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332号 注目の人 小説家山口 恵以子さん

「食堂のおばちゃん」を経て小説家の道へ。1本の糸でつながっている物語への思い
山口 恵以子/小説家
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山口 恵以子/小説家
1958年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。会社員を経て、派遣社員として働きながら松竹シナリオ研究所で学び、2時間ドラマのプロットを多数作成。その後、丸の内新聞事業協同組合の社員食堂に勤務するかたわら小説の執筆に取り組む。新鷹会会員。2007年に『邪剣始末』で作家デビューを果たす。13年に『月下上海』で第20回松本清張賞を受賞。著書に『食堂のおばちゃん』など。最新作は 2人の女性の6歳から96歳までを描いた昭和史大河ロマン小説『トコとミコ』(16年11月文藝春秋刊)。



母の読み聞かせで育った少女時代

3歳のころ。母(右)・兄二人・家政婦さん(左)と

3歳のころ。母(右)・兄2人・家政婦さん(左)と

 小さいころは母の読み聞かせで育ちました。今年90歳になる母は若いころ声楽家志望で、とってもいい声でした。それで、絵本をただ読んで聞かせるだけでなく、いろいろなアレンジを加えて読んでくれました。登場のテーマミュージックや、ドシン!ガラガラといった擬音、キャラクター別に違う声色…。ラジオドラマのように読んでくれたので、絵本の物語が大好きになりました。

 そうこうするうちに少女漫画雑誌の創刊ブームが起きて、本屋さんに『少女フレンド』『マーガレット』などが置かれるようになりました。『ベルサイユのばら』『ポーの一族』『エロイカより愛をこめて』『ファラオの墓』『ガラスの仮面』『アラベスク』…。当時の少女漫画は本当にレベルが高くて、漫画の世界に夢中になりました。

 母から「面白い小説もたくさんあるから漫画だけじゃなくて小説も読みなさいね」と言われたこともあって、私の読書はずっと漫画と小説と2本立て。本は読んでいるうちに自分で勝手にストーリーを作り変えて楽しんでいました。登場人物と仲良くなるお話や自分を主人公にしたお話とか、いろいろなことを想像して楽しんでいました。ミステリーも大好きで、アガサ・クリスティには夢中になりましたね。

 そこに『日曜洋画劇場』で見る映画も加わって、漫画・小説・映画、3つとも大好きになりました。

 父は理髪鋏(はさみ)の工場を経営していました。外面は紳士的で亭主関白っぽいところもありましたが、徐々に母のお尻にしかれるようになっていったようです。

 父は私の小説家デビューを見ることなく、2000年に他界しました。30歳を過ぎたころから43回もお見合いさせてくれたのに結婚しなかったので、父には本当に悪いことをしたと思っています。

 恵以子(えいこ)という名前は本名で、易者さんが付けてくれたそうです。「1人でも強く生きていける」という意味らしいのですが、結果としてそのとおりになっていると思います(笑)。

30歳を過ぎて漫画から脚本へ

33歳、1991年の夏。お見合い写真。ワンピースは昔、母が着ていたもの(右端写真)

33歳、1991年の夏。お見合い写真。ワンピースは昔、母が着ていたもの(右端写真)

27歳、派遣で働き始めたころ。森永の工場で

27歳、派遣で働き始めたころ。森永の工場で

 小学校のときは画用紙に自分で漫画を描いていました。目の中にキラキラお星様をたくさん描いて。それ以来、ずっと独学で漫画家を目指しました。「なんとしても大学在学中に新人賞をとって、少女漫画家としてデビューするんだ」と、あちこちに応募しましたが、全然ダメでした。

 そうこうしているうちに卒業が迫ってきて、とりあえず親戚の紹介で宝石と毛皮の輸入販売会社に入社しましたが、漫画家として芽が出るまでの腰掛けのつもりでしたから、「漫画家デビューしたらすぐ辞めてやるさ」と思っていました。

でも就職してしまうとやっぱり漫画を描かない期間が長くなり、いざ描いてみるとすごくヘタになっていてショックを受けて。どんどん漫画から遠ざかってしまって、気がついたら30歳を過ぎていたのです。

34歳、松竹シナリオ研究所・研修生のころ。左端が山口恵以子さん

34歳、松竹シナリオ研究所・研修生のころ。左端が山口恵以子さん

 そんなある日、偶然広げた雑誌に載っていた「松竹シナリオ研究所・研修生募集」という記事が目に留まりました。以前漫画を見てもらった雑誌編集者に「絵は下手だけど話は面白い」と言われていましたし、夜間コースだったので派遣の仕事をしながらでも通える。「これだ!」と、すぐに受講を決めました。

 基礎科1年、研修科1年を終えて35歳で卒業。でも、そこを出たからといっていきなり脚本が書けるわけではありません。新人は「プロット」と呼ばれる脚本のオリジナルストーリーを書くことからスタートです。建築でいうと基礎の部分で、脚本家はそのプロットをもとにシナリオを書いて、ドラマという上物を建てます。そして内装や外装をして、家を完成させるのが監督や演出家です。

 当時私はこれで脚本家への第一歩を踏み出したと固く信じていましたし、脚本家デビューは夢ではなく目標になりました。

 でも実際にはそこから先が大変でした。15年くらい派遣社員をしながらプロットライターを続け、脚本を書けるチャンスも何度か訪れたのですが、いつもそれぞれの事情で流れてしまいました。

44歳で「食堂のおばちゃん」に

丸の内新聞事業協同組合の社員食堂で働いていたころ

丸の内新聞事業協同組合の社員食堂で働いていたころ

 私が「食堂のおばちゃん」になったのは2002年、44歳のときでした。派遣の切れ目に新聞の求人欄で見つけた「丸の内新聞事業協同組合・調理補助パート募集」に応募して採用されたのです。

 勤務は朝6時から11時の5時間で時給1500円、交通費全額支給、ボーナス・有給休暇あり。午前中で仕事が終われば、午後からプロダクションの企画会議にも出られる。なんて私向きの好条件だろう!と。こうして私は食堂で働きながら、脚本家を目指すことになりました。

 実際に働きはじめてみると「この仕事、私に向いているな」と思いました。もともと食いしん坊で料理は好きでしたし、何よりも「食堂の仕事には嘘がない」んです。どんなに口でうまいことを言っても体を動かさないと仕事は滞るし、まずいものを食べさせたら人は不機嫌になります。お客さんといっても社員食堂なので、みんな身内みたいな感じでしたね。だんだんやりがいを感じて、書くこととは違う意味で食堂の仕事が好きになっていきました。

 12年勤めたその食堂は残念ながら今はもうありません。やれることは全部やったのでまったく悔いは残っていないのですが、正直、閉鎖と聞いたときは「故郷の村がダムの底に沈んでしまった…」という感じ。いつでも戻れると思っていた大切な場所がなくなってしまったようで悲しかったですね。

脚本から小説へのシフト

 社員食堂に勤めて2、3年が過ぎたころ、私がプロットを書いたドラマが映像化されることになりました。いよいよ脚本の話が決まるまであと一歩というところまで行ったのですが、最終的には「新人では心もとない」ということで別の方が書くことになりました。このとき私は、「もう脚本家デビューするのは無理だな」と思いました。

 周りのプロデューサーは皆45、6歳で自分と同年代。中には年下もいる。誰だって新人脚本家として取り立てるのだったら、伸びしろのある若い人を使いたいと思うのです。

 それで私は年齢制限のない小説にシフトしようと決め、だんだんプロットの仕事を減らして小説に移行していきました。

恒産なきものは恒心なし

 ただ、その結論が出せたのも社員食堂で働いていたからだと思います。きちんとお給料をもらって生活費に困らなかったということが大きかったのです。そのときふと思ったのは、孟子の「恒産なきものは恒心なし」という言葉でした。「きちんとした仕事と安定した収入がないものは安定した精神を保つことができない」という意味です。

 私はそれまで自分なりにハードルを1つずつ乗り越えながら脚本家に近づいているつもりだったけれど、本当は同じ場所でカラカラ車を回していただけだったと。

 そういう自分の姿が見えてきたから方向転換することができたのです。食堂で働くことで精神的に落ち着き、少し立ち止まって周りを見る余裕が生まれたのでしょうね。

 でも私は、漫画で挫折して脚本に行って、脚本で挫折したから小説に行ったとは思っていないですよ。形式は違っても私の中の「物語を作りたい」という思いは、1本の糸で連綿とつながっているわけですから。

「更年期うつ」を乗り越えて

 食堂で働きながら『邪剣始末』で小説家デビューした直後の50歳から52歳までの約2年間、小説がまったく書けなくなった時期がありました。アイデアが全然出なくなっちゃって、「もうこのまま一生書けないかもしれない」と思ったほどです。

 せっかくデビューしたのに小説は売れないし、これから先がどうなるかも分からない。母親もだんだん歳をとってくるし…。あれやこれやで、「書けないのはきっと自分が不幸だからだ」という気分でいたのです。

 後にそれは更年期うつの症状だったと分かったのですが、まさか自分がうつになっているなんて夢にも思わず、どんどんどつぼにハマっていって、抜け出すのに2年くらいかかりました。

 うつを抜け出したキッカケを考えてみてもよく分かりません。ある方の紹介で「新鷹(しんよう)会」という小説の勉強会に通ったりしているうちに、少しずつ、時間をかけて気持ちが上向いていった感じでした。これは持って生まれた性格でしょうけど、私、のんきなんですよ。絶望しないのです。書くことをやめようと思ったことはないですね。  

 2013年に55歳で松本清張賞を頂いたときはほんとうにうれしかったですよ。副賞の500万円は家族や知人と半年で飲み切りました。あぶく銭は飲むに限ると決めていましたから(笑)。

別世界を遊ぶ楽しみ

松竹シナリオ研究所24期の大原さんと。今も書いているのは私たち2人だけ

松竹シナリオ研究所24期の大原さんと。今も書いているのは私たち2人だけ

 これから書いてみたいのは、機械時計の工房を舞台にした冒険物語。機械時計ってものすごい精巧なパーツの組み合わせで出来ていて、美術品並みにとてつもなく高価なんですよ。その機械時計が刻む時間と逆戻りできない女性の運命…。10年くらい前から温めているテーマなのでしっかり腰を据えて勉強して書きたいと思っています。

山口 恵以子さん

 小説の楽しみというのは、現実を離れて別世界で遊べること。直接何の役にも立たないけど、物語の中でひととき楽しい時間を過ごして現実のいろいろなことを忘れられるのが小説のいちばんの効用だと思います。

 映画やアニメは向こうの時間で物語が流れていきますが、小説や漫画は自分のペースで物語と付き合えます。ゆっくりでも早くでも、同じ場所を何度繰り返して読んでも構わない。自分で時間を支配できるのも小説のいい点ですね。
(東京都の角川春樹事務所にて取材)


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