Wendy-Net トップページ > Ms Wendy > 344号 注目の人 精神科医 髙橋 幸枝さん

Ms Wendy

BackNumber

344号 注目の人 精神科医/髙橋 幸枝さん

101歳。今が一番幸せ 負けずぎらいの少女が30代で医師に
髙橋 幸枝/精神科医
Profile

髙橋 幸枝/精神科医
1916年新潟県生まれ。女学校卒業後、海軍省のタイピストに。中国・青島で日本人牧師と出会い海軍省を退職。北京で秘書として働く。帰国後、福島県立女子医学専門学校に入学。卒業後、新潟県立高田中央病院に勤務。53年桜美林学園内に診療所を開設。55年神奈川県大和市に「髙橋医院」を開設。66年秦野市に「秦野病院」を開く。現在、医療法人社団秦和会理事長。著書に『100歳の精神科医が見つけた こころの匙加減』(飛鳥新社)などがある。



負けずぎらいだった少女時代

17歳のころ。女学校の制服を着て

17歳のころ。女学校の制服を着て

 女学校卒業後、海軍省でタイピストを務めていた私は30代で医師になり、50歳で秦野病院を開設。50年後の現在も理事長として現場で働いています。前傾姿勢のまま、わき目もふらず突き進むように生きてきましたが、これも100年余りの人生で多くのよい人たちに巡り会い、助けていただいたおかげだと、今はただ、感謝の気持ちでいっぱいです。

 思えば、幼いころから前のめりの性格だったようです。勉強が好きで、クラスで一番になっても、小学校教諭だった父の転勤で学校が変わるとすぐ一番になれるわけではありません。それが悔しくて、また勉強。母によく「あなたは本当に負けずぎらいね」と言われていました。

 きょうだいは6人で、私は2男4女の3番目。下に妹が2人と弟が1人います。きょうだい仲はとてもよかったです。大正5年生まれですから娯楽のある時代ではなく、お互いに助け合って一緒に育ちました。

女学校を卒業後、上京して職業婦人に

 女学校卒業後は東京に出て、当時としては珍しい「職業婦人」になりたいと思っていました。

 親戚に海軍省の高官がいて、私はタイピストとして採用されることに。姉が結婚して東京にいましたので、姉のところでお世話になることにし、故郷の新潟を出発しました。海軍省といってもお役所ですから、普通のOLと同じようなものです。そうはいっても国内外の情勢は不安定な時期でした。昭和11年の二・二六事件があった日は、騒ぎがあったことも知らず、現場近くで普通に仕事をしていましたが。そう考えると、私も歴史上の人物ね(笑)。

青島(チンタオ)へ転勤。大恩人の牧師と出会う

23歳ごろ。青島教会の聖歌隊メンバーと。前列向かって右端がご本人

23歳ごろ。青島教会の聖歌隊メンバーと。前列向かって右端がご本人

 その後、日本が占領した青島の海軍省へ自分から希望して行きました。私のあとを追いかけて、一番仲のよいすぐ下の妹も青島にやってきて、2人でタイピストとして働きました。

 生活に慣れてきたころ、近くに日本人用の教会を見つけて、通うようになりました。そこに「北京の聖者」と呼ばれる清水安三牧師がいらっしゃって、お話を聞く機会がありました。

 皆さんご存じか分かりませんが、清水先生は今の桜美林学園を創設された方です。当時は北京で貧困に苦しむ子どもたちへの教育や慈善事業をしておられました。私は先生のお話に感動し、すぐに自分もそこで働きたいと思いました。

 前のめりの性格ですから、なんとしても北京に行きたいと頼み込み、海軍省を辞めて、先生のもとへ。念願かなって秘書のような仕事をすることになったのです。

 しばらくして、先生が「髙橋さん、あなた医者になったらどうだろう?」とおっしゃるのでびっくりしました。当時は、とても衛生的とはいえないところで、病気になったり、傷が化膿したりする子どもがたくさんいても、お金がなくて医者を呼べなかったのです。

 今なら無謀だと思うでしょうが、先生に「医者になってここへ戻ってきてほしい」と言われ、「できるならやりたい」と、それまで思ってもみなかった“医者”という道に進むことになりました。それが27歳のときです。

大きな目的があれば神様が助けてくれる

 偶然にも福島県立女子医学専門学校に合格。在学中にはちょっと面白いエピソードがあります。

 私より一足早く帰国していた妹には商才があり、終戦直後で衣服が手に入らないとき、軍が使っていたパラシュートが絹糸でできているのに気づき、ほどいて編み直したセーターを売りに出したのです。それを銀座に持って行くと飛ぶように売れ、40〜50人の内職者につくらせるまでになりました。その上、私のいた福島は羊毛の産地だったので、私が日曜日に毛糸を仕入れて妹に送り、手数料をもらうという生活を送ることができました。

 清水先生や兄も学費の援助をしてくれましたが、この商売のおかげでお金に苦労することはありませんでした。私にはどうしても果たしたい目的があったから、神様も助けてくださったのでしょうね。

桜美林・校医を経て個人クリニックを開設

 在学中に終戦を迎え、私の希望は北京へ戻ることでしたが、清水先生たちも引き揚げてきて、その願いがかなうことはなくなりました。それでも医者になれた喜びは大きく、実家のある新潟県高田市の県立中央病院で内科医として勤めることになったのです。

 そのころ、清水先生は町田にあった軍需工場跡地に桜美林学園をつくり、私も「うちへいらっしゃい」と誘われました。ずいぶん悩んだ末、大恩人である清水先生の下で働くことを決心しました。

 ところが行ってみると、廃屋のようなボロボロの建物で、先生が「ここで診療所をやりなさい」と指さしたのは下駄箱の隅。わが目を疑いながらも、埃だらけの机と椅子を運び、廃材を集めてつい立てをつくり、自分で即席の診療室をこしらえるしかありませんでした。

 さらに先生は「運転資金も自分で何とかしなさい」とおっしゃる。私も困りましてね。考えた末に、1人10銭ぐらいで検便をやったのです。当時は回虫症の感染率が高かったので、毎日生徒から便を預かって、検査をして、薬を出して。それを資金にしました。

 徐々に地域の人たちも診療所に訪れるようになり、自転車で往診に行くことも増えました。ただし桜美林学園は丘の上にありましたので、山坂を上り下りするのが一番苦しかったですね。

 その2年後、清水先生とも相談し、校医をやめて、いよいよ自分の診療所を開業することに。とにかく平坦なところを探し、小田急線の中央林間に120坪ほどの土地を買い求めました。

 昭和30年、中央林間診療所髙橋医院として第一歩をスタート。まわりに医者が一軒もなく、結構忙しい思いをしましたね。内科・小児科は言うに及ばず、産科以外は何でも診ました。草ぼうぼうの石ころ道でしたが、自転車からスクーター、車へ乗り替え、移動はずいぶん楽になりました。

秦野病院開設へ

開設して間もない秦野病院にて看護師、調理師の方たちと。向かって左端がご本人(51歳ごろ)

開設して間もない秦野病院にて看護師、調理師の方たちと。向かって左端がご本人(51歳ごろ)

秦野病院外来診察室にて。98歳ごろ

秦野病院外来診察室にて。98歳ごろ

中央林間の当時の自宅前にて。60年くらい前。左からめい、ご本人、妹

中央林間の当時の自宅前にて。60年くらい前。左からめい、ご本人、妹

 それから約10年後の昭和41年、内科に精神科を加え、入院施設のある秦野病院を開設、院長に就任しました。

 時代は高度経済成長期に入り、近い将来、人々の暮らしが豊かになれば今度は精神が過敏になり、病んでいく人が増えると聞き、なるほどと思ったのです。精神科病院だったら静かで空気のよいところがいい。安価で広い場所を探したところ、秦野に約1000坪の土地を見つけました。

 病院開設にはもう一つ理由があります。先述した妹が主人を亡くし、子ども2人と義母を連れて中央林間に来ました。また私の母もいました。妹に診療所の経営を一緒に手伝ってもらい、それで生活に困ることはなかったのですが、妹の子どもたちを医者にしたいという希望もあり、かかる教育費を考えてのことです。

 病院の経営は妹に任せ、私は懸命に働きました。

物事を始めるのに遅すぎることはない

80歳を過ぎてから始めた水彩画。自宅の他、病院の廊下にも飾っている

80歳を過ぎてから始めた水彩画。自宅の他、病院の廊下にも飾っている

 初代事務長を務めてくれた妹は60代で他界しましたが、息子が医師として成長し、末の妹の息子も医師になり、今は私たちが育てた病院・クリニックを引き継いでくれています。私は理事長としての仕事のみで、今はのんびりした暮らしを楽しんでいます。

 80歳になったとき、水彩画を始めました。時間と気持ちに余裕ができて、何かを始めてみたくなったのです。といっても、まったく経験のないことですからいきなり絵画教室に行くのもはばかられ、通信講座で80の手習いをスタート。

 やってみるとたちまち夢中になり、思い切って近くのカルチャーセンターでも学び始めました。これまでの20年間で描きためた作品は、自宅の他、病院の廊下などにも飾ってあります。

 ちなみに、お酒をたしなむようになったのも80歳を過ぎてから。1人で好きな日本酒をちびりちびりとやりながら、ちょっとしたつまみを食べ、テレビを見る。私にとってはとてもぜいたくなひとときです。

健康維持の秘訣は階段の上り下り

髙橋 幸枝さん

 現在は一人暮らしですが、この年になっても自分で身の回りのことをやり、健康でいられるのは、毎日、階段を上り下りしているからかもしれません。私の住居は病院に隣接した建物の3階にありますが、エレベーターは付いていません。新聞を取りに行くため、階段を下りることから私の一日が始まります。

 少し前までは、朝食を済ませると今度は白衣を着て階段を下り、病院に向かっていました。そして、12時になるとまた階段を上って自室に戻り、昼食をとって再び病院へ。階段の3往復は101歳の年寄りには十分すぎる運動量でしょう。92歳と99歳のとき、大腿骨の同じ箇所を骨折してしまいましたが、普段の筋力トレーニングのおかげか、寝たきりにもならず、元通りの生活に戻ることができました。

 今は本当に幸せだなと思います。もうこの年ですからね、病気が怖いとか、死ぬのが嫌だとは思っていません。そう言いながら血圧の薬は飲んでいますけど(笑)。心の持ち方を穏やかに、欲張らず、気張らず、これからもゆっくり歩んでいくつもりです。
(神奈川県秦野市のご自宅にて取材)


BackNumber

(無断転載禁ず)