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東京家政学院大学教授/江原 絢子さん

東京家政学院大学教授/江原 絢子さん
「料理書の世界」
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江原 絢子/東京家政学院大学教授



江戸時代の料理書との出会い

 私の勤務している大学の図書館では、昭和30年代から江戸時代の家政書を蒐集してきた。

 その中に江戸時代に出版された料理書があった。私は当時、調理学の研究室に助手として勤務し、毎日ビーカーや試験管を使って実験を行っていた。

 当時、江戸時代の料理書を研究する人は学内にはいなかったため、図書館の司書だった吉井始子先生から料理書の研究を始める気はないかと声を掛けられた。

 私は、まず江戸時代の文字を読む練習を始めた。勤務時間後、吉井先生の指導で読み合わせを積み重ねると、次第に読むことができるようになった。私はまだ十分読めないながらも、文字の後ろに当時の人々の姿を感じることができて、わくわくした気持ちになったことを今もはっきり思い出す。今から40年ほど前のことである。

石川県第一師範学校編『くりやのこころえ 全』(1880)
女子用の教科書(個人蔵)

石川県第一師範学校編『くりやのこころえ 全』
(1880) 女子用の教科書(個人蔵)

江戸料理書の魅力

 吉井先生は、その後、今では江戸時代の料理書を研究する人たちが必ず使用するといってもいい復刻と翻刻本『江戸時代料理本集成』(臨川書店)や『食物本草本大成』(同)の編集をすることになった。

 私は先生の解題の原本校正を任されることになった。所蔵本は、本学だけではなく国会、都立図書館など各所に及んだ。それらの図書館をたずね、原本を眺めながら、解題の内容を検討するこの作業により、50 余種の原本に実際にあたり、それを読む機会を得たことになる。そして、江戸時代の印刷本としては初めての本といわれる『料理物語』(1643)も、本により同じ出版年でもわずかに違いが見られることや、その後に同じ書名で出版された『料理物語』(1664ほか)にも多少の内容や編集などに違いがあることも知ることができた。何より原本に直接出会うことによって、それぞれの料理書が語りかけることを肌で感じる魅力は、その後本格的にこの世界に入ることの1番の原動力となった。そしてついに試験管を手放して本格的に食生活史を学ぶことにしたのである。江戸時代だけでなく、人々が食に関わる知識や技能をどう工夫し、次の世代に伝えていくのか、それを調べてみたい、知りたいと思ったからである。

近代の学校における食教育を調べる

阪本隆哉『衛生食物調理法』(1904)
座式の調理(個人蔵)

阪本隆哉『衛生食物調理法』(1904)
座式の調理(個人蔵)



 江戸の料理書を調査しながら、今度は近代の学校に目を向けて、女子教育で食教育がどんな内容で行われていたのかを調査するため、全国から明治、大正、昭和の女学生の日記やノートを探すことにした。出版された江戸の料理書を探すこととは異なり、個人の所蔵になるノートを蒐集することはむしろ無謀といわれたが、いろいろな手立てを講じて全国各地から調理実習のノートを借りることができ、所蔵者の方たちにインタビューをすることができた。インタビューは、ノートにはない情報を得ることになり、それぞれの方の人生の軌跡を知ることでもあった。多くの方がすでに鬼籍に入るが、今でも何人かとは交流が続いている。この研究を通し、当時の人々に影響を与えた近代料理書について、さらに興味は続いていくことになった。

近代料理書を蒐集し、解題を試みる

福田琴月『衛生と衣食住』(1911)明治の家庭の洋食(個人蔵)

福田琴月『衛生と衣食住』(1911)
明治の家庭の洋食(個人蔵)

 江戸時代の料理書が比較的研究が進んでいるのに対して、明治以降の料理書については、分かっていないことが多かった。近代の料理書が何種類くらい出版されているのか、その特徴の全体像についても明確にしたものはなかった。そこで、研究室の院生として入学してきた東四柳祥子氏に近代料理書をできる限り探してその調査をするテーマを提案し、彼女は500余種の調査を行った。それをもとにしてさらに調査を行うことにし、800余種となったために、その目録を作り、さらに100種を選択して解題を行い、このほど二人の共著で『近代料理書の世界』(ドメス出版)を上梓した。

 明治以降、西洋料理の影響を受けた翻訳料理書が出版された。明治5(1872)年の西洋料理書が翻訳料理書では初めてのものだが、これには2種類ある。 1つは仮名垣魯文の『西洋料理通』である。和綴じの3冊本で、横浜在留のイギリス人に雇われた使用人が持っている手控え帳を翻訳したものである。仮名垣魯文(1829〜94)といえば、幕末から明治にかけての戯作者として知られた人物で、牛鍋屋で会話する文明開花期の人物を描いた『牛店雑談 案愚楽鍋』(1871〜72)や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次さん、喜多さんがロンドンの万国博に見物に行くという設定の『西洋道中膝栗毛』(1870〜76)などを書いている。その十返舎一九も江戸時代に『餅菓子手製集』(1805)を出版しているなど、料理書の著者の背景を追ってみると意外なつながりが見えてくることに気付く。料理書の内容にも興味は尽きないが、その著者がどんな人であったのか、誰と交流したのかなども興味深く、調べものは深更に及んだ。

 明治期の西洋料理書は、初めは家庭向きに書かれたものというより、西洋料理を紹介することを目的としたものやホテルなどの料理人などが執筆したものが多い。青陽楼主人が校閲した『日本支那料理独案内』(1884)、常磐木亭主人の著した『即席簡便西洋料理方』(1894)や横浜クラブホテルの大塚峯吉が校閲し丹羽庫太郎が著作した『西洋料理精通』(1901)などもそれにあたる。横浜クラブホテルは、日本が開港した後に設置された横浜居留地に、明治 2(1867)年、クラブ・ホテルとして開業したホテルである。青陽楼は、明治15(1882)年に東京京橋区に開業した西洋料理店で、その後、牛込、上野、麹町、神田など支店を広げている当時としては有名店で、作家菊池寛も上野店を訪れている。青陽楼主人の料理書では、鹿鳴館が開設されるまで迎賓館となった延遼館の献立が紹介されるなど、料理書そのものは粗末な装丁ながら上流階層の西洋料理の様子を伝えていることは興味深く、あこがれの気持ちを持って読んだであろう当時の人々の様子を思い浮かべることができる。

江戸時代の料理書『素人庖丁』にみる魚の「すき焼き」(1803)(個人蔵)

江戸時代の料理書『素人庖丁』にみる魚の「すき焼き」(1803)
(個人蔵)

 家庭向けの料理書は、日露戦争前後の明治30年代になって急増する。女性の執筆者も増加し、内容は西洋料理との和洋折衷料理が多く紹介されるようになる。その後、大正期の不況期には、栄養、経済を中心にした料理書が刊行される。『一品五銭今日の料理』(1916)、『一品三銭で出来るおいしい料理』(1917)、『滋養経済お手軽料理』(1918)など、そのタイトルからも当時の様子がしのばれる。このように、料理書を調査することは、単に料理の内容を知るにとどまらない。近代の社会の動きをみることができるという点でもまことに興味が尽きないのである。

 史料を探し、事実を探っている時間は眠ることさえ惜しいほどに感じる。その時間がこれからどれだけ持てるかは分からないが、少しでも課題を見つけ、食に関わる人々の思いを探りたい。



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