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183号 注目の人 プロレスラー/長与 千種さん

「『床の間に飾れる』ようなプロレスラーを育てたい」
長与 千種/プロレスラー
Profile

プロレスラー/長与 千種さん
1964年長崎県大村市生まれ。
1980年、全日本女子プロレス入門、8月にデビュー。
1984年、飛鳥とクラッシュ・ギャルズを結成し、日本中に女子プロレスブームを巻き起こす。
1989年、絶頂期に引退、タレントとして芸能界に転身。
1993年、フリーとして正式復帰。
1994年、「GAEA JAPAN」を設立。AAAWシングル王座を2度に渡って獲得する一方、プロデューサーとして、自らの手で新人を育て上げ、団体躍進の原動力としても活躍。
2000年、飛鳥と再びクラッシュ2000を結成する。月平均4回の興行に出場しながら、芸能活動も積極的に行っている。舞台・映画『リング・リング・リング』、映画『GAEA GIRLS』他出演。著著『自分流』(大和書房)など。


デビュー25周年


 この8月、リングにデビューしてちょうど25周年を迎えます。自分でもよくこんなに長く続いたなって思います。

 あらためて25年を振り返ると、1番の財産はやはり人との出会いですね。いつも、目の前によきライバルがいて闘ってくれたこと。そして、応援してくれた、大勢のファンの方たち。もし、この仕事をしていなければ絶対会わなかった人たちと、出会う縁に恵まれたこと。それは、宝くじに当たったような感動がありますね。当たったことはないんですけど(笑)。

産婦人科の先生になるのが夢だった

 本当は、私は医者になりたかったんですよ。今は誰も信じてくれませんが、実は子どものころ、すごく体が弱かったんです。小児結核で喘息がひどく、体はガリガリにやせていました。そのころ、通っていた小児科のお医者さんが、恐がらせないように治療中に昔話をしてくれたりして、すごく優しい先生でした。だから、自分もそういう医者になりたい、と思ったんです。できれば、産婦人科で子どもを誕生させるサポートがしたい、と。でも考えると、その夢は違う形で実現していますね。今、プロレスラーという子どもたちを育て、世に送り出しているわけですから。

 その後、とにかく健康になってほしいという親の願いから、空手を習い始めました。男の子ばかりの道場で、最初はゼイゼイ言いながらの練習でしたが、呼吸の仕方を先生から教えていただいて、喘息もかなり良くなりました。

 私は体が弱かったにもかかわらず、父の希望で洋服からすべて男の子のように育てられたんです。父は競艇選手でものすごく厳しい人でした。父としては、親子 2代で競艇をやるのが夢だったようです。でも、競艇選手にならなくてよかったと、つくづく思いますね。最近、女子競艇のレースにプレゼンテーターとして呼ばれることがあるんですが、スピードもあるし、見てるだけで恐いんですよ。でも私の性格だと、自分から競争相手にぶつかっていって、レースにならないかもしれないですね(笑)。

「月給10万円」にひかれてプロレスの世界へ


道場でのスパーリング
上が長与さん

 私がプロレスラーになろうと決めたのは、家庭の事情からですね。プロレスの試合を初めて見たのは10才のころ。マッハ文朱さんを見て、なんてカッコいいんだろうと一目で憧れてしまったんですけど、まさか自分がプロレスラーになるとは、思ってもいませんでした。

 ところが、小学校5年のとき、友人の保証人になっていた父がその借金を背負い、店も家も全部抵当に取られてしまったんです。後には何千万という借金が残り、その返済をするために家族も離散。

 そういう状況の中で、医者になるという夢はあきらめざるを得なかった。

 そして、中学卒業を前にして進路に悩んでいたころ、たまたまプロレスラーの募集広告を目にしたんです。月給は10万円。もうこれしかないって思いました。当時の10万って今の何倍もの価値がありましたから。

 15才で上京し、全日本女子プロレスに入団。でも、2日で辞めようと思いましたね(笑)。まず長崎の田舎から東京へという、カルチャーショックが大きかったんです。言葉も違うし、何かしゃべるたびに笑われる。練習も厳しいし、当然女の子としては扱ってくれない。一応人よりは大きな体だったんですけど、鍛え抜かれた先輩の体がやたら大きく感じて、壁のように見えました。

 それからずっと辞めよう辞めようと思いながら続けていました。1度、本当に故郷に帰ろうと思って、山手線に乗ったんですけど、結局羽田空港への行き方が分からなくて、山手線を1日グルグル回ってた(笑)。山手線に乗っていればいつかは着くと思っていたんですね。

 お給料も、最初は全然もらえなかったんです。プロになって試合に出て、初めてお金をもらえるわけで、10万円は大体の目安にすぎなかったんですよ。1年後に寮を出て部屋を借りようと思ってもお金が無い。どうしようと思っていたら、ある日、事務所の人に呼び出されて、封筒の束を渡されたんです。それは、全部母からの仕送りでした。1年間、私に黙って会社が貯めていてくれたんですね。父は仕送りには反対だったようですが、父にばれないようにお菓子の箱に忍ばせたりして、ときどき送ってくれていたんです。

親と肩を並べた瞬間

 それから4年半。私にもやっとチャンスが回ってきました。ライオネス飛鳥という相棒に恵まれ、お客さんがどんどん集まってくれて。初めて一緒にタッグを組んで、チャンピオンと闘ったとき、ファンの女の子から紙テープが飛んだんですよ。うれしかったですね。わずか十数本だけど、1万本の紙テープよりうれしかった。あの一瞬、やっててよかった、と本気で思いましたから。

 それからですね。ホントにがんばんなきゃいけないって思ったのは。その矢先、母が病気で倒れ、もう後は私に任せてっていう気持ちでしたね。それまで親に苦労をかけてきたけど、これでやっと恩が返せる、親と肩を並べられる。そう思ったんです。だから、それ以降はどんなに辛くても全然苦にはならなかった。きっとものすごく家族愛が強いんだろうな。もう必死でしたから。そんな私の姿を見て、お客さんも共感し、応援してくれたんだと思います。

「天に向かうひまわり」のように、再びリングへ


GAEA後楽園大会にて
右が長与さん

 そして84年に現役を引退。当時はどんなに人気が出ても、25才で引退するのが業界の習わしのようになっていて、どこかにやり切れない思いを抱えていました。ちょうどそのころ、つかこうへいさんに出会い、『リング・リング・リング』という作品に出演することになったんです。つかさんは私のことを、こう言ってくれたんですよ。

 「コイツは、床の間に飾れる女なんだよ。コイツは人生しょってるんだよ。家族しょってるんだよ。だから、信用できるし、俺に言わせれば、天に向かうヒマワリみたいなものなんだよ」って。
そんなカッコいいせりふを焼肉屋で言うんですよ。しかも、先輩の役者さんたちを前にして。

 この作品の中で、私は家族を背負い、母親としてリングに立つ力強いレスラーを演じました。その撮影中、つかさんに言われた言葉が、その後の私の人生を大きく変えたんです。それは、「お前が女子プロの世界を変えろ。レディーのプロレスをしなきゃいけない。女性としてのキャリアを感じさせるような女を作れ」と。

 最初は意味が分からなかったんですが、だんだんそれが自分の使命のように思えてきました。結局、この言葉に励まされて、私はもう1度リングに立つ決心をし、ガイア・ジャパンという新しい団体を設立したんです。あの一言がなければ、もう二度とプロレスには戻らなかったかもしれない。だから、つかさんには本当に感謝しています。

女子プロレスの世界を変えたい!

 女子プロレスの世界は、スポーツというよりも「見世物」的な色合いが強く、体がボロボロになるほど試合数をこなしても、それに見合うだけの収入も確保されていないのが実情なんです。衣装も怪我をしたときの治療費も全部自前。一生プロレスをやりたいと思っても、25才になれば引退しなければいけない…。私はそんな女子プロレスを変えたい、そしてプロレスラーとしての誇りを持てる選手を育てたい、そう思ったんです。

 とはいえ、実際に新しい団体を旗揚げするのは大変でした。他団体からの風当たりも強く、人の人生を預かるという責任の重さも実感しました。

 人を育てるって、ある意味戦いですよね。物心ついた女の子たちにどうやって教えたらいいのか、本当に悩みました。プロレスは命がけですから、自分が死なないための受身を教える。だから、妥協は許されない。それが分かるまで、竹刀で殴ったり蹴ったりもしました。そうすると、だんだん自分の心が痛くなるんですよ。その子たちから憎まれることが恐くなってくるんです。でも、自分はあえて嫌われようと思いましたね。とにかくすべてのエネルギーをかけて、この子たちを育てようと必死でした。

 でも、その本心とのギャップからか、そのうち家に帰れなくなるくらい情緒不安定になって、精神的に本当に辛い時期もありました。そのとき、人を育てるということが生半可なことじゃないなって痛感しましたね。

 優しくするのは簡単なんです。でも、私は彼女たちにリングに上がってほしかった。「床の間に飾れる女の子」になってほしかったんです。でも考えてみると、彼女たちを育てることによって、私自身も彼女たちから育てられていたんだなって思います。お互い成長することができた「出会い」、本当に最高ですね。

教え子に引き継がれたDNA


道場での練習指導 右が長与さん

 ガイア・ジャパン道場では、近くの畑で無農薬野菜を作っているんです。農作業って、想像以上にものすごくハードなんですよ。でも、自然との戦いの中で、精神的にも体力的にも鍛えられる上に、自分たちで育てた野菜を食すことによって、栄養コントロールもできる。一石二鳥どころじゃないですね。 組織としても、興行数を調整したり、医療体制を整えたりと、選手のコンディションを維持できる様々な環境作りに取り組んできました。ガイア・ジャパンというと、業界の中ではなんとなく敷居が高いように言われるけど、でもこれが当たり前の形なんですよね。

 以前、引退を控えた他団体の選手が、ガイア・ジャパンの大会に参戦したんです。試合後に「私はガイアに上がれたことを誇りに思います。もしガイアに入っていたら、引退しなかったかもしれない」と言われたんです。ものすごくうれしかったですね。今までがんばってきたことへの何よりのご褒美だと思いました。そう言われたことが心の財産だし、自分も何かしら変えることができたんじゃないか、そう思いましたね。

 いつかは、自分が教えた選手たちに、リングで倒されたい。そうじゃないと教えた甲斐がないじゃないですか。彼女たちには、私のDNAが引き継がれていますから。彼女たちに心地よく倒されるのが、今からすごく楽しみなんですよ。もう半分ぐらいは抜かれつつあるんですけど。時々、教え子たちが本当に大きく見える瞬間があるんです。これはお金では買えない喜びですね。私は、彼女たちがいるかぎり、何があっても守ってあげたい。そして、いい信号機でありたいと思うんです。

 彼女たちの、そして多くの人たちの夢を応援すること、それが私の一生かけての仕事ですね。

(横浜市港北区新横浜グレイスホテルにて取材)



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