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264号 注目の人 作家/角野 栄子さん

「『見えない世界』を大事にしながら、物語を紡いでいます」
角野 栄子/作家
Profile

角野 栄子/作家
1935年東京生まれ。早稲田大学卒業。
1970年ごろから童話や絵本の創作を始める。『魔女の宅急便』(福音館書店)で小学館文学賞、野間児童文芸賞、IBBYオナーリスト文学賞を受賞し、2009年『魔女の宅急便<その6>それぞれの旅立ち』でシリーズ完結。『ズボン船長さんの話』(福音館書店)で旺文社児童文学賞。
主な作品に『小さなおばけシリーズ』(ポプラ社)、自選童話集『角野栄子のちいさなどうわたち』(全6巻)(ポプラ社)、『なぞなぞあそびうた』 2巻(のら書店)など。最新刊に『ラスト ラン』(角川書店)。


体験をもとに書いた近著『ラスト ラン』

角野 栄子

 私が5歳のときに母が亡くなったのですが、残された古い写真にある母の生家、その場所だけでも見たいと思い立ち、今から8年ほど前に、岡山に赴きました。住所を頼りにそこにたどり着いたときにびっくり。写真通りの家が現存していたんです。そこだけ時間が止まったようで、今にも小さな少女の母が家から出てきそうな錯覚にとらわれました。

 そのときの印象をもとに書いたのが、最新作の『ラスト ラン』。児童書をメーンに書いてきた私の、初めての文芸一般書です。

 主人公は、74歳のイコさんと、イコさんが母の生家を訪ねて出会った、幼いころのお母さん。お母さんの名前はふーちゃん、12歳の幽霊なんです。12歳までの記憶しか持たないふーちゃんとイコさんは2人で、バイクの旅に出ることになります。

 この作品は多くの方に読んでいただき、おかげさまで発売後、増刷を重ねています。

「見えない世界」に今こそ目を向けるべき

0歳、母に抱かれて

0歳、母に抱かれて

 私の人生は、この母の死から始まったと言えるかもしれません。病院のベッドに横たわっていた母の姿が記憶に残っています。そして、まだ2歳だった弟が父に抱かれて何かをしゃべっていた姿も。死が、私から大事なものを突然奪ってしまいました。それは人間では防ぎようがない大きな力です。それを怖いと思い、そして母のお乳を飲んでいた弟のことも心配でたまらなかった。まだ5歳なのにそんな心配をしていたなんて、子どもというのは不思議ですね。

 母の死で感じた、大きな力を持つもの、その存在をあらためて考えるようになったのは、父の影響が大きいように思います。

 お盆の時期になると、お迎え火を焚きますが、父は「ご先祖さまがこの煙に乗って帰ってくる」と言うのです。「ご先祖さま、今年は階段の敷石を一段高くしましたので、つまづかないようにしてください」とお経の合間につぶやく。

 父は「見えない世界がないと思って生きてると大間違いだぞ」と、絶えず言い続けていた。そんな非科学的なこと、って10代のころの私はバカにしていたのですが、こうした考え方、言葉は、今こそ受け入れるべきものだと思っています。

 父はまた、いろんな物語も語ってくれました。あぐらにすっぽりと入り、父の体といっしょに揺れていた私は、その揺れるリズムとともに、『桃太郎』のお話の、桃が流れてくるさまを今も思い出します。

集団疎開先の山形・長井とは今もご縁が

3歳、近所の子どもたちと。右端が角野さん

3歳、近所の子どもたちと。
右端が角野さん

 生まれ育ったのは東京、深川。ですが、小学4年生のときに東京大空襲に遭って千葉に移ったので、そこでの思い出はあまりないんです。でも懐かしくて、昔住んでいたあたりに時折立ち寄ったり。あの辺も、お年寄りだと、江戸言葉というか、独特の言い回しで喋ってる方がまだいらして、そういう耳に入ってくる言葉のリズムを懐かしんでいます。私自身は、いわゆる下町子っぽい部分はないし、泣き虫の弱虫だったんですが、講演で地方に行ってしゃべると、「チャキチャキの話し方ですね」と言われることもあります。

 空襲に遭い千葉に移るまでのひと冬の間、集団疎開で山形の長井市に。そこでは、一緒に行った上級生に、とても優しく面倒をみてもらいました。ストーブもない時代だから、夜は4~5人が掘りごたつに足を差し入れて眠る。土地の大人たちにもよくしてもらいましたが、子どもたち同士でいたわりあいながら過ごしたあの数カ月は、私の中にいつまでも残る温かい思い出です。

 長井市には今でも私の本を送り続けていますし、角野栄子文庫というものも作っていただいています。短い間だったのに、深いご縁で繋がっています。

12歳は、私にとって特別な年齢

中学3年生のころ。3つ違いの姉と軽井沢で<br />(手前が角野栄子さん)

中学3年生のころ。3つ違いの姉と軽井沢で
(手前が角野栄子さん)

 私の代表的な作品の1つ、『魔女の宅急便』の主人公の女の子も、『ラスト ラン』のふーちゃんと同じ、12歳の設定です。

 12歳は、私にとっては特別な年齢です。理屈に合わないことを考えたり、行動を取ったり。周りから見たらまだまだ子どもなんだけれど、自分は大人のつもり。とてもアンバランスですが、それゆえに魅力的なのです。

 街を歩いていてもその年齢の子たちについ目がいってしまいます。制服姿でありながら、つけまつげでしっかりメイクしていたりと、姿もとってもアンバランスでしょう(笑)?

   彼らは、大人の世界と子どもの世界の「間(はざま)」にいる存在です。私は、「間」にはエネルギーが生まれると思っています。12歳には、そんな大きなエネルギーを感じるのです。

夫婦でブラジル移住

24歳、ブラジルへ向かう途中に停泊したケープタウンにて

24歳、ブラジルへ向かう途中に停泊したケープタウンにて

26歳、ルイジンニョのお母さんルーチと。サンパウロ

26歳、ルイジンニョのお母さんルーチと。サンパウロ

 1959年、24歳のときに当時日本政府が奨励していたブラジル移住を夫婦で決め、喜望峰まわりで、太平洋、インド洋、大西洋を越える2カ月の船旅をしてブラジルに渡りました。

 ちゃんとした目的があったわけではなく、デザイナーの夫が、新首都のブラジリアを見たいと言い、私はそれを聞いて、「新しい首都を作る国があるなんて、面白い、見てみたい」という珍しがりの気持ちが動き、それであっさりと決めてしまったのです。

 多少は英語が通じるだろうと自分勝手な思い込みでいましたが、かの地の言葉はポルトガル語。あてがはずれ、全く言葉が通じない環境で暮らす羽目に。言葉が通じないから、食べ物を買うにも一苦労で、そんな日々に気分がふさぎ、家の中に引きこもりがちになっていました。

 ある日、外出先から戻りサッカーボールを抱えた人懐こい少年とエレベーターに乗り合わせました。そうだ、この子にポルトガル語を教えてもらおう、とひらめき、身振り手振りでお願い。ようやく理解してくれ、その翌日、少年はちゃんとスーツを着こみ、なんとバラの花を1本持って私の部屋にやって来てくれたんです。

 彼と一緒にサンパウロの町に出かけ、店にある野菜や調味料を手に取りながら、その名前を教わりました。私が最初に書いた物語の主人公が、12歳のこの、ルイジンニョ少年でした。

 私が物語を書くようになったのは、34歳のとき。2年間のブラジル暮らしから帰国してだいぶ経ってのことでした。

 日本では万博前で国際化ムードが高まり、それは子ども向けの本の世界にも広がっていました。そんなころに、早稲田大学のときのゼミの教授で、翻訳家としても著名な滝口直太郎先生から、ブラジルでの暮らしを基に何か書いてみないか、とお誘いを受けました。

 最初は、ひたすら驚き、及び腰でしたが、書き始めてみると楽しくてしょうがなく、自分がいかに物語を紡ぐことが好きなのかに気づきました。

 そのころ娘は3歳。動き回る娘を放って机には向かえないから、画板を首から下げて机がわりにし、娘を追っかけながら、思いついたことを書き留めていきました。

 ようやく書き上げた本を手にしたときはそれはうれしかった。『ルイジンニョ少年、ブラジルをたずねて』(ポプラ社)という本です。

 この最初の本からその後7年間は出版できなかったのですが、それでもかまわず、ひたすらずっと書き続けていました。

 思い返すと、大学時代、滝口先生から「君は翻訳はやめて書きなさい」と言われたことがありました。当時は、自分は翻訳に向いてないんだわ、と落ち込みましたが、あれは「自分で物語を紡ぎなさい」ということだったのだと、卒業して10年以上も経ってから気づきました。でも結果的には、このまわり道はやはり必要だったと、つくづく思います。

魔女を訪ねたルーマニアの旅

 外国と関わりのある勉強がしたくて、早稲田の英文学科に入ったくらいですから、海外旅行は大好き。その国の文化を訪ねるのが好きなので、ヨーロッパを中心に、いろんな国に行きました。

 私は魔女のお話を書いたくせに、実は魔女のことは通り一遍のことしか知らなかったんです。読者にも魔女に関して詳しいと思われていたようだし、少しは勉強しなきゃ、と思っていたところ、ある雑誌で目に飛び込んできたおばあさんの写真。その下に「ルーマニアの魔女」という文字が。えっ?本当に魔女はいるの?と驚いて、早速、その人を訪ねてルーマニアのシゲットという街に。ずいぶんご高齢だったようですが、ちゃんとその「魔女」に会うことができました。奇妙なその振る舞いにたじろいでしまいましたが、魔女に会えるなんて、滅多にないこと(笑)。なんとも不思議な印象が残った旅でした。

 これまでにあちこち旅してきましたが、旅の熱はいまだ冷めやらずです。

好きな本に出合えることは、一生の力になります

50歳 小学館文学賞を頂いたころ

50歳 小学館文学賞を頂いたころ

 私の執筆生活も昨年でちょうど40年ですが、あらそんなに経ったの、という感じで、実感はないですね。

 私の本の読者である小さい人たちは、読者としては1番正直。つまらない話だったら、絶対に読んでくれません。自分が好きになる本と出合えることは、その子にとって一生の力になると思っています。だから、この子たちが面白いと思うものを作者は書かなければいけない。

 でも、机に向かうときの気持ちは、書かなくちゃ、ではなくて、自分が面白い、これを書きたい、と思えるものじゃないと。自分がいいと思うから相手に与えたいと思うのは、「押しつけ」ですよね。そうでなく、楽しんで書いたからあなたも読んでみて。どうかな?楽しかったかな?という気持ちでいることが何より大切だと思います。

 私は、書いている途中でわくわくしなくなったら戻って書き直しますし、それでもだめなら、もう破棄しちゃう。

 昔と違って、今の時代は図書館で1回に何冊も本を借りられますよね。でもこれは子どもにとっては、とてもよろしくない、と思ってるんですよ(笑)。

 ちょっと読んだだけであまり興味が湧かないと、これつまんないから次、また次。テレビのリモコンと同じ。子どもたちには、もっとじっくり本と向き合ってほしい、と思います。

被災地の子どもたちへの読み聞かせに参加します

 東日本を襲ったあの大震災から日も浅く、今はまだ悲しみに包まれているような日本。なにもかも失った戦後のあの時代と同じように感じます。

 あのころは、1から作り上げるという人々のパワーが充満していたし、そこからものすごいスピードで効率化を求め、進めてしまいましたね。アクセルを踏みすぎたような気もします。

 だから、今こそ立ち止まり、あらためて考え始めたい。この先、これをきっかけに日本がよい方向に変わる、と希望を持ちたいです。

 私も自分にできることでお役に立ちたいと思い、本を送らせていただきました。段ボールでバーンと送りつけるのではなく、ひとりひとりに手渡しで本を渡してあげられるということだったので、その趣旨にも賛同しました。

 また、児童書を多く出している出版社、ポプラ社からの呼びかけで、被災地の子どもたちへの読み聞かせ会に参加の予定です。その際には、子どもたちの素敵な笑顔を見たいと願っています。

(神奈川県の自宅にて取材)



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