打ち合わせをした次の日に浅草の舞台に立ったんですよ。それが16歳のとき。その無理やりの漫才初舞台も、私がいないとこの夫婦が食べていけない、子どもも養えないと思ったからなのね。その人は40代の腕のいい芸人さんで、格も上の人だったので、私にも毎月35円払ってくれたんです。16歳には分不相応なお金。もちろん、わが家の生活費にと母に全部渡していたんですよ。

 巡業のときは、行った先の小屋に、コンビの場合は他人同士でも否応なく1部屋にされるんだけど、1カ月も同じ行動を取っているうちにお手付きになってしまって、子どもができちゃったんですよ。途端に、おかみさんが「うちの亭主を取った」って怒鳴り込んできた。いちいち説明するのも面倒くさいので、このコンビは解消しました。

 次に組んだ人も、おかみさんが病気でできなくなったから助けてくれって。すぐにおかみさんは亡くなり、やがてこの人と一緒になり、娘を産みました。

 その後も相方をかえながら漫才を続けていたけど、漫才をやること自体は、自分にとって、もっぱら食いぶちを稼ぐためだったんです。ぶらぶら遊んでいることが私にはどうしてもできない。動けば金になるんだからと思うと、休んでなんかいられない。

 親戚が作った団子を頼まれて売りに行ったこともあったわね。なんと、あの吉原の中にですよ。やがて浅草の方に出向くようになった際に、女給さん求むの貼り紙をみて、どんなものか飛び込んでみたの。昼に行って、その日の夜からそこで女給として夜働くことに。そこで「桂子」っていう名をつけてもらったんです。サービス精神旺盛だからお客さんにも受けてね。当時はアメリカ人もよく来ていて「桂子いるか」って訪ねてくることもあったんですよ。

48年続いた「桂子・好江」のコンビ

平成6年、舞台での「内海桂子・好江」

平成6年、舞台での「内海桂子・好江」

 そうこうしてるうちに、この子を頼むって紹介されたのが、当時14歳の好江さん(※1950年に「内海桂子・好江」としてコンビ結成。97年胃がんのため死去)。預けた以上は、親は一切口出ししてくれるな、と親御さんには念を押しました。私が徹底的に1から仕込みますからね、と。

 私と好江ちゃんは姉妹だって思ってる人が多いけど、赤の他人。私の当時の相方と好江ちゃんの母親が兄弟弟子って縁があったんです。このコンビは、私が台本を書いたんですが、学校を3年しか行ってないから何もできないって言われるのがけたくそ悪いので、一生懸命頑張って書いたわよ。そのときに使った辞書は今でもちゃんと持ってますよ。

 好江ちゃんとは、亡くなるまでの48年間、一緒に漫才を続けたけど、あの子は、私が言うことは何でもやってくれた。あの人がいたから、私は勲章ももらえたし、ここまでのことができたんです。好江さんなしでは何もやれなかった。

 国立演芸場でトリを取らしてもらったけど、これは漫才師としては初。最高の舞台、時間がたっぷりいただけたというのもうれしかったですね。

 

今の芸人たちは、言葉を正面からしか捉えてない

平成15年、踊りの演目は「奴さん」

平成15年、踊りの演目は「奴さん」

 物売りや叩き売り、ちんどんや。昔は町のあちこちでそうした大道芸があって、芸人は、そこからネタを拾って自分たちの肥やしにしたんですよ。

 大道芸人たちは抑揚をつけながらしゃべるでしょ。そのリズムに、人の心を引きつける面白みがあるんですよ。

 言葉には、裏も表も縦も横もある、でも今の芸人は言葉をただ正面からしか捉えてないわね。使いこなしていないんですよ。もっと言えば、言葉だけじゃない、言葉に伴う動きも大事で、でもただ動いてるだけじゃダメ、どんなふうに動けば面白くみえるかっていうのは、体の細かな動きや表情で工夫しなきゃいけない。だから私は若い人に「手で物を言え、体でも物を言え」って教えるんです。

 私は、どんな人とでも漫才をやれる自信はあります。漫才なんてやったことのない人、なまじ分かんない人の方がいいんです。相手がおろおろしてるのもネタにしちゃう。その人の特徴を一瞬でつかめばいいの。打ち合わせ通りにやるのは、ベテランの漫才じゃない。何をしゃべってもそれに反応した言葉をやりとりしなきゃ面白くないんです。そして、今いる場所や、世の中の動きを取り入れてちゃんと生かすこと、それが漫才。自分勝手なこと言うのが漫才じゃないよ。これは漫才だけじゃなくて、話全般に関して同じことが言える。どこにいってもそこの場所が読めるようになることが、漫才師にとっての精進だと思ってますよ。

 

年間で300通のラブレターをくれた24歳下の亭主

仕事の移動中に、ご主人との2ショット

仕事の移動中に、ご主人との2ショット

 よく言われますよ、「若い旦那持って幸せね」って。そりゃ不幸じゃないけども。24歳年下の亭主と連れ添ってもう26年。彼は、小学生のころからラジオで桂子好江の漫才を聞いていたファンだったの。最初は仕事がらみで知り合ったんだけど、1年で300通の手紙をくれた。いつも同じ大きさの封筒だったけど、最後に大きさの違う封筒が届いたんです。それを開けてみたら「結婚してください」って。彼は滞在先の米国から帰ってきたいというので、それはあなたの自由だけど仕事のない人とは付き合いませんよ、と言った。必死に友人に仕事を探してもらったらしいわね。それで平成元年に帰ってきました。

 言いたいことは心にしまい込まずに、怒鳴るくらいの勢いで相手に言いますよ。だって、言わなきゃ伝わんないじゃない。

 私は日本酒が大好きで毎日晩酌は欠かさないけど、いつも1合飲み、それ以上は飲み過ぎだって亭主がストップをかけるのね。うるさいこと言うな、って思うけどね。

 私に対してわざと意地悪く振る舞うときもあって、でもその意地悪に逆らうのも面白いわよ。何でもこんな風に言い合えるのがいい。私の健康を気遣って食事内容を工夫してくれる、いろんな面でよくやってくれるな、と内心では感謝してますよ。

毎日1つはツイッター記事をアップしてます

 私はツイッターをやっているんですよ。今、フォローしてくれる人が6万人超。あるとき、アホウドリが映ったテレビを見ながら私が呟いたの。「カラスもスズメもちゃんとした名前があるのに、アホウ、って呼ぶなんて無礼だね、かわいそう」。それを聞いた亭主が『ツイッターにいただき』って。それ以前に、新聞の広告の裏紙に升目をひいて、200文字くらいで気付いたことを頭の訓練がわりに書き留めていました。だったらツイッターも面白いんじゃないかと思ったの。この9月で満2年目、1日に1つは呟いてますよ。政治の話からアホウドリみたいなささいな話まで。私が呟いて亭主がパソコンに打つの。

お年寄りに言うの。「車いすには乗っちゃダメ」

最近はテレビで共演する機会も多い。愛弟子の漫才コンビ「ナイツ」と

最近はテレビで共演する機会も多い。愛弟子の漫才コンビ「ナイツ」と

 同世代の人たちにも言いたいことはたくさんある。「夜中に頻繁にお手洗いに起きていたら十分に寝られない」、今のお年寄りはそう言って医者に薬をもらう。でも自然なことを薬で止めるなんてどうかと思いますよ。年とともにパッキンが緩むのはしょうがない、夜中に4回でも5回でも起きてお手洗いにいけばいい。それが自然な暮らしですよ。私も米寿は夜中3回程度だったのが卒寿になったら5〜6回になってきちゃって。でも出るものは出さなきゃって思うわよ。

 舞台に来るお客さんにも「車いすに乗っちゃダメよ」って言うの。周りは面倒見るのがいやだから車いすに乗っけちゃうんだから少しでも抵抗しないとね、って。

 私の絵の個展に、おじいさんが杖をついて来たの。それを見て、腰を使って歩けば杖なんかいりませんよって、私が腰を抱えて仲見世を一緒に歩いたんです。あ、歩けるね、って。その翌日、杖なしで来たんですよ。杖はもう他の人にあげちゃったって。『車いす、国の施策の老人介護、のらずに行きたい口車』ってね(「桂子のいろは決め字都都逸」より)。

「苦労がなんだ」って苦労を上から見据えてやらなきゃ

内海 桂子さん

 90歳まで元気でいる秘訣はなんですか、ってよく聞かれます。こないだテレビの企画で体力測定をやったら、体力、歩くスピードが20歳代の数値で、自分自身が驚いた。

 日記代わりに描きためてた絵の個展を初めて開いたのは、80歳のとき。90歳になって大好きな都々逸も毎日寝る前に考えてるし、ツイッターもやんなきゃいけない。ここ最近続けざまに本のお仕事もたくさん来ますし、まだまだやらなきゃならないことがたくさんある。

 でもね、一番やりたいことは、やっぱり漫才なんです。寝てるんだか起きてるんだか分からない漫才じゃなく、桂子好江みたいな漫才をやりたい。だけど、この歳になって誰かをつかまえて、っていうのは難しいわね。

 今の人は苦労が嫌いでしょ。でも苦労っていうのは、言うまでもなく、大事なんですよ。『苦労嫌うな苦は身の宝、苦労しようじゃ蔵が建つ』って。漫才も、苦労しなきゃ本当に客席に伝わる喋りにはなりません。苦労で萎びちゃだめね。苦労がなんだ、と苦労を上から見据えてやれば逆に儲かる。ここで言う儲かるっていうのはお金のことだけじゃない、経験という儲け、蓄えね。そうやって、苦労を積んで、経験という財産に守られたから、90歳の今でも、現役芸人としていられるんだと思いますよ。
(台東区のご自宅で取材)


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