Wendy-Net トップページ > Ms Wendy > Back Number > 326号 注目の人 作家 石牟礼 道子さん

Ms Wendy

BackNumber

326号 注目の人 作家石牟礼 道子さん

天草のこと、水俣のこと。「魂の叫び」を言葉に。
石牟礼 道子/作家
Profile

石牟礼 道子/作家
1927年、熊本県生まれ。水俣実務学校卒業後、16歳で代用教員に。1947年の時、石牟礼弘氏と結婚。1958年谷川雁主宰の「サークル村」に参加。偶然水俣病患者に出会い、1965年から「海と空のあいだに」(「苦海浄土」初稿)を『熊本風土記』に連載。1969年「苦海浄土―わが水俣病」を出版。1993年「十六夜橋」で紫式部文学賞受賞。1973年マニラのマグサイサイ賞受賞。2011年池澤夏樹個人編集『世界文学全集第3集』に「苦海浄土」3部作が入る。現在、パーキンソン病を患いながらも闘病と執筆の毎日を送る。



水俣病が公式確認されて60年

 熊本地震のとき、私は老人ホームの部屋で寝ておりました。食器は全部割れて部屋中散らかってしまいましたが、幸いベッドの周りには倒れてくるような家具がありませんでしたから、けがもなく無事でした。でも、命を落とされた方もいらして…。大変心を痛めております。

 今年は水俣病が公式確認されてから60年といわれています。国はもうすっかり補償は済んだような顔をしていますが、残念ながら未だに解決なんてしていません。最初から切り捨てようとしておりましたから。これからも完全に解決することは難しいでしょうね。

 私が1969年に出版した『苦海浄土―わが水俣病』は、水俣病の患者さんを訪ねてお話を聞きながらまとめた本です。でも、ただ聞き取った“証言の記録”ではありません。お会いしてお話をして感じたことを文学的に表現しました。言葉には大変気を使いました。私は社会運動家ではなく、詩人であり作家です。言葉で伝えることが私の使命なのだと感じました。でも、何度も訪ねることはできませんでした。苦しくて。お一人を2回訪ねるのがやっと。ノートを持って取材しようとしたこともありません。ただ、このただならぬ事態を見届けねばという衝動にかられて出かけていったのです。

 経済成長の名目のもとに、工場は有機水銀を海に垂れ流して、その海の魚を食べた何の罪もない住民たちが犠牲になったのです。手足がしびれて動かなくなり、話すことも歩くこともままならなくなって…。“奇病”といわれ、ご不自由な体で「人間であることが恥ずかしい」とおっしゃるんですよ。

 それまで「水俣病」なんて聞いたこともなかったですから。「何で自分がこんな目に遭うのか」と皆さん一様におっしゃるんです。魂の叫びですよ。痛ましくて、これは書いて残さなければと思いましたね。

 まず最初に、当時参加していた雑誌『サークル村』に「奇病」という一編を書きました。それから、渡辺京二さんが創刊された『熊本風土記』に「海と空のあいだに」を連載し始めました。これが『苦海浄土』の初稿になるものです。

水俣病患者との出会い

 初めて水俣病の患者さんを見かけたのは、息子が小学5年生のときに結核にかかり、入院をしたときです。息子の病棟の隣に新しい病棟を建てていたのを見て、「結核の病棟には部屋が余っているのに何の病棟だろうか」と不思議に思っておりました。そうしたら「奇病病棟だ」と。

 秋の夕暮れでしたかしら。顔にいっぱい包帯を巻いて、浴衣を着た人がまだ出来上がっていない病棟の屋上をゆっくり歩いているんです。見ていると歩き方が異様でね。傾きながら、よたりよたりと歩いては、また傾いて。顔は見えませんでしたが、ショックを受けました。院長先生に「お見舞いに行ってもようございますか」とお尋ねしたら、「どうぞ」と言ってくださったのでお菓子を買って伺いました。

 お見舞いに伺った方は、釜鶴松さんとおっしゃる方で、ベッドに寝ていらっしゃいました。「お見舞い申し上げます」と言ったら、布団の上に置いてあった漫画雑誌で顔を隠すようにされるんです。そして何か申し上げてもお返事もなさらない。これは入ってはいけなかったのでは、と感じて、「失礼いたしました」と、すぐ病室を出てしまいました。

 私が水俣病で苦しむ人たちの思いを言葉にし、患者さんやご家族と行動を共にするのを見て、父は「お前のやることを見ていると、昔なら獄門さらし首だ。覚悟はあるのか」と申しました。私は「覚悟はあります」ときっぱり答えました。父は、厳しいことを言いましたが、「やるな」とは一言も申しませんでした。私を信頼して見守ってくれていたのでしょう。

 ちょうど『苦海浄土』を出版した年、父は亡くなりました。

家族の中で育まれた弱き者への慈しみ

棟上げの日。廃材を集めて父が建ててくれました。左から2番目が石牟礼道子さん

棟上げの日。廃材を集めて父が建ててくれました。左から2番目が石牟礼道子さん

 私が生まれたのは、天草の下島にある宮野河内という町です。祖父の仕事の関係で一時的に住んでいましたが、すぐに引っ越してしまい、実際に天草で生活したことはほとんどありません。ただ、親類は天草に住んでおりますから、天草が故郷だと感じております。親類たちが天草を離れた私の家をしょっちゅう訪ねてまいりまして、皆が互いに天草弁で話すと、家の中が生き生きとしてくるんです。抒情的で典雅な響きを持つ「〜申される」といった言い回しが好きでした。

 父は石工をしておりました。とても焼酎が好きで、焼酎を飲むのが楽しみで働いておりましたね(笑)。けんかっ早いところもありましたが、野山の野草、海辺の小さな貝などもおろそかにせず、弱き者を愛おしむようなところがありました。

 天草から移り住んだ水俣市栄町には港につながる堤がありました。あちらでは「塘(とも)」というんです。この道づたいに売春宿が並んでいました。町の人たちの中には陰口を言う人もおりましたが、父は「あの姉(あね)様たちは親思いの気の毒なおなごたちぞ」と申しては、私や祖母に親切にしてくれる彼女たちに「心根のよか者ばい」と頭を下げていました。

 その後、祖父は事業に失敗して、今度は水俣川河口の小さな村に引っ越しました。そこは“とんとん村”と呼ばれておりました。これは蔑称なんです。この村には最初3人の男がおり、村起こしで1人は牛や馬を飼い、2人目はそれを殺し、3人目は皮を剥ぎました。皮を剥いだら今度は張るのですが、その皮を張るときの音が「とんとん」というので“とんとん村”と呼ばれるようになったと言い伝えられています。

 栄町に遊びに行ったとき、あるおばさんに「とんとん村に行きなさったのかね。落ちぶれなさったね」と言われました。とんとん村は不吉に思われていたのですね。親には言えませんでした。子ども心に何か感じるものがあったんでしょうね。でも、そんなとんとん村も、子どもにとっては自然にあふれた楽しいところでした。

 家のすぐ前は海辺で、巻貝や一枚貝など図鑑にも載っていないような珍しい生き物がたくさん生息していて、観察するのが面白かったですね。子ども時代をこういう場所で過ごしたのは良かったと思います。今でも懐かしいです。

戦災孤児タデ子との出会い

1943年、代用教員をしていたころ。右から2番目が石牟礼さん

1943年、代用教員をしていたころ。右から2番目が石牟礼さん

 小学校を卒業すると、社会に出てすぐ役立つことを教えてくれる実務学校に入りました。このころから短歌を作るようになり、言葉をつづる喜びを覚え始めました。実務学校卒業後、16歳で小学校の代用教員になりました。

 戦後の混乱期のある日の帰り、汽車に乗るとぎっしり混んだ中でポッカリ空いた席がありまして。見ると痩せ細った少女がたった一人で座っておりました。戦災孤児だったのでしょう。あまりに痩せていましたから、周りの人たちもギョッとして近寄らなかったんですね。

1952〜53年ごろ。夫・弘さん、長男・道生さんと

1952〜53年ごろ。夫・弘さん、長男・道生さんと

 私は自分が降りる駅に着くと、考える間もなく少女の手を引いて列車を降り、ガリガリに痩せた彼女を背負って家(うち)に連れて帰りました。少女を見た途端、父は「これはいかん」と食べ物や飲み物を用意し、祖父はすぐにお風呂をたいてくれました。普通シラミは頭に湧きますが、その子は着物もシラミだらけで。そのころは五右衛門風呂でしたから、薪でお風呂をたきます。そこにシラミ着物を投げ入れて燃やしました。そして母は2番目に良い外出着を、もんぺに仕立て、少女に着せてくれました。

 少女の名はタデ子といいました。連れて帰ったものの、私は教員の仕事がありましたから、タデ子の世話は家族がしてくれました。安心して任せていられましたね。タデ子は50日ほどわが家に滞在して故郷に帰っていきました。

 タデ子のことを書いた「タデ子の記」という文章は、私の処女作といってよいでしょう。

祖母をこの上なく大切にした父と、もの柔らかな母

「苦海浄土」を出版したころ

「苦海浄土」を出版したころ

水俣病患者の少年を訪ねて

水俣病患者の少年を訪ねて

 母方の祖母は、母が子どものころ、精神を病みました。ぼんやりとひとり言を言ったり、おかしな振る舞いをしたりするようになったのです。母は10歳にして「自分が母にならねば」と思ったそうです。

 そんな祖母を、父は「おもかさま」と呼び、わが家で最も上の者として大切に扱いました。父にとっては姑ですが、いつでもうやうやしくかしづいておりました。

 ふらふらと外に出ていった祖母をご飯のときには呼びに行きます。そして「夕飯のご膳でござい申す。箸をつけ申せ」と、箱膳という引き出しの付いた特別のご膳を父が運びました。祖母は目が見えませんでしたから、「さあ、箸をどうぞ」と持たせ、「いただき申しやす」と父が言うと、祖母が1番に箸をつけるんです。それから皆が箸をつけていただいていました。

熊本在住の作家・渡辺京二氏と

熊本在住の作家・渡辺京二氏と

 母は物腰の柔らかい静かな人で、人の悪口などは決して言いませんでした。ただ、近所の方たちは、うちに来ては、近所の噂や村の噂を散々おっしゃっていくんですね。うちでは言いやすかったみたいで(笑)。

 お昼の時間にいらっしゃるので「ついでにご飯も食べて申せませ」と母が言うと「ごっつぉになっていこうかな」と。よっぽど居心地が良かったんだろうと思います。母が「横になんなさいませ」と言うと、仕事着のまま本当にごろりと横になって昼寝をしていく人たちもいました(笑)。

 そんなふうに鷹揚(おうよう)に周りの人を受け入れる母の気質は、私も受け継いでいるように思います。

書くことが好き。言葉を紡いでいきたい

石牟礼 道子さん

 私は、物を書くことが好きですね。たとえば栄町のことを思い出して書いていると、文章の中に生き生きと生きている世界が出現するんですよ。人も田んぼも海も。裏の田んぼには春になるとレンゲ草や四葉のクローバー、セリやヨモギも生えてきます。そんな様子が広がっていくのが楽しいですね。喜びを感じます。

 天草のこと、不知火海のこと。今は病気を患っていますので書くこともままなりませんが、支えてくださる方にお世話になりながら、言葉を紡いでいけたらと思っております。
(熊本市東区にて取材)



BackNumber

(無断転載禁ず)