Wendy-Net トップページ > Woman > Back Number > 建築と子供たちネットワーク仙台/建築家 渋谷 セツコさん

Woman

BackNumber

建築と子供たちネットワーク仙台/建築家/渋谷 セツコさん

渋谷 セツコさん
「暮らしを支えた堤焼〜子どもたちと願う登り窯の震災復興」
Profile

渋谷 セツコさん/建築と子供たちネットワーク仙台/建築家


ワークショップで崩れたれんがを片付ける

半壊した堤焼登り窯 削るのに夢中
半壊した堤焼登り窯 削るのに夢中

 仙台市北部の街中、坂になっている敷地の屋根の下に、奥行き5メートル、全長10メートル、間口1.5メートルで6連の今は使われていない「堤焼」登り窯(大正7年築窯)が、残されています。「堤町まちかど博物館」(仙台市青葉区堤町)の中にあるこの登り窯は、半分が東日本大震災で崩壊しました。

 登り窯の前に20人ほどの老若男女が集まっています。「では、これから崩れたれんがのお掃除を始めます」。2代目館長の佐藤はつみさんにあいさつをしたあと、用意された手袋とマスク、ゴーグルを身に着けた子どもたちの前に見慣れない道具の箱が置かれました。こけし工人の佐藤正廣さんが、その中から1組の金槌と、タガネという鉄の道具を取り出して両手に持つと、足元に崩れたまま転がっているれんがの1つを拾い上げ、それにこびりついている粘土の塊を器用に削り始めました。「こんなふうに、削っていくんだよ」。れんがは見る間に角が立ってきて、元に戻ったようにきれいになってきました。子どもたちは、同じく初体験の大人と一緒に、手に余るほどの大きなれんがに取り組み始めました。重い金槌とタガネを振るって、少しずつ少しずつ削っていくと、いつの間にか目の前にきれいになったれんがが積み上がっていきます。

庶民に愛された「堤焼」の登り窯遺構

 仙台の伝統工芸である「堤焼」は江戸時代から昭和まで人々の生活を支えてきた焼物でした。堤町には、足軽たちの副業であった時代からずらりと窯元が並んでいました。この辺りの台原一帯から出る良質な粘土を使って、独特な海鼠釉をかけて焼いた水がめや鉢は、冬場に作られる「堤人形」とともに親しまれていました。しかし、暮らしの劇的な変化や都市化の波が押し寄せ次々と堤町から窯が消える中、1978年の宮城県沖地震で煙突が倒壊、「佐大窯」4代目の故・佐藤達夫さんはやむなく廃業しましたが、窯と工房を守り続ける決心をしました。そんな中、ある夏に、子どもたちとまち探検をしていた私たち「建築と子供たちネットワーク仙台」と出会ったのです。私たちは達夫さんの思いに動かされ、2001年に「堤町まちかど博物館・堤焼佐大ギャラリー」を開設しました。堤町に一つだけ残った登り窯を子どもたちに見てもらいたい、歴史の教科書に出てくる“強くて勝ち残った”人たちだけでなく、身近な歴史を肌で触れてもらいたい、との思いからです。暮らしの中で培われ、人間の手で形作られたものにはたくさんの工夫や知恵が詰まっています。それを感じるには、写真や映像や模型ではなく、リアルなそのものでなくてはならないし、歴史的建造物の場合は“そこにある”ということが大事だと思うのです。

 

大津波で住んでいたまちが消えた

 東日本大震災の時、自分の住む“まちが消えてしまった”―そう実感したのは震災後2カ月を過ぎたころでした。わが家は、宮城県亘理町荒浜の阿武隈川沿いにありました。海からは1キロメートルほど離れているところです。

 感じたこともない大きな揺れに次ぐ揺れ。揺れが止まると、私は身動きができないでいた2階の廊下を急いで離れ、1階に寝ていた高齢の母や、離れに住んでいる息子夫婦の様子を見に行ったり来たりしていました。すると息子たちがラジオの報道を聞いて「6分後、津波、小学校!」と単語だけを叫びました。ベッドに横たわり、何やら口の中で唱えている母を支えたり、背負ったりしながら歩いて5分の小学校に逃げ込みました。避難所になっているRC造3階建の荒浜小学校は地盤が道路面よりも1メートルほど高くなっています。初めは、まばらだった住民も続々と徒歩や車で、避難してきました。2階の床にマットを敷いて、臨月に近い息子の妻と高齢で体の弱った母を寝かせて、ふと私は頭によぎったことを口に出しました。「3階に逃げなくて大丈夫かしら…」。目が合った近所の知った顔が笑いながら言ったのを覚えています。「3階に逃げるようなら荒浜みんなだめだっちゃわ」。まもなく3階に移動することが伝えられ、それは現実になってしまいました。

 あとで分かったことですが、家々を流し、破壊しつくした最大の津波が押し寄せたのは、15時55分ごろのことでした。水没被害を受けたわが家の時計が、すべてその時間で止まっていました。私たちが小学校の3階に移動した後、人々がひしめき合う廊下や音楽室から見えた光景は信じがたいものでした。海と川の両方から押し寄せる濁流で、周りは台風時のように暗くなっていました。みぞれ交じりの黒っぽい強風も吹いていました。体育館を突き抜ける濁流が校庭に停まっている車をいとも簡単に流していました。濁流はすでにたくさんの瓦礫を含んでいました。それらが凶器となり、木造の住宅は、まるで紙のように壊れていきます。わずかの間に多くの命が奪われ、まちが破壊されていました。

 航空写真が見られるようになったり、車が手に入り動き回れるようになったりして、徐々に様子が分かっていきました。亘理町の基幹産業である漁港、水田、イチゴビニールハウスはほぼ壊滅状態でした。ズタズタのライフライン。住宅はもちろん旅館も郵便局も、医院も歯科医院も、お店も役場支所も、銀行のATMも学校も破壊されていました。自然の力によって、400年ほど前の開びゃく以来綿々と培われてきた海辺のまちの平和な暮らしは、一瞬にして消えていました。震災から1年がたつ今も、自宅の周りはほとんどの家が解体され、荒野のように海風が吹いています。

 

小さな力で咲かす復興の花

みんなでれんが清掃
みんなでれんが清掃

 今まで住んでいたまちが突然消える―その体験の中で、堤町の崩落した登り窯が半分残されている。それは光明のようでした。

 歴史的建造物は周りの人の、実際に手を差し伸べる応援がなければ残せません。「建築と子供たちネットワーク仙台」の仲間と達夫さんの奥さんのはつみさん、堤人形作家の佐藤吉夫さんたちが一緒になって、5月からの登り窯修復を計画しています。静岡県浜松市から築窯の専門家を招くことになっています。そして子どもたちとともに片付けワークショップを行いながら、復元を目指していきます。今年中には再び蘇った6連の登り窯に、訪れた子どもたちの明るい声が響くのが聞けることでしょう。



BackNumber

(無断転載禁ず)