Wendy-Net トップページ > Ms Wendy > Back Number > 325号 注目の人 歌手 園 まりさん

Ms Wendy

BackNumber

325号 注目の人 歌手園 まりさん

99歳の母と生きる。今、生きている実感を味わっています
園 まり/歌手
Profile

園 まり/歌手
1944年、横浜市出身。62年、渡辺プロダクションから『鍛冶屋のルンバ』でデビュー。中尾ミエ、伊東ゆかりと「3人娘」を結成し国民的アイドルに。『逢いたくて逢いたくて』『夢は夜ひらく』などミリオンセールスを記録。その後ドラマ、CM、舞台とマルチタレントぶりを発揮。94年から休業。2003年に本格的に活動を再開。11年、NHKユアソング『もう一度逢いたくて』を発売。15年、映画『道しるべ』に出演。現在はソロ活動の他、全国で「3人娘コンサート」ツアーを開催中。16年7月12日ホテルアンビア松風閣(静岡県)にて「伊東ゆかり・中尾ミエ・園まり 3人娘 Summer Dinner Show」を開催。



ナースに憧れ人を癒やす仕事がしたい

 家族とともに横浜から父の郷里である群馬県に疎開したのが2歳のときです。そこで事件が起きました。近所の子がおんぶしていた私を誤って落とし、左ひじの関節が外れてしまったのです。母が急いで骨つぎ屋さんに連れて行ってくれましたが、ひじは曲がったままに。母はそれをふびんに思い、私は小学校入学を機に曲がった骨を削る手術を受けることになりました。手術は成功しましたが、今も“毛虫みたいな”手術の傷痕が残っています。

 1カ月ほど入院生活を送り、看護婦さんにやさしくしてもらったせいか、将来はナースになるのが子どものころの夢でした。

父の敷いたレールを歩き始めた小学校時代

左から母・弟・本人(8歳)・叔母・姉、後列父

左から母・弟・本人(8歳)・叔母・姉、後列父

 「毬子さん(本名)は歌が上手だから、歌の道に進まれたらどうですか?」。小学校の先生の一言をきっかけに、父が私を安西愛子先生主宰の児童合唱団に入団させたのは5年生ぐらいのとき。

11歳のころ。キング児童合唱団にて。左側が園まりさん

11歳のころ。キング児童合唱団にて。左側が園まりさん

 本当は歌なんて好きではありませんでした。それでも、父が私を合唱団に入団させたのは、父が果たせなかったオペラ歌手への夢を私に託したからだと思います。父は、定職も持たず、ふらっと家を出て何週間も帰らないような人で、母が内職をして家計を支えていました。ただ、プロデューサーの才覚はあったようです。その後、レコード会社の児童合唱団に移り、そこで1枚だけソロレコードも出しました。『つゆの玉ころり』という童謡です。

 母は母で、私の髪にクリクリにパーマをかけたり、リボンをつけたり。周囲に貧しさを感じさせまいと、着せ替え人形のように、見た目を華やかにしていたと、後になって聞きました。その見た目の華やかさと歌で、私は自分の意思とは関係なく、どんどん注目されるようになりました。同級生からは一人だけ浮いてしまうし、みんなの視線が怖くなりました。お弁当の時間に学校放送で私の独唱が流れたときは、恥ずかしくてひっそりと食べていました。

“いきなり”の連続でとうとう歌手デビュー

 高校は音楽学校の声楽科に進みました。そのころ、父にどういうコネがあったのか、いきなりテレビ朝日のコマーシャル課に連れて行かれ、「今から生放送でこれを読んでください」と原稿を渡されました。ぶっつけ本番だったので緊張して間違えてしまったのをよく覚えています。

 その後も父の願望は収まらず、『あなたをスターに』というオーディション番組に勝手に応募し、その気もないのに嫌々出たらいきなり優勝。ただ、そのときは「東映のニューフェイスとしてデビューしませんか?」というお話をいただいて、あらためて面接を受けたのですが、私がふてくされていたせいか、落とされてしまいました。

 いよいよ最後に連れて行かれたのが、渡辺プロの社長宅です。お家に上がると、作曲家の宮川泰先生がピアノの前にスタンバイされていて「歌いなさい」と言われ、訳が分からないまま大好きな大津美子さんの『ここに幸あり』を歌いました。

 これが私のデビューのきっかけになりました。

スパーク3人娘で国民的アイドルに

3人娘時代。左から、園まりさん、中尾ミエさん、伊東ゆかりさん

3人娘時代。左から、園まりさん、中尾ミエさん、伊東ゆかりさん

 自分で何一つ望んだわけではなかったけれど、芸能界入りした私には、番組アシスタントやドラマ出演など、歌以外にも、数多くの仕事が舞い込んできました。

 話だけ聞けば「シンデレラガール」。でも、踊りもお芝居も下積みがない私にとっては、荒波に突然ポーンと投げ出された感覚で、苦労の連続でした。歌も当時はポップス全盛で、童謡やクラシックで育った私はついていくだけで必死でしたね。

 そんな中で結成されたのが同じ渡辺プロに所属する中尾ミエさん、伊東ゆかりさんと組んだ「スパーク3人娘」です。今のアイドルユニットの先駆けと言ったらいいのでしょうか、とにかくすごい人気でレギュラー番組7本、一世を風靡(ふうび)する国民的アイドルとして3年ほど過ごしました。ミエちゃんが突っ込み担当、私がボケ役で、ゆかりさんは真面目な役柄。その組み合わせも良かったと言われましたね。いっときは楽しくやりましたが、途中からは3人とも個性が確立してきて、「一人で歌いたい」と思うように。また、私は、踊りながら歌うカバーポップスが苦手で、しんどい思いを抱えていました。

ささやくような“園まり節”が完成

ソロ『逢いたくて逢いたくて』のころ

ソロ『逢いたくて逢いたくて』のころ

 独り立ちする転機は、『太陽はひとりぼっち』(アラン・ドロン主演映画)の日本語カバーのレコーディングをしていたとき。これは、ツイストとブルースを融合させたポップスでしたが、たまたまスタジオにきていた出前持ちのお兄さんが、「この人は絶対歌謡曲だよ!」と言ったその一言がスタッフの耳に届き、宮川先生が『何も云わないで』をつくってくださいました。

 これでポップスから解放される!と思ってうれしかったのですが、そこからが大変でした。宮川先生からマンツーマンで1小節ごとに細かく歌唱指導を受け、ポップスから歌謡曲の歌い方に変えていったのです。“園まり節”と呼ばれる、ささやくように語りかける独特な歌い方はその過程で生まれました。

 『何も云わないで』がヒットして、その次が『逢いたくて逢いたくて』。一途な恋心を歌う曲なのに、最初は感情が込められなくて、先輩歌手から「もっと切ない表情をつくったほうがいい」と言われるぐらいでした。ところが、共演したある俳優さんに片思いをしてしまい、自分の心情と曲が初めてオーバーラップしたんですね。歌いながら自然と目に涙が浮かぶほどになり、恋をする前よりヒットして自分でもびっくり。純粋で切ない気持ちがテレビを見ているみなさんの心に響いたのかもしれませんね。

30代になって歌に虚しさを感じた

 その後も『夢は夜ひらく』『愛は惜しみなく』などがヒットし、歌い手としては確立できましたが、忙しさの中で「私は何のために歌っているのだろう?」「自分は会社にとって商品なのでは?」と虚しさにさいなまれるように。自分から徐々にテレビの仕事を遠ざけるようになっていきました。

 幼いころから父や母にレールを敷かれ、その上を走ってきたから「青春ってなんだろう?」と思い始めて、一度は真剣に結婚することも考えました。ただそのときは、家族の生計も背負っていました。家族に迷惑をかけてきた父と母の折り合いが悪くなり両親が別居。親子の絆が途絶えていたこともあり、その狭間で揺れて結局は仕事を選びました。

 それでもテレビに戻る気持ちにはなれず、気づいたら「ステージだけやりたい」と思うようになって。当時はキャバレーやクラブが全盛で、「キャバレーの女王」と呼ばれた時期もありました。

42歳で初めての一人暮らしを経験

 そのころから芸能界以外のお友達とのお付き合いが出てきて、「まりさん、別の世界も見たほうがいいよ」というすすめもあり、42歳で母から離れて初めての一人暮らしをすることになりました。当時、姉は名古屋で仕事をしており、弟は結婚して家族がいたので、これで本当に家族一人ひとりが自立した生活を送ることになりました。

 お恥ずかしい話ですが、18歳でこの世界に入り、何もかも人にやってもらって、お茶も自分で入れたことがなく、電車の切符も買えない。そんな中途半端な自分が嫌で、足元を見つめ直したいと思っていたので、そこから私の青春が始まったという感じでした。

 ウオーキングを始めたり、お友達と買い物に行ったり、カラオケに行ったり。そういうお付き合いの中で、私だけが苦労して芸能界で生きてきたわけじゃないことも分かりました。いろいろ考えて、渡辺プロを辞めさせていただくことになり、94年からは完全に休業期間に入りました。

父との和解看病で人生観に変化

 その後、疎遠になっていた父と再会。しかし、直後に父のがんが分かり、入院生活が始まりました。長年、私の意思を無視して歌手にさせられたという思いを引きずり、父を恨んでいた私ですが、娘として父に尽くせるのは今しかないと気持ちを切り替えることができました。幸い芸能活動を休止中だったこともあり、父の看病に時間を費やすことができたのです。

 父はベッドの上で「苦労をかけたね」と母にも手をついて謝りました。その姿を見たとき、人はいつでも、何歳になっても生まれ変われるのだと知りました。しかし、そんな私たち家族をさらに追い詰める出来事がありました。弟が心筋梗塞で急死したのです。

 失意の中で父は亡くなりました。けれども、父は「歌は毬子の天命だよ。それを忘れちゃいけないよ」と言い残し、私はもう一度歌をやり直したいと思えるようになりました。父の書いた脚本は一度ねじれたものの、最後は元通りになったのですね。

60代で乳がん克服

園 まりさん

 その後、歌手活動を再開した私の強力な助っ人となってくれた姉もクモ膜下出血で急逝し、私も9年前に初期の乳がんを患うなど、それなりの苦労を味わいました。

 2007年11月に告知を受け、すぐさま入院。早期だったので乳房温存手術が可能でしたが、その後のホルモン療法で動悸やイライラ、顔のむくみなどがあり、5年間は症状を抑えるのが大変でした。ことに2005年に復活した“3人娘コンサート”は、高いヒールを履いて、歌って踊って約2時間ノンストップ!調子の悪いときもありましたね。

 私の場合は、むくみ解消のためのウオーキング、岩盤浴が新陳代謝をよくしてくれました。体を温め、デトックスすることが大事だと実感しています。あとは、偏りなく食べたいものを食べ、野菜や果物を多くとるよう心がけています。 今はすっかり元気ですよ!

99歳の母とともに新しい人生を生きる

お母さんと近影

お母さんと近影

『伊東ゆかり・中尾ミエ・園まり 3人娘 Summer Dinner Show』 2016年7月12日よりホテルアンビア松風閣(静岡・焼津)にて開催

『伊東ゆかり・中尾ミエ・園まり 3人娘 Summer Dinner Show』 2016年7月12日よりホテルアンビア松風閣(静岡・焼津)にて開催

 2011年に姉が亡くなったあとは、母の介護は私の役目になりました。

 母は今99歳、介護付きの高齢者用マンションで暮らしています。頭はしっかりしていますが、足が弱く車いすの生活です。でも、老々介護って本当に大変。母を精神面で支えないといけないと分かっていても、慣れない介護と仕事との両立に、心と体がついていかずにケンカすることもあります。ただ、後悔のないよう、母の命が尽きるまで心を尽くしていきたいと思っています。

 母の今の生きがいは、私の出演するテレビ番組を見ること。「今度この番組に出るわよ」と言うとすごく元気になります。だから、私も真剣に歌わずにはいられません。そういう意味では、今が一番充実して、生きている実感をしみじみ味わっているところでしょうか。人生のやり直しが始まったのだと思います。
(都内にある喫茶店にて取材)



BackNumber

(無断転載禁ず)