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今月のWomanは竹皮編職人 前島 美江さん

前島 美江さん
ブルーノ・タウトの竹皮編(たけかわあみ)
Profile

前島 美江/ 竹皮編職人

■お問い合わせ先
〒370-3104
群馬県高崎市箕郷町上芝922番地
電話 027-371-7471


 ブルーノ・タウトは第二次世界大戦前のドイツ表現主義の旗手として名を馳せた建築家。タウト設計の団地がベルリンで4カ所世界遺産となっている。ナチス政権の台頭から日本に亡命し、日本の文化に一石を投じた。ちょうどパリから帰国した井上房一郎が父・保三郎の命により地域工芸運動に着手していたという好機にタウトは招かれたのだった。タウトは群馬県高崎市の郊外にある少林山達磨寺の離れ、洗心亭に滞在した。タウトは群馬県工業試験場に商工省貿易局嘱託として関与していた井上と共に高崎周辺の家具・木工・漆器・染色・織物などを指導し、直に研究制作を行い輸出品としてのクオリティーを高めた。1934年から2年余りの間にタウトは木・竹工芸・漆・ガラス・染織工芸・ホームスパンや広巾銘仙・鋳物工芸等を手掛けたが、唯一現在も続けられている伝統工芸が竹皮編だ。私は今その継承者として制作に従事している唯一の職人だ。

八女の白竹を求めて

 竹皮編とはその名のごとく竹の皮を用いて編む工芸品だ。昔から原材料は福岡県八女市周辺だけにしか生息しない希少なカシロダケを用いる。マダケに比べ、セルロースという成分が多くしなやかで編みやすい。皮の色が白く斑点が少なく仕上がりも美しい。竹皮編の材料としては最高の品だ。

 30年前に原材料を求めて当時私が加わっていたグループモノ・モノのつてで福岡に飛んだ。グループモノ・モノとは者と物を見直そうというデザイン運動で工業デザイナーの秋岡芳夫さんの魅力で集まったデザイナーや職人等が夜通し議論しているような熱い集まりだった。思えば竹工芸のドン宮崎珠太郎さんはモノ・モノの飲み仲間であったのだった。タウトが来たことでできた群馬県工芸所の初代職員であった渡辺力さん等が創設し、秋岡さんが引き継いだ(財)クラフト・センター・ジャパンの事務局長香月さんもカシロダケについて調べて宮崎さんと連絡をつけてくださった。宮崎さんから竹の博士野中重之氏につながり、黒木町森林組合の、宮園管雄さんに行き着いたのだった。宮園夫妻に案内され竹林に立つと梅雨明けの光の中に漂い落ちてくる白天(カシロダケの上部の竹皮)の様子はさながら香具夜姫(かぐやひめ)の世界の舟のようだと思った。この素晴らしい竹の皮を手の平に受けとめると、いい知れぬ勇気が湧いてきて竹皮編ができそうな気がしたことを今も私の出発の原点と思っている。

手仕事の制作工程等

群馬県ふるさと伝統工芸品展出展風景
群馬県ふるさと伝統工芸品展出展風景
群馬県立歴史博物館「ブルーノ・タウトの工芸と絵画」展 竹皮編出展風景 タウトのレストランチェア(制作 座面:前島美江/椅子本体:谷進一郎)
群馬県立歴史博物館「ブルーノ・タウトの工芸と絵画」展 竹皮編出展風景 タウトのレストランチェア
(制作 座面:前島美江/椅子本体:谷進一郎)

 竹林は傘が差せるくらいに間伐する。日が差すと新しいタケノコがすくすくと成長し、梅雨明けには竹の皮を落とす。俳句の季語では竹の秋というころだ。竹の皮は雨に当たらぬよう採集し、2〜3日、晴天の日にカラリと干し上げる。15kg1束で束ねて保管する。久留米藩では、このカシロダケの束60kgと田んぼ1反が交換できたくらい価値があったというが驚きだ。竹皮を使う折には水で湿らせ柔らかくしてから巻いていく。まずは畳を縫うのに用いる針を使い、1センチ巾に裂いた竹皮を湿らせて手ぬぐいに包む。スゲやイグサ等の芯材に湿らせておいた巻材を巻きつけ針で縫い込んで留めていく。常に一定の太さを保つため、適宜芯材を加えながら調整する。すべて手仕事なので大きなかごなどは10日以上かかることもある。制作は材料の確保から編んで仕上げまで、一貫制作で行う伝統工芸だ。

 製品にはタウトのオリジナルデザインのパンかごやワインかご、メロンかご、ボタン、椅子の座面等がある。タウトが滞在中に竹皮編の為に実際に描いたデザインが十数点、地元の博物館に残るが貴重な資料は散逸してわずかしか残っていない。お客さんの注文に応じて考えたオリジナル作品も十数点ある。お客さんのイメージに合わせて作るのは大変だが、楽しい作業でもあり、やりがいがある。

 竹皮編が生まれた背景には当時、高崎で作られていた南部表と呼ばれる雪駄の存在がある。竹皮を編み上げて作られる高崎南部表は高級ブランドとして京都を始め全国に流通していた。高崎の往時の職人たちの技は高い水準を保ち安定した生産を誇っていた。しかしキモノ文化から洋装文化へと移行の兆しも見え始めた時期であった。そのころ日本の竹文化に深い関心と理解を持つタウトが竹の皮に着目し、地域の産業として職人と共同して新しく生み出したのが竹皮編だ。材料は南部表と同じ竹皮を用いた。滞在中にタウトが残した高崎市民のためにデザインした竹皮編とタウトの温かいまなざしは職人たちに語り継がれた。竹皮編は南部表という逸品を引き継ぎ、洋風の暮らしにマッチした工芸品として迎えられた。

 竹皮編製品は井上房一郎とタウトの承認印が押され、銀座に設けたアンテナショップ「ミラテス」で飛ぶように売れたと聞く。タウトの店として「ミラテス」は評判が高く女優や文士が訪れ、タウトデザインのしゃれた内装が目を引いたそうだ。

最盛期は職人が400人も

竹皮編を始めたころ。笹本ヤス子さんとともに(1992年秋)
竹皮編を始めたころ。笹本ヤス子さんとともに(1992年秋)

 その後戦争で「ミラテス」が閉店し、職人も戦争に取られ、竹皮編は第1の危機を迎える。しかし戦後戻ってきた職人を中心としてタウトの弟子といわれた水原徳言さん等が竹皮編の復興に努め、1960年には高崎の産業の一つとして最盛期を迎える。職人の数は400人にもなり、その製品は輸出品として貨車で出荷された。群馬県工芸所を拠り所として在野の竹皮工房が5〜6カ所高崎周辺にでき生産を誇ったのだった。その後の民芸ブームも追い風を送ってくれた。しかし、高度経済成長期になると安価な外国製品が出まわり、手仕事の賃金が合わなくなり竹皮編はすたれていった。竹皮編に2回目の危機が訪れた。

 私が竹皮編と出会ったのは今から30年前だった。竹皮編が滅びてから12年たっていた。タウトを特集した雑誌を古本市で見つけ、「タウトと高崎の竹皮編」という記事を書かれた水原さんを訪ねた。水原さんは情熱的にタウトを語り竹皮編関連の資料を私に手渡してくださった。竹皮編を最後まで制作していた笹本勇太郎さんの工房を見つけ、ヤス子さんに手ほどきを受けた。後に知ったが笹本さんと八女で私が出会った竹商の高木藤義さんは竹皮の取り引きをしていたのだった。不思議な出会いをたくさん経験し、何者かに背中を押されて、私は小さな小舟で竹皮の海原に漕ぎ出てしまったのだった。

タケヤネの里制作へ

ドキュメンタリー映画「タケヤネの里」の一場面
ドキュメンタリー映画「タケヤネの里」の一場面

 広島の記録映像作家青原さとしさんとは旧知の間柄であるが、竹林整備等の活動を中心に竹皮文化をつぶさに見せる興味深い内容のドキュメンタリー映画「タケヤネの里」(監督青原、監修前島)が2011年完成。あちこち上映しながら竹皮編普及のワークショップを行っている昨今である。


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