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262号 注目の人 作家/落合 恵子さん

「地球上、すべての命は地下水脈でつながっていると感じています」
落合 恵子/作家
Profile

落合 恵子/作家
1945年、栃木県宇都宮市生まれ。明治大学英米文学科卒業後、67年、文化放送入社。アナウンサーを経て、作家生活に入る。執筆と並行して76年より東京・青山と大阪・江坂に、子どもの本の専門店「クレヨンハウス」と女性の本の専門店「ミズ・クレヨンハウス」を主宰。92年には自然食・有機栽培農産物・無添加食品の店「野菜市場」と、自然食レストランを開設。『月刊子ども論』『月刊クーヨン』の発行人。最近の著書は『崖っぷちに立つあなたへ』『わたしの介護日誌』『絵本処方箋』など。春に『積極的その日暮らし』が刊行。 クレヨンハウスHP http://www.crayonhouse.co.jp


気がつけば35歳 クレヨンハウス


クレヨンハウスにて

 私が主宰する専門書店「クレヨンハウス」(東京・青山と大阪・江坂の2店舗)が、昨年12月に35回目の誕生日を迎えました。気がついたら35年が経っていた、という感じですね。

 最初は子どもの本の専門店としてスタート。本を読んだ後はお茶を飲むという自分の習慣にならって喫茶もつくり、さらに女性の本を集めた専門店も開きました。当時としては珍しい「座り読み大歓迎」の本屋だったんです。

 「子どもの本の専門店」といっても対象は子どもだけではありません。子どもから始まって上は年齢制限なし。最近は特に70~80代の方が、自分のための絵本を探しに来られる傾向もあります。

 2階には、小さい子が口に入れても安全な、食品と同じ基準の材料や塗料を使った玩具を集めました。同時に小さな出版社もやっています。虐待を体験した人がどのような思いを持っているかを描いた絵本や、お年寄りとお孫さんが共に楽しめる落語絵本シリーズも考案、出版しました。110万部突破となった落語絵本シリーズは、多くの方に読まれ続けています。

 それから子どもが多く訪れるので、お店で扱う食材の安全性にこだわりたくなって。「安全なものこそおいしい」という思いから、有機野菜を扱う八百屋と自然食レストランも開いて20年になります。

 お休みになると、遠方から家族で来店されるお客さまもいらして。旅費を伺うと、なんと絵本の何十倍の金額でびっくり(笑)。「これは大変!」と、絵本を毎月お届けする定期便も開始したんですね。

 こんなふうに、作家活動と並行して、落穂拾いみたいにひとつひとつ拾い、広げてきたお店です。書くことだけなら、むしろたやすい。かっこよく書こうと思えばどんなふうにだって書ける。ただし具体的に行動する形がなかったら絵空事になってしまう。私は行動しつつ、ものを書いていきたい。その具体的な行動の形のひとつが、このクレヨンハウスです。

 35年も経つと、お客さまとも3世代のお付き合いに。20年ぐらい日本を離れていた方から「もうお店はないだろうと思って来たら、まだあって、うれしかった」と感激されたことも(笑)。お客さまからはいろいろアドバイスをいただいたり、「こんなお店をやってくれてありがとう」と感謝されたり。これまで続けてきて本当によかった、と冥利に尽きますね。

 絵本は有機野菜と同じく「心」のオーガニック。有機は命のつながりがあるということ。お店を通じて、お客さまとのつながりをさらに大事にしていきたいです。

 具体的なスペースとして店を続けるのは私にとってほかにも意味があります。開店当時は女性が自立しようにも職がなかった時代。だから女性が働ける職場をつくりたかった。そしていま、百数人のスタッフがいて、「皆の生活が私にかかっている」という責任感がある。この責任を突きつけられた状況は、私にとってはいいことなのかも。だって私、基本的に無責任なところがあるから(笑)。自由でありたい、と思いつつ、一方で、ブレーキもある。このくらいが、ちょうどいいのかもしれません。

リアルな図鑑が愛読書


小学校3年生ころ、
千葉の太海海岸にて。
当時から海が大好き


3歳のころ。
郷里の栃木県宇都宮で。
男の子によく間違えられた

 敗戦の年、栃木県宇都宮市に生まれました。シングルマザーの道を選んだ母は、22歳で私を出産。その後、母と東京・東中野のアパートへ移り住みました。途中から、祖母も加わって。

 母は純粋で一途なところを持った人でした。家庭の事情で机の上で勉強する期間は短かったんですが、本当の意味での教養とは何か、身をもって私に示してくれた女性でしたね。

 私は運動が好きな子で、走るのも木登りも大好き。本を読むのも大好きで、行動的な部分と、いわゆる文学少女の両面がありました。

 とはいえ「お姫さまもの」の本は苦手だった。いじめられて耐えている姿がなぜか苛立たしくて。だってイヤなら逃げちゃえばいいのにね(笑)。継母に対する差別を助長したり、狼や狐に対する悪い思い込みを植えつける話もどうも。だから動物図鑑、植物図鑑といった、事実を書いている本が愛読書。「リアルなものこそロマンティック」と思っていました。

 将来の夢はたくさんありました。なってみたい職業はパン屋さんとか、ラーメン屋さん、画家、それから船乗りも考えた。なぜなら小学校のとき先生から「船乗りには、女の子はなれない」と聞かされ、とてもショックを受けたから。「えー、どうして女はなれないの?」って。そんな疑問も、私にとって後のテーマとなるフェミニズムを考える一つの契機になったかもしれません。

「レモンちゃん」時代 不自由さも感じて

大学1年生のころ。第1志望校に落ちたこともすぐに忘れて…

大学1年生のころ。第1志望校に落ちたこともすぐに忘れて…

文化放送入社のころ。就職先が決まってほっとしたのも束の間。栃木なまりで注意を受け、落ち込んだことも

文化放送入社のころ。就職先が決まってほっとしたのも束の間。栃木なまりで注意を受け、落ち込んだことも

 植物や動物の研究がしたくて帯広畜産大学を希望しましたが、当時は女子寮がなかったかで断念。明治大学に進んだ後、出版社の入社試験に全部落っこちて、文化放送に入社しました。当時はいまと同じで、就職冬の時代でした。

 アナウンサー、DJ時代に「レモンちゃん」という愛称で活動しましたが、あれは会社が私につけた商品名。「私でない私が勝手につくられていく」という事態は、フェミニズムで考えるとまさに「女性の商品化」でしたね。

 もともと華やかなマスコミの仕事は苦手で。「女の子」という枠の中で役割は限定されていたし、政治的な発言をチェックされる場合もありました。不自由な仕事だなあって思って。まぁ、生放送だったから言っちゃえばこっちのものでしたけれど(笑)。

 そんな当たり前の疑問を捨てたら終わりと思っていたので、扱いにくい社員だったでしょうね。

40歳のころ。女性だけで制作した『ちょっと待ってMONDAY』のスタジオで

40歳のころ。女性だけで制作した
『ちょっと待ってMONDAY』のスタジオで

 10年間のアナウンサー生活を辞めて作家活動に入ったのは、自分の責任において、自分の言葉で語りたいという思いがあったからです。

 執筆活動では、女性、子ども、障がいのある方、高齢者の「声」に主に光を当てました。なぜかというとその方たちの声は社会の真ん中に届きにくいシステムがあるから。その声が世の中に十分に出るようになったら、私の役割は終わりだと思ってやってきたわけです。 

 私の反骨精神は自分の出生や就職といった体験から始まり、リアルタイムでの問題からも強く生まれています。「DV(ドメスティック・バイオレンス)」「セクシュアルハラスメント」という言葉を知っていただくために、早くからその言葉を使ってきましたが、いまもなお皆さんからそうした相談が絶えないという声があります。まだ変わっていないんだ、と痛感しています。

母の介護から「人権」が見えた

 アルツハイマー病を発症した母を7年間自宅で介護し、4年前に看取りました。

 在宅での介護は私の希望でもありました。母が祖母を介護する姿を見てきたし、母もたぶん自宅での介護を望んでいるだろうと思ったからです。

 母の介護を通して分かったのは、介護はやってみないと本当のことは見えないということ。福祉はどうやって切り捨てられてきたか。どこに問題があるのか。いろいろ勉強させてもらいました。自身のテーマである人権問題も見えてきたので、本当にやってよかった。母から宿題をもらったと思いました。

 だから私個人の体験で終わらせずに、介護の現実に視点を広げようと考えました。でないと、介護は美談で終わってしまう。その美談の陰に、介護する人たちが燃え尽きたり、無理心中したり、「疲れた」を「疲れた」と言えないままに倒れている現実があります。

 なかにはいろいろな事情で施設での介護を選び、それを痛みに感じている人もいらっしゃる。介護は在宅か施設か、の二者択一の問題ではありません。どちらを選んでも十分な福祉が受けられる社会をつくられなければいけないのであって、一生できなかったことを悔いて生きていくなんてアンフェアな話ですね。

 いま私は、介護ヘルパーさんたちの給料アップの活動もしているんですが、やはり彼ら、彼女たちの給料は少なすぎますね。介護は命に関わる仕事で、いつも神経を張りつめているのにその対価はあまりに低い。そして一生懸命やったあげくに、力尽きて離職してしまう。これではいけない、行政の意識や制度を変えねばならないと強く感じます。

 どうすれば介護される側が幸せになれるのか。また介護する側に辛さや後ろめたさを感じさせないようにできるのか。それがこれからの課題だと思いますね。

あなたの1票を大切にして

 自分は、幸せか不幸せか。そういった価値観に捉われるのが不幸せじゃないかしら。だって何が幸せかはわからない。女性誌に出てくるようなファッションやパートナーを得たとしても、それで本当に幸せ?人と比べたり、決められたパターンのなかで幸せを追うのは、むしろ不幸なことでは?幸福は比較の上に存在するものではないのですから。

 これまでささやかながらいろいろな活動をやってきましたが、元にあるのは、その人がその人の個性、その人の色をはぐくめる人間関係、政治環境を含めた社会環境をつくっていきたいという思い。身体的・精神的状況とか、国籍やセクシュアリティなどによって優劣をつけられない社会に向けて、ささやかだけど何ができるかを考えています。その基本にあるのは、やはりひとりひとりの命なんですね。

 母の介護などを経て感じたのだけれど、地球上のあらゆる命は地下水脈ですべてつながっている気がします。例えばアフガニスタンは遠い国だけど、そこには私たちと同じ介護をしている人もいるし、子育てをしている人もいる。みんなつながっているんです。

 日本は国土の上では戦争はないけれど、他国の戦争に加担をしている事実もある。「知らない間に戦争になっていた」という過ちを2度と繰り返してはいけないと思います。私たちがキャベツ1個選ぶのと同じ、日常生活のレベルから豊かな平和を問い直していきたいですね。

 その根本はやはり政治。声を上げても、政治のシステムが変わらない限り前には進まない。だからそれを変えるための私たちの1票が大切になる。いまの格差社会は将来もっと固定化されるでしょうし、東アジアの緊張関係を見ても世界はどうなるかわからない。

 将来の日本や世界を変えるという意味で、それぞれの1票はとても大切なんです。

 母の生前、初めて選挙に行ったときの話を聞いたことがあります。戦争をくぐり抜け、参政権を得て初めて1票を投じた。桜の花が咲いている下、「今日が私たちの新しい誕生日」と、母は本当にうれしかったとか。

 参政権はいまの世代の人たちにとっては当たり前のことでしょう。ですが、前の世代の人たちがいかに闘って手に入れたものかをよく考えて、自分の1票を大事に使ってほしいと願っています。

(渋谷区のクレヨンハウスにて取材)


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