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248号 注目の人 テンプホールディングス代表取締役社長/篠原 欣子さん

「天職や適職は、後から振り返って分かるもの。やりたいことにチャレンジしなさい」
篠原 欣子/テンプホールディングス代表取締役社長
Profile

篠原 欣子/テンプホールディングス代表取締役社長
1934年、神奈川県生まれ。
持株会社テンプホールディングス、テンプスタッフの代表取締役社長。
2007年、企業家大賞受賞。著書『探そう、仕事の、歓びを。』(あさ出版)を執筆。
また、アメリカの『フォーチュン』誌で「世界最強の女性経営者」に10年連続で選ばれ、
2009年には第35位にランクしている。


結婚、離婚、海外生活…いろいろな経験を経て会社を起こす


1960年聖徳記念絵画館前にて

 人材派遣会社『テンプスタッフ』は1973年5月に起業しました。5年間の海外生活を終えて帰国したばかりの私は38歳。ずいぶんとスロースターターですが、結婚、離婚、海外生活と、ひと通りの経験をしてきたので、とにかくやるのみでした。

 私がオーストラリアで働いていたときに「人材派遣」というサービスがあることを知り、それがヒントになりました。人材ビジネスというより、女性が生き生きと働ける派遣という仕事を始めてみよう、という軽い気持ちでした。

 発起人は母や親戚に頼み、資本金の100万円はオーストラリアで貯めたお金と、母から贈与された財産を合わせて何とか都合しました。それは当時の私の全財産。怖いもの知らずで勢いで始めた会社でしたが、経営の知識などなく、最初は戸惑ってばかりでした。

 あれから30年以上の月日が経ち、気が付けば会社は大きく発展し、売り上げは2000億円を超えるまでになりました。社長である私でさえ、驚く数字です。

 “世界最強の女性経営者”に10年連続で選ばれた社長だとか、私を「特別な人」と見てくださる方も多いのですが、行き詰まったことも多くあり、やめたいと思ったことは1度や2度ではありません。

 でも私には「働きたい人が働きたいときに、働ける状態が理想の社会」であるべきという信念があり、働きたい人に仕事を紹介するのがテンプスタッフの使命だと思っていましたから、今日までやってこられたのです。

母は助産師。その凛々しい後姿に生き方を学んだ

 生まれたのは神奈川県横浜市、といっても中心からは離れた里山の連なる田園地帯。国民学校の校長だった父は、私が8歳のころに他界しました。

 母は、あの戦時下に女手一つで5人の子どもを育ててくれました。しかも長兄が小児喘息でしたから、子どもは健康でありさえすればいいという考えで、「勉強しなさい」なんて言われたことがありません。その代わり、遊びに連れて行ってくれたこともなかった。なので、子どものころから、自分のことは自分でするのが当たり前でした。

 母の仕事は助産師。日本で初めて助産師の資格をもらった数人の一人でした。まさに「プロ意識」の固まりのような女性でした。陣痛が始まった家の人が呼びにくると、食事をしていても寝床についていても、すっと立ち上がり、キリッとした格好で出掛けていく。経済的な事情を抱えた家や、夜中に何度も通って子どもを無事取り上げても、お金が払えない人もいました。でも、母は愚痴一つこぼすことなくいつも真剣。そんな母を「お母さんて素敵」と。母の凛々しい後姿から、生き方のようなものを学びました。

どうせやり直すなら早いほうが、と家を出た


1956年三菱重工業就業時代。横浜にて

 高校を卒業した私は、進学せず三菱重工に就職。それは自分の意志でした。親戚から「偉いね」と褒められましたが、なぜ偉いの?と。まだ働く女性は珍しくて、「ビジネスガール」なんて呼ばれた時代。自立心が強かったのでしょうね。

 4年働いた後、別の会社に再就職。25歳のとき、知人の紹介で結婚しました。しかしずっと家の中にいるという生活が性分に合わず、1年で離婚。

 今でこそ笑って話せますが、当時は、離婚などとんでもないこと。母は何も言いませんでしたが、次兄に怒られたりして、どん底の気分でした。が、この離婚がバネになり、一人で生きていく決心がついたのです。

 就職先は自分で見つけました。その職場の近くに英会話教室があり、すぐに申し込みました。高校時代に好きだった英語をもう1度勉強してみたら、何か得るものがあるかもという、気軽な動機でした。ところが始めてみるとものすごく楽しくて、休日は1日中英語のテープを聞いて過ごすほど。それとともに海外に行ってみたいという気持ちが募ってきました

 何かを始めると、とことん集中してしまうのは、小さいころから変わらない私の性格ですね。

孤独に耐えた4年間のヨーロッパ留学

 当時、留学する女性なんてほとんどいない時代。しかも私は30歳過ぎの普通のOLです。しかし、その衝動は抑えきれず、必死で留学の方法を考え、スイスにいる友人の商社マン夫婦を頼ってスイスに行くことに。ドイツ語圏でしたが、何事も始めてみないと分からないとばかりに、ホームステイをしました。本当に孤独で、毎晩ベッドに入って天井を見上げると涙が溢れてくる。でも昼間はドイツ語学校に通い、必死に勉強しました。

 やっぱり英語力をもっと磨かなければと思い直したのは、半年経ったころ。英語圏のイギリスに移りました。イギリスでは英語漬けの毎日。あれほど勉強したことは、これまでの人生で1度もないというくらい、1分1秒を惜しみました。

 英会話のレベルアップと、ビジネスに役立つ秘書学を学ぶために入った学校には、年齢も国籍も違う人たちがいて、勉強よりもむしろ考え方の幅が広がり、後々とても役に立ちました。貧乏学生でしたから、母に国際電話をかけるお金や暖房費までも節約し、死にものぐるいで授業についていきました。滞在費も尽きて帰国を決めたとき、ヨーロッパ滞在は4年に及んでいました。

もっと完璧な英語を!海外での仕事にチャレンジ


1969年 イギリス郊外のゴルフ場にて

 日本に帰ってきたのは69年。ドイツ系の会社に社長秘書として就職しました。オフィスの共通語は英語。お給料も良く、不満はまったくなかったけれど、もっと完璧に英語が使えるようになりたい。そのためにはもう1度海外へ、という気持ちが湧き上がってきたのです。ある日、『ジャパンタイムズ』に載っていた「日本人求む」という求人広告が目に止まりました。

 オーストラリアのシドニーにある市場調査会社が、日本進出の準備のためにスタッフを探していたのです。迷いはありませんでした。36歳で、再び旅立ちました。シドニーの会社は社員50人ぐらい。女性の役員がいて、経理部長も女性。なにより働く女性たちの姿が生き生きと輝いていました。日本人だからとか、女性だからという差別はまったく感じませんでした。

 あるとき、同僚の女性が休暇を取ることになり、いつものように出勤すると、彼女のデスクに知らない女性が座ってテキパキと仕事をこなしている。これがテンポラリー(派遣)スタッフでした。

働きたい会社がないなら、自分でつくってしまおう


1983年ころ。青山オフィスにて

 シドニーから帰国したのは73年、38歳のとき。新聞の求人広告に応募して2社から内定をもらいましたが、たとえ海外やビジネス経験があっても、女性に求められるのは補佐的な仕事がほとんど。女性がのびのび働ける環境はありませんでした。就職を躊躇していたときに思い出したのが、人材派遣業でした。働きたい職場がないなら、自分でつくってしまおう。日本にはまだ人材派遣業がない。やるなら今しかないと、直感的に思ったのです。「ダメだったらいい人を見つけて結婚すればいいわ」なんて気持ちで始めた会社でした。

 住居として借りた8坪のワンルームマンションを事務所にして、3日3晩かけて作った会社案内のパンフレットを六本木界隈のオフィスビルに配りました。人材派遣は、日本の企業にはほとんど馴染みのないころで、丁寧に仕事の説明をしても分かってもらえない。

 創業からしばらくの間はほとんど仕事がない状態で、資本金の100万円はあっという間に底をつき、何とか家賃を払い、食べていくためにと、英会話教室を始めました。夕方、ドアにかかっている「テンプスタッフ」の看板を裏返すと、「英会話教室」でした。

「あと1日だけ頑張ろう」と30年が経った

 でも、毎日毎日働いて仕事が増えているのに、資金繰りはちっとも楽にならない。派遣スタッフのお給料は、得意先から派遣料金が支払われる前に先払い。仕事が増えれば増えるほどお金が必要になるんですね。

 今もよく覚えていますが、母のところに泣きながらお金を借りに行ったことがありました。兄に知れると「あいつが好きで始めたことなのに、貸さなくていい」と母を怒るので、朝早く行きました。

 当初はいつもそんなふうで、お金がないから、目の前の仕事に追われ、やめるどころか、立ち止まるヒマもない。それでも派遣スタッフや得意先から「ありがとう」と言われると、それが原動力になって「あと1日だけ頑張ろう」と続けているうちに、実績が認められ事業が広がっていったのです。

 30年以上続けてきて、ようやく私も「これが私の天職です」と言えるようになりました。今の若い方は最初から「私の適職は?」「天職は?」と考えがちですが、最初からそんなものはないと思います。長い道のりを歩いていって振り返ったときに分かってくるものじゃないかしらね。今、仕事がつらいという人でも、どこかに喜びを感じる場面がほんの少しあるとしたら、それは適性があるということですよ。「探そう、仕事の、歓びを。」はテンプスタッフが働く皆さんに発信しているメッセージです。挫折や苦しみを経て、歓びを見つけていくことに、仕事の面白味があるんです。

日本には女性の力がまだまだ足りない


 子育てしながら、また子育てが終わった女性がもう1度社会に出て働けるのが派遣労働です。親の介護をしながら、という人も働けます。これは女性の可能性を大きく広げてくれるシステムだと思います。日本の会社にはもっと女性役員がいていい。細やかな心づかいや柔軟性といった女性の力がもっと必要です。日本はまだ男性社会ですから、男性とは違ったものの見方や力がミックスされないと、会社は成長しないと思います。今、働きたい女性は多いのに、保育園や保育士も足りません。介護の負担も女性に偏っています。

 9年前から「社内ベンチャー制度(現NVC制度)」で手を挙げた社員に、新しい事業を積極的に任せています。保育事業や、フードビジネス業界向け人材サービスなども生まれ、新しいリーダーが育っています。私がこうして新たな事業に投資するのは、社員を育てたいという気持ちが強いからです。何かの事情で会社が明日にはなくなるかもしれないでしょう。そうなったとしても、何とかして生きていける力を社員一人ひとりに持っていてもらいたいからなのです。

 これは、「自分の会社を守る」という男性経営者の発想ではなく、母性愛みたいなものでしょうね。

 私は1度も社長になりたい、なんて思ったことがないし、だから今でも社長室がありません。私は派遣スタッフも社員も、みんなが仲間だと思っていますからね。


(渋谷区の本社にて取材)



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