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328号 注目の人 PGファッションデザイナー伊藤 綾子さん

「かわいいおばあちゃん( PRETTY GRANDMOTHER)」をもっと増やしたい!
伊藤 綾子/PGファッションデザイナー
Profile

伊藤 綾子/PGファッションデザイナー
山梨県生まれ。1955年文化女子短期大学服装学科卒業後、通気性の優れたレインコートのデザインで通産大臣賞受賞。71年からPGファッションに取り組み、73年、本邦初演の高齢者ファッションショーを開催、ファッション界に新風を吹き込んだ。75年から2年間ロンドンに在住。2002年、英国ブルガリア大使館ホールにおいて日英素人高齢モデルによるファッションショーを開催し、大好評を得た。その後、「AYAKO年令不問の会」を設立し、会長に就任。現在も全国各地で素人モデルによる高齢者ファッションショーを開催。著書多数。ミネルヴァ工房主宰。



門前町に生まれ大家族で幼少を過ごす

3歳のとき。母と弟と

3歳のとき。母と弟と

 私は、山梨県の日蓮宗総本山として知られる身延山(みのぶさん)久遠寺の門前町に、6人きょうだいの長女として生まれました。先祖をたどると、江戸時代に天下一の両替商として名を馳せた鴻池家の八女・仲さんが私の曾おばあさんにあたります。

 家は仕出し屋で、身延山に参拝に訪れる人たちが泊まる玉屋旅館に料理やお弁当を納めていました。宿帳には竹久夢二や新渡戸稲造などの名もあり、私も当時の人気歌舞伎俳優さんやお相撲の双葉山さんをお見かけしたことがあります。玉屋の女将・お縫いさんには子がなく、私を自分の子どものように大事にしてくれました。「綾子」という名前は、お縫いさんから糸偏をもらいました。  

小学校入学のとき。襟の線は赤

小学校入学のとき。襟の線は赤

 家は屋根続きになっており、隣はパントマイムで有名なヨネヤマママコの生家。ママコとは年も近く、2軒がまるで1軒の大家族のように暮らしていました。ママコのお父さんは学校の先生ですが踊りが上手な人で、お母さんはマンドリンが上手。そこに歌が上手なうちのタキコ叔母が加わり、3人でよく兵隊さんに行った家族の慰問に行っていました。

 この叔母がきれいな人で、近所の仏教大学の学生さんが叔母目当てにしょっちゅう家に遊びに来ていたようです。ですが、学生は恋愛は法度だったので言い寄ることもできず、代わりに私たち子どもを大事にしてくれました。関西出身のグループの人たちが、私を宝塚に入れると言い出して「鷲ヶ峰綾子」という名前まで決めちゃったんです。ところがその中のリーダーに召集令状がきて、結局、戦死してしまったの。それで私は宝塚に行けませんでした。

13歳のとき、空襲で九死に一生を得た

 戦時中は苦労の連続でした。私が13歳のとき、赤ちゃんと2人で甲府に住んでいたタキコ叔母のところに、別の叔母と一緒に立ち寄った夜、空襲に襲われました。このとき、タキコ叔母に、大事にしていた銀食器を入れた手付き鍋を渡され、「綾子ちゃんはこれを持って逃げてちょうだい」と言われ、4人で逃げました。しかし、照明弾が落ちてきて、昼間のような明るさにびっくりして、鍋をひっくり返しちゃいました。

 それでも空の鍋を持って必死に走り続けました。でも、まわりじゅう火の手が上がって、もうどこにも行けない…と思った瞬間、防空壕を見つけ、入りました。そこに男性が1人入ってきて、壕にふたをしようとしたけど、ふたをしたら蒸し焼けになってしまう。

 「じゃあ器はないか?僕が水をくんできてやる」と言われて、私は空の鍋を差し出しました。そして、男性が火の中をくぐって水をくんできて、私たちにかけてくれた。「シュン!」という音がしましたね。それで全員助かったんです。

18歳で上京。身延に別れを告げる

 そのころ、父は身延町の大野に食品の軍需工場を建て、食品を軍に納めていました。お国のために働いているということで、召集も免除されていたようです。

 ところが敗戦の色が濃くなり、どんどん人が兵隊に取られて、とうとう40歳の父にも令状がきました。

 考えた末、父は工場を人手に渡すことを決心し、自分が戦死しても家族が不自由なく暮らせるよう、現金前払いの保険に入り「利息で生活するように」と母や私に告げて戦地に赴きました。ところがひと月足らずで終戦。その後、政府による預金封鎖や新円切り替えが実施されて、資産がほぼゼロになり、家は破産してしまいました。

 みんな何も考えられないくらい落ち込みました。でもこのまま山梨にいても仕方ないと考え、東京に出ることにしました。父と私とすぐ下の弟が親戚を頼って先に上京し、生活の足場をつくったのちに残りの家族を呼び寄せる算段です。

 昭和25年8月の暑い朝、私はたった1枚の外出着に下駄を履いて、身延駅に向かいました。狭い町なので目立ちたくなかった。実際、わが家の倒産のことは町の事件となり、新聞記者にも追われたくらいです。親友の1人が私を駅に送ってくれ、ホームで豚皮の靴に履き替え、下駄をその友人に託して身延に別れを告げました。

三浪の末、大学入学。ファッションの道へ

 東京で、ファッションの世界に入るとは夢にも思いませんでした。父が若いころ、法律家を目指したものの仕出し屋を継ぐために夢を断念した…という話を聞かされていたこともあって、父の無念を晴らしてやろうと、新制4年制大学を狙っていたんです。けれども、アルバイトをしながら貧乏のどん底の中での独学で、あったのは向学心のみ。思うように結果を出せず、ノイローゼのようになった時期がありました。それを見かねた母がすすめてくれたのが文化女子短期大学(現文化学園大学)です。服装学科を選んだのはもっとも社会性がある学問だと思ったから。

 3年遅れの入学。社会の中で服装が果たす役割を考えると同時に、私の生涯のテーマとなる「女性のスタイルの探求」が始まりました。この短期大学時代に「新生活工夫コンクール」の「衣の部」に応募して、通産大臣賞をいただきました。その時、この催しを主催した主婦連合会会長で参議院議員だった奥むめお先生を知り、消費者運動を手伝うようになりました。

昭和30年代に始まったイージーオーダー

 卒業後は伊勢丹に就職しました。担当は婦人服のイージーオーダー。「サンプルと同じものをあなたの体形通りにつくります」という広告が世の女性たちの購買意欲をかりたてた時代です。

 毎日、売り場に殺到するご婦人たち。まず私たち店員がお客さまの採寸をします。そのメジャーの目盛りはインチ。次にインチがセンチに換算され、洋裁を学んだことのない人たちが標準寸法の型紙を修正して布を裁断。そして、縫い手に回るときにはセンチが尺に換算されて1枚の服が仕上がります。

 ところが「オーダーしたのにサイズが合わない」とクレームが続出。それもそのはず、平面的な和服と違い、立体構成の洋服がそんないい加減なシステムで完成するはずがありません。結局、私は朝から晩まで服のお直しで立ちっぱなし。腰痛持ちになったのはそのときからです(笑)。これなら1人でデザインから完成まで完全オーダーメードでやったほうがいいと、独立を決めました。

 独立して最初のころに多かったのは、アメリカ人、ロシア人など外国のお客さま。自国なら1着20万円はするオートクチュールが日本なら3000円ほど。ホテルのお部屋からしょっちゅう注文の電話がかかってきました。

 やさしくて気の弱い父は、言葉が分からないので電話を取ることができません。一方、母は、堂々と電話に出ては、「綾子、また注文だよ!」と取り次いでくれました。明治生まれの母は、その後60歳で他界しました。

洋服で社会問題を解決したい!

ロンドン在住のころ。息子たちとドイツへ旅行

ロンドン在住のころ。息子たちとドイツへ旅行

 その後、私のデザインする洋服は社会性を踏まえたものに変化していきました。当時はお姑さんとお嫁さんの関係が社会的な問題となっていました。そこで、主婦連合会の普及を兼ねて、家事が楽にできる動きやすい服やデザイン違いで着られる服を提案し、嫁姑戦争を沈下させようと、日本各地を奔走しました。「社会的デザイナー」と新聞に書かれたこともありましたね。

 29歳で結婚し、2人の男の子にも恵まれました。ところが30代半ばを過ぎ、40代にさしかかってきたとき、「老い」を感じて怖くなったんです。今でこそ40代なんて、まだまだ若くてきれいだけど、そのころ、40歳は「初老」と言われたの。自分の老いを認めたくはない。けれども、湯上りの鏡に映るわが身のスタイルの変化を観察し、「老いを美しく生きることはできないのか…」と、いたたまれない感情に襲われました。

 そんなある日の夕方、白昼夢なのか、死んだ母が目の前に現れて、「あなたはデザイナーでしょう?だったら老いた人たちのためのファッションを考案してあげなさい」と言われました。その瞬間、自分の進むべき道が見えました。

PGファッションデザイナーとして生きる

本邦初演のPGファッションショーにて

本邦初演のPGファッションショーにて

 「おしゃれで心の老化を防止する」という目的ができた私は、早速イギリス、フランスを中心とした1カ月のヨーロッパ視察に出ることにしました。ベージュやグレーに包まれた日本の老いた人を観察するうちに、ヨーロッパの老婦人たちの様子をこの目で見なければと思ったからです。

 70万円もの旅費は銀行から借りました。しかも当時、子どもは5歳と2歳。2人の幼子を日本に置いて行きました。まわりからは驚かれました。でも、私にとっては真剣勝負の旅だったんです。ただ、フランスの食堂で国際電話をかけ、子どもの声を聞いた途端に、私は声を出して泣いてしまい、異国の方たちを驚かせてしまいました(笑)。

 帰国後の1973年、本邦初演のPGファッションショーを開催。「高齢者が明るく美しく生き抜くためのファッション」を提案し、そこで「PG」「年令不問」というブランドを確立しました。

  「PG」とはプリティ・グランドマザー=かわいいおばあちゃんの略です。PGファッションのポリシーとして、「明るくかわいらしい色」「小花模様」「体形をカバーして着やすい」「ロマンチックなデザイン」などを掲げ、「年令不問」には、こよみ年齢は無視する「ノン・エイジ」、既成のサイズに支配されない「ノン・サイズ」、そして、ハートをチェックしないで自分の着たい服を着る「ノン・チェック」の3本柱を立てました。

体調管理をしながら生涯現役で

PGファッションショーにて。アヤコジーンズの解説中

PGファッションショーにて。アヤコジーンズの解説中

大人気のアヤコジーンズ。後ろのポケットには「A」の刺繍が(特許取得)

大人気のアヤコジーンズ。後ろのポケットには「A」の刺繍が(特許取得)

 今はうれしいことにアヤコジーンズが人気なの。年を取るとお腹が出る代わりにお尻が小さくなり、足がO脚気味に変化していきます。その体形を考慮し、クセを隠して下半身がきれいに見えるようデザインしています。

伊藤 綾子さん

 ファッションショーも定期的に開催しています。私はプロのモデルを使わない主義で、モデルさんは一般公募のおばあちゃんたち。だって、お友達がモデルになって着た服なら「私も着てみよう」と思うでしょ?これを老人ホームでやると、皆さん本当に喜んでくれます。PGファッションに身を包み、プロのメイクで若返った自分に満足し、「家族や親戚に配りたい」と何枚も写真を撮る。これぞPGファッションの神髄です。

  現在、私は腰が悪く、老人介護の要支援1ですが、ケアマネージャーさんにこれからも元気に働くためのケアプランを考えてもらいました。体調管理しながら生涯現役でデザイナーとして生きていくつもりです。1人でも多くの「かわいいおばあちゃん」を増やしたい。これが私の変わらぬ願望です。
(中野区「ミネルヴァ工房」にて取材)



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