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271号 注目の人 女優・歌手/麻丘 めぐみさん

50代の課題は、若さと老いのバランスをちゃんと見極めること
麻丘 めぐみ/女優・歌手
Profile

麻丘 めぐみ/女優・歌手
1955年10月11日生まれ。3歳から子役・CMモデルとして活躍。「芽ばえ」でレコードデビュー。同年日本レコード大賞最優秀新人賞受賞。73年7月に発売した「わたしの彼は左きき」が大ヒット。左ききブームが起こる。その年には数々の賞を受賞しNHK紅白歌合戦初出場を果たす。70年代を代表するトップアイドルとなる。2000年に「シアタードリームズ・カンパニー」を主宰し自ら芝居のプロデュース・演出も手がけている。2008年から「Megu-Vision」と題したライブ活動も開始し今年5月に行われた第1回目は70年代フォークソングをテーマに懐かしい曲を数々披露。


何度もお断りした挙句の、歌手デビューでした

3歳、初舞台のパンフレットに使われた写真

3歳、初舞台のパンフレットに使われた写真

 私は大分で生まれ、生まれてすぐ大阪に家族で移り住みました。

 わが家は、両親と姉の4人家族。何事にも積極的な4歳上の姉が児童劇団に入り、母に連れられた私もスカウトされ、ともに劇団入りしました。

 初舞台を踏んだのは3歳のとき。これが私の芸能界デビューのお仕事でしたが、当時お笑いものが主流だった大阪での上演で、花菱アチャコさんが主役の舞台。このころ、大阪のドタバタ喜劇によくご出演なさってた森光子さんともご一緒させていただきました。ご一緒とはいっても、こちらは3歳ですから、セリフもほとんどなくて「お母ちゃんお腹空いた」っていうようなことを喋った記憶が、おぼろにありますね。

 姉は、やりたいことにまっしぐらに進むタイプで、その姉が目指した道が、歌手。家族全員、姉の夢を叶えようと、全面的に支えていました。デビューを目指して東京に出てきたのは、私が小学校5年生のとき。私を連れて母も一緒に上京しました。姉は本当に歌も上手くて、顔だってそのころの浅丘ルリ子さんのようにかわいらしかった。でもそんな姉でも、デビュー後、名前を3回変え、再デビュー、再々デビューをはかっても、結局売れなかった。歌の世界はなんて厳しいんだろう、と思っていました。

 だから、姉について回っていた私へ「歌をやってみないか」と声がかかった時も、私には絶対無理だとずっとお断りをしていました。でも結局、歌手としての道を踏み出し、16歳でデビュー。
 

地方コンサートのときは部屋の外から鍵を掛けられ外出禁止

5歳、近所で

5歳、近所で

 70年代初頭、洋楽に近い歌謡ポップスが台頭。それまでとは音楽的な変化があり、アイドルというものが出現した時代でもありました。私は、ほぼ、アイドル第1世代で、私のデビューと前後するタイミングで、南沙織さん、浅田美代子さんがデビューしました。

 当時は1週間毎日、歌番組が放映されていたので、私も毎日テレビに出ずっぱり。おじいちゃんおばあちゃんから、お孫さんまで、テレビで流れる曲を聴いて覚えて、そしてレコードを買ってくださる。ヒット曲というものが、世代を超えて、幅広い年代層に受け入れられた時代でした。

 いろんな地方のコンサートにも出演しましたが、それぞれの土地の思い出なんてほとんどありません。空港や駅に着いたらそのまま会場入りで、コンサートが終われば会場から車でホテルに。ホテルに着くと、マネージャーに外から鍵をかけられ、一切外出不可。食事はルームサービス。人間性を無視されたような気がしてつらかったですね。

 ファンからの応援をいただくと、うれしいしありがたい、だから、私もその声援に応え、返していかなきゃいけない。もっとうまく歌うためにトレーニングしたいという主張も、今のままで大丈夫だから、と聞き入れてくれない。そうした反応に10代の私は憤りを覚えていました。プロだったらもっとちゃんとやらなきゃいけないはず。人気があっても実力がないとだめなんだと、すごく焦っていたし、常に不安で、あれだけ売れていても、全然自信なんて持てなかったんです。

 あの時代の歌手は、オーディション組とスカウト組とでは意識が全然違っていました。歌手になりたくて夢を叶えたオーディション組は、やる気も満々。人気の流れに乗り、前に進もうとする意識が強かった。スカウト組の私は、この人気は絶対に一時的なものだからと、自分の状況を常に冷静にみていました。

 同じスカウト組で仲良しだった、南沙織さん、浅田美代子さんとは、そんな不安な気持ちをよく語り合っていました。ちゃんと学校に通えていなかった私の、本音で語り合える唯一の友人が彼女たちでした。

子どもを産んで、ようやく一人前になれたと感じた

小学校6年生、修学旅行での1枚

小学校6年生、修学旅行での1枚

 そして、21歳で結婚。同時に、芸能界を引退しました。周りからは、なぜ辞めるんだ、結婚しても続けるべきだと言われました。でも、自分の人生をしっかり生きてみたいという気持ちが強く、結婚を機に、それまでの納得がいっていない生き方を一旦リセットし、自分で選んだ自分の人生を始めてみたかったんです。そのころは私が一家を背負っていて、その重さもすごく嫌でした。

 20歳くらいのころは、既に人生に疲れていました。結婚した相手は、私のそんなつらさを分かってくれた人で、私からするとこの結婚は「救済してもらった」という感覚。すごく感謝しています。だから結婚後は、本当に楽しい日々でした。

 子どもが生まれたことは、私の人生最大の出来事でした。子どもを持って、これではじめて人並みになれた、とうれしかった。歌手時代、そして結婚してからもずっと、自分は半人前との意識が強かったんです。ちゃんと主婦としてやっていけるのかという不安もあった。でも子育てはやはり大変で、子どもと一緒になって、よく泣いていました。家族にも反対されて家庭に入った私は、子育ても母の助けは借りずに自分だけの力でやり遂げたかった。意地がありました。

 結婚生活が終わったのは27歳のとき。私は家庭に収まっていることに満足を覚えていましたが、母親としての日々に埋没すればするほど、夫との溝が深まってしまったんです。私の正直な気持ちは、離婚したくなかった。夫婦で居続けることって、本当に難しいなと思いました。
 

もがき苦しんだ30代

中学校2年生、修学旅行先で

中学校2年生、修学旅行先で

 離婚後は、私と子どもの生活を支えるために、芸能界にカムバックしました。あの時代は、離婚して芸能界復帰ということに対し、世間や現場の目が厳しかった。私も、あれだけ大見栄切って辞めたのに、と思うと、世間に対して申し訳ない気持ちでした。

 遅まきながら、ボイストレーニングも始めました。これからはずっと芸能界でやっていかなければいけない、そんなプレッシャーと闘いながら、何とか役者としての自信を得たいと考えていました。

 でもどれだけトレーニングを積んでも自信には結びつかない。自分の選んだことだから、家族にも誰にも弱音は吐けませんでしたし、30代はそうやってずっともがき苦しんでいた時代です。

 歌の場合、どんなに裏で多くのスタッフが関わってくれていても、表舞台に出て行くときは、私ひとり。それがすごく心細いんです。私が失敗してしまったら支えてくれていたスタッフの苦労も水の泡になってしまう。いまだに歌の仕事のときは緊張しますし、本番直前は逃げ出したくなるくらい。

 これが芝居の舞台上だと上がることはないんです。同じ舞台にサポートしあえる仲間がいるという安心感がある。芝居は皆それぞれに役割分担があるから、全部を引き受けなくてもいい。そういう風に思えるところが私のキャパに合ってるのかも(笑)。 

 お芝居ではいろんな先輩たちにお世話になりましたし、叱ってもらえたことが私の財産になりました。とりわけ、山岡久乃さんは、私が尊敬してやまない方でした。演出家からダメ出しをもらってもきちんと理解できなかった私に、「明日から3日間、お稽古の前に2人でお稽古しましょう」とご自分の時間を割いて指導してくださった。そのお芝居の最終日に、「あなたの役者人生は、今ようやく高校を卒業したくらい。これからいろんな先輩とたくさん芝居をしなさい、そしたらあなたも成人の仲間入りよ」と。だから、山岡さんが亡くなったときに、自分の道しるべが消えたように思えて、不安でした。

 今、私の芝居に的確なコメントを発してくれるのが、面白いことに、芝居の世界とは何の関わりも持たない娘なんです。基本的には、絶対褒めない。だから、「まあ今回は普通ね」って言われたときは合格レベル(笑)。娘曰く「お母さんの周りには褒めてくれる人がいっぱいいるでしょ、だから私は褒めない」ですって。芸能界とはまったく関係ない仕事をしていますが、3年前から私のお芝居にも興味を示してくれるようになって、今1番信頼できる意見を言ってくれる大切な人でもあります。

 

己の自信の有無よりも、お客さまの満足度に目を向けられるようになった

16歳、「芽ばえ」デビュー当時

16歳、「芽ばえ」デビュー当時

芸能界復帰直後、27歳くらい

芸能界復帰直後、27歳くらい

 “自分は自分でしかない”と開き直れたのは、40代になってから。自分に自信があるなしは関係ない、お客さんが楽しんでくれてるんだから、それでいい、と。肩の力がスッと抜けました。いつも不完全燃焼な気持ちが消えず、何十年やってても楽しめないことがつらかったんですが、そう吹っ切れてからは、毎日楽しくなりました。

 40代はまだ体力もあるしやりたいことも次々に出てきて、10年が3年くらいに思えたほど、あっという間に過ぎました。

 そんなころ、劇団の旗揚げ公演をやりたいと後輩から相談されたのがきっかけで、プロデュースをすることに。お弁当手配などの雑務も含め、なんでもやりました。そうしたら、今まで分からなかったスタッフの苦労がようやく分かるようになった。この仕事をしてる時には、私は役者よりスタッフの方が合ってるのかも、なんて思ってたくらい。結局、「ものづくり」に関わることが好きなんだとようやく気づけました。


できないことには固執せず、できること与えられたことを楽しくやりたい

麻丘 めぐみさん

 56歳の今、やっと仕事もプライベートも楽しめるようになりました。気持ちがあっても、実際にできること、できないことが振り分けられてしまう。だったらできないことには固執せず、できること、与えられたことを楽しくやりたいと思います。

 人間は欲深いから、年を取れば取るだけ、あんなことやこんなことをやってみたい、と欲も湧いてきます。思っててもできないことはたくさんあるけれど、思うことだけでも楽しい。そして、周りから要求された時に自分を100%出せるように、常に準備していたい。

 50代の課題は、若さと老いのバランスをちゃんと見極めながら、自分とつきあうこと。老いを認めたくない気持ちは誰にでもあると思いますが、自分の年齢にあらがおうとしないことが大切。自分の中の老いもきちんと受け入れながら、チャレンジする気持ちも保っていきたいなと思います。

 そして、60代になったらきっとまた違うことを発見できると思うし、それが今から楽しみでもあります。
(東京・台場にて取材)

 


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