Wendy-Net トップページ > Ms Wendy > Back Number > 323号 注目の人 花火師 天野 安喜子さん

Ms Wendy

BackNumber

323号 注目の人 花火師 天野 安喜子さん

ドーンと上がってパッと開く。残像を愛で、「間」を楽しんで
松原 智恵子/花火師
Profile

天野 安喜子/花火師
1970年東京都生まれ。鍵屋14代目の次女として誕生。小学校2年生の時に父が開いた「富道館柔道天野道場」で柔道を始め86年の福岡国際女子柔道選手権大会では銅メダル獲得。柔道六段。2000年鍵屋15代目を襲名。07年北京五輪柔道競技の審判員に日本人女性で初めて選ばれる。15代目となってから花火について改めて学びたいと考え日本大学芸術学部大学院に入学。「打ち揚げ花火の『印象』─実験的研究による考察─」の論文で博士号を取得。国際柔道連盟審判員。



鍵屋宗家に生まれて

1歳半のころ

1歳半のころ

 花火屋という特殊な稼業の家に生まれた私は、小学校2年生くらいになると「父のように花火師になりたい」と心に秘めていました。とにかく私の目に映る父の姿はいつもかっこいいものでした。

 花火大会で大勢の職人さんたちを仕切っている姿、小学校でPTAの役員として壇上であいさつをしている姿、父の存在はいつも誇らしいものでした。だから「花火師になりたい」というよりは、「父のようになりたい」と。その父の職業がたまたま花火師だったから、花火師にという感じだったと思います。ふつう女の子ならそんな人のお嫁さんになりたいと思うのでしょうが、「私が父になりたい」と思っていたのですね(笑)。そして母からも常に「パパって素晴らしいのよ、立派なのよ」と言われ続けて育ったので、それはもう暗示ですよね。一種の刷り込みというか(笑)。

 父は鍵屋の14代目で、両親はお見合いで結婚しました。父は今でも鍵屋の社長であり柔道師範としても現役バリバリです。私は2000年にその父の後を継いで15代目を襲名し宗家を継ぎましたが、鍵屋の宗家を女性が継ぐのは私が初めてです。祖母からは、よく「女性は不浄の者だから火の神が宿る花火の現場に入ってはいけない」と言われたことが記憶に残っています。

 だから、私が現場に入れるようになったのは時代に恵まれていたからですね。最近は花火師になりたいという女性もいらっしゃいます。少しずつではありますが、増えています。昨年の江戸川区花火大会では、1日に作業する約100名の職人のうち、女性が6名になりました。

 女性である私が家を継ぐことについて、父がある取材で問われたとき、「安喜子は男の子だと思って育てた」と答えていたのを聞いて、「えっ、そうだったの?」と思いましたが(笑)。

 今も、3世代同居で暮らしています。両親と同居していなかったら仕事と子育ての両立は厳しかったでしょうね。両親は子育てをサポートしてくれています。私は、柔道(審判員)の仕事もしており、海外に行くこともありますが、私が心から慕っている両親だからこそ、安心して娘を託すことができるので、本当にありがたいと思っています。高校生になった娘に16代目を継いでほしいという思いはあります。ただ、私自身、のれんの重さを実感しているので、娘の花火師としての道が開けるまでは、当主として母としてサポートをしていこうと思います。

つらさもあった柔道選手時代

高校1年生。福岡国際女子柔道選手権大会において、日本代表として銅メダルを獲得

高校1年生。福岡国際女子柔道選手権大会において、日本代表として銅メダルを獲得

小学校3年生のころ。道場の合宿先にて父と

小学校3年生のころ。道場の合宿先にて父と

 

 父が地域青少年育成のため柔道場(富道館柔道天野道場)を開いていました。その影響で、姉妹はもちろん親戚も柔道に取り組みました。姉は三段、妹は二段を持っていますが、いちばん長く続けたのは私でした。

 柔道を始めたのは小学校2年生のとき。6年生までは父の指導を受け、中学校に進んでからは水道橋の講道館で練習しました。得意技は背負い投げ。勝ってメダルを取ると両親がものすごく喜んでくれるので、その喜ぶ顔を見たくて柔道を続けてきたという面がありました。だから、勝負への貪欲さというか、すごみには欠けていたような気がします。

 中学校3年生のときから全日本のメンバーに入りましたが、練習のきつさには閉口していました。どうやったらこのきつい練習をサボれるか、ということをいつも考えていましたね(笑)。

 柔道選手としてのピークは、わりと早くて高校1年生のとき。最も好成績を残せました。その後大学に入ってからも柔道は続けましたが、思うような成績は残せず、悩んだ時期が続きました。頂点に立つためには、やっぱり自分のために勝つという強い意思と、相手を蹴落としてもはい上がっていくという貪欲さも必要。学生時代は精神的な弱さがあったので、かなりもがき苦しみましたね。

 大学を卒業するときには、企業(実業団)からのお誘いもありました。でも母は、私の長い苦しみを知っていたので、父に助言してくれたようです。父が「もう(柔道を辞めても)いいよ」と言ってくれたとき、初めて肩の荷が下りてホッとしたことをよく覚えています。でも今では「あの時代があったからこそ今がある」と思えます

日本初の女性審判員として世界で活躍

 大学卒業と同時に実家の鍵屋へ入社。鍵屋は、父の代から花火の総合プロデュースをしていましたから、花火の演出だけではなく、導入する音楽の選曲やスピーカーの配置、アナウンスのコメント決めなども行っていました。製造は協力工場へ花火の詳細な種類を定め発注していました。

 そこで1年後、製造現場を知るために工場へ単身修業に出ました。そこに父から電話があって、工場で修業しながら柔道審判員の資格を取ることになりました。

 柔道競技がオリンピック種目になったのは男子が1964年の東京大会から、女子はその28年後のバルセロナ大会からです。女子もオリンピックの正式種目となったことから女性の審判員を育てていこうということになって、東京都柔道連盟の役員をやっていた父を通じて私にお声がかかったわけです。スタートは95年、全日本柔道連盟C級ライセンス審判員から。その後、B級、A級と合格し国際審判員へ。さらに、いくつかの試験に合格し、2008年の北京オリンピックでは男子決勝の主審を務めることになりました。選手と同じように審判員の世界もランキング制になっていますから、オリンピックの決勝戦で主審ができるというのは審判員としてメダルをかけられたくらいの価値があります。でも、北京が終わったとき、私はもう審判を辞めようと思いました。

 日本はそうでもありませんが、オリンピックでは、メダルを獲得することによって、選手だけでなく家族やスタッフの生活が変わるような国があります。だから、勝敗によってその後の人生が決まってしまうような試合となると、ものすごく緊迫した空気が流れます。勝った選手は問題ありませんが、負けた選手の「あっ、人が抜け殻になるというのはこういうことなんだ」という状況を目の当たりにしました。さすがに衝撃が大きくて、選手の人生を左右するような大会の審判は、もう辞めようと思ったのです。

 でも出産と同じで(笑)、過ぎてしまうとまたやりたくなって、その後も続けています。現在、全日本柔道連盟審判委員会の副委員長となりましたが、柔道界に対して何かサポートや応援ができたらいいなと思っています。

大学院で花火の芸術面を研究

14代目が15代目のためにデザインした半纏(はんてん)

14代目が15代目のためにデザインした半纏(はんてん)

 一つの大会で何十万人ものお客さまを集められるというのは、花火だからこそ。私たち花火師の側から「これはいい作品だ」という発信はけっこうあります。

 でも、観客側から、花火の研究をした人はこれまでいませんでした。それで母校でもある日本大学の芸術学部大学院の修士課程に入って、花火演出の効果を考察する研究にチャレンジすることにしました。研究室では教授の指導を受け、映像や音響は制作プロダクションへ依頼し、6年かかって博士論文を完成させました。

 花火は、色・形・光・音(リズム)という要素からできていますが、こうした要素が「美しさ」や「力強さ」といった、見る人の印象にどのように関わるのかを分析していきました。

 すると、力強さを感じるのは目に見える花火の大きさではなくて「ドーン」という音の影響が強いとか、優雅さを演出したいときには色や形といった視覚的要素を中心にして音は控えめにする演出が効果的だとか、改めていろいろなことが分かりました。

 火薬を扱う花火は学問的には「工学」の範疇(はんちゅう)に入るとされ、芸術とは認められていません。でも、こうした研究を通じて花火の芸術的水準を上げていければと思っています。

「間を愛でる」伝統へのこだわり

浦安の花火大会にて、演出の流れを確認しながら打揚の点火指示を出す15代目

浦安の花火大会にて、演出の流れを確認しながら打揚の点火指示を出す15代目

2014年の江戸川区花火大会

2014年の江戸川区花火大会

 今の時代、どうしても「新しいもの=良いもの」となりがちですね。古いものの中にも良いものはたくさんあって、良き伝統は変えてはいけないと思っています。

 花火で一つ例を挙げるとすれば、打ち上げのリズムです。1発ドーンと上がってパッと開く。そして花火が消えた後に目に見えない残像を愛で、次に上がる花火との「間」を楽しむ。その楽しみ方を知っているのが日本人だと思っています。

 海外での主流はワーッと間断なく上げ続けるエキサイティングな演出。それがいい花火だと言われがちですが、私は日本の文化に合った、花火を愛でるリズムの面白さは守り続けていきたいと思っています。

 鍵屋の打ち上げは電気点火ですが、事前にプログラミングするコンピューター式と手動のボタン式の2通りがあります。手動は私が現場で手を振り下ろすタイミングに合わせてボタンを押して点火するというアナログです。安全に打ち上げるために遠隔操作で行いますが、花火の「間」は現場で判断して決めています。

 鍵屋の花火大会は手動をメインに行っているので、江戸川区花火大会では1時間15分の間に200回以上私が手を振り下ろします。打ち上げを電気点火にしたのは父の代からで、父も手を振り下ろしていました。また、鍵屋がいちばん大切にしているお客さまとの一体感を作り出すうえでも「間」は大事です。

 

天野 安喜子さん

 花火大会ではパートごとに締めくくりがありますが、その直前、タカタカタカッと上がったところで1回、間を作ります。そして「来るよね、来るよね…」と観客が次の花火に期待を持ったタイミングで「ドドドドッ!」と、打ち上げる。掛け声とともに拍手喝采の場面。実は、「鍵屋~ッ!」と拍手をいただけるときを、ピンポイントで演出しています。

 鍵屋も他の花火屋さんもそれぞれ独自の間がありますから、花火を見に行ったら色や形、音だけでなくぜひ「今日の間は心地いいね」「こんな間の作り方や打ち上げリズムがあるんだ」といった見方もしてみてください。きっと楽しいと思いますよ。

 お客さまの感動に大きな役割を持つ「間」。それが鍵屋のこだわりであり、私のこだわりでもあります。
(江戸川区にある鍵屋にて取材)



BackNumber

(無断転載禁ず)