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320号 注目の人 エッセイスト 鮫島 純子さん

祖父・渋沢栄一の肌に触れた 希少な人間ということになりましょう(笑)
鮫島 純子/エッセイスト
Profile

鮫島 純子/エッセイスト
1922年、東京都生まれ。祖父は日本資本主義の礎を築いた渋沢栄一。42年、岩倉具視の曽孫・鮫島員重と結婚、男児3人をもうける。夫の勤務地・名古屋で大空襲を経験。夫の退職後は夫婦で朝の散歩など日常生活の中でできる健康法と心の持ち方をポジティブに保つ心がけを実践。99年、夫を自宅で介護し見送る。著書に『祖父・渋沢栄一に学んだこと』『忘れないで季節のしきたり日本の心』『あのころ、今、これから…』『毎日が、いきいき、すこやか』など。講演会や雑誌への寄稿も多数。



祖父・渋沢栄一の思い出

昭和3年9月9日 渋沢栄一(2列目中央)と同族。前列右から2番目が鮫島純子さん

昭和3年9月9日 渋沢栄一(2列目中央)と同族。前列右から2番目が鮫島純子さん

 祖父(渋沢栄一)の家は、私が育った家から歩いて5、6分のところにありました。祖父は、私たち子どもが遊んでいるのを面白そうに眺めている優しいおじいさんでした。「ごきげんよう」とあいさつに行くと「よう来られたな」と言って頭をなでて、一人ずつ、アメを口の中に入れてくれたのがうれしかった思い出です。

七五三のとき。7歳。新橋江木写真館にて撮影

七五三のとき。7歳。新橋江木写真館にて撮影

 祖父は私が10歳の時に亡くなりました。私より年上のいとこたちは亡くなりましたし、私より年下の人は小さすぎて、祖父の記憶は残っていないでしょうね。ですから私は、今や祖父・渋沢栄一の肌に触れた希少な人間ということになりましょう(笑)。

 父(渋沢正雄)は実業家で、平日はとても忙しく過ごしていました。それでも日曜日には「過密化していく東京市に避難場として緑地を点在させなければ…」という考えから候補地探しのドライブに連れて行ってくれたりして、家庭を大切にした人でした。母は「おじいさまのお名前を汚すようなことはしないでちょうだいね」とは言いましたが、決して厳しくはないおおらかな人でした。

 きょうだいは姉、兄、私、妹の4人。私は兄の遊び相手で活発な子でした。おてんばを止められることもなく、ごく普通に伸び伸び育ったと思います。

花嫁衣装で防空壕へ

 結婚は昭和17年、20歳のとき。お互いの母親同士が華族女学校(当時)の同級生で、主人は海軍の短期現役中でした。当時は軍人が足りず、文系大学出の人を急きょ経理学校に入れて軍に配属するという制度ができて、主人はその第1期生。横須賀の海軍基地の主計長をしていました。

 披露宴は食糧不足のため、人数制限をして3回に分けて開きました。最初は、祖父が作った帝国ホテルで両家の親戚や両親の友人を招待して行いました。2回目は先生や友人を別の会場に、3回目は昔から働いていただいている方や、植木屋さんなど出入りの方々を目黒雅叙園にお呼びしての宴席でした。ところが宴たけなわに、東京初の米軍機が焼夷弾を川崎の工業地帯に落としました。花婿はすぐに横須賀に行き、花嫁の私は衣装のまま、雅叙園の防空壕に誘導されました。新婚生活はそんな始まりでした。

名古屋での空襲体験

 その後、主人は、もともと勤めていた会社(三菱重工業)の人手不足で呼び戻され、名古屋に転勤になり引っ越すことになりました。そして結婚から1年後に長男、年子で次男を出産、次男が生後7カ月のときに本格的に空襲が始まりました。名古屋には戦闘機を作る工場があったので狙われたのでしょうね。ところが、その時ちょうど主人は外地に3カ月出張中で不在。幼な子2人を抱えてまさに私の人生は急転しました。

 当時わが家には、長男を出産した病院の看護婦長さんが紹介してくださったお手伝いさんがいました。15歳のとてもしっかりしたかわいい子で、家事をしたり、子どもたちの面倒を見てくれたりして、私を支えてくれていました。

   空襲が始まると、彼女のお父さんが心配して迎えに来ました。その時なんと彼女は「こんなに小さい赤ちゃんたちを残して自分だけが安全なところに帰る気にはなれない」って言うんです。お父さんは「それもそうだな…」とそのまま帰られました。さぞや後ろ髪を引かれる思いだったと思います。でも、彼女が一緒にいてくれたおかげで私たちは空襲を乗り切れました。

 焼夷弾というのは筒が束になってドンと落ちてきて、その衝撃で噴き出した油に火がついて燃えて、あたり一面が火の海になります。とても一人では消せません。消すといっても防火用水にためていた水に筵(むしろ)をザブンとつけてかぶせるだけ。「空襲になったら、あなたは子どもを守る係、私が火を消す係よ」と分担を決めていましたが、彼女は私を見かねて防空壕から出てきて火を消すのを夢中で手伝ってくれました。その後も私たち一家は疎開先や転居先でたくさんの方のお世話になりました。

 私はそれまで自分中心で、思いやりの大切さなど、さほど考えずに大きくなったと思いますが、戦争中、他人さまの親切のありがたさを心から身に染みて感じました。戦中戦後の体験は、私が人並みになるために必要な過程だったのだと今はつくづく思います。

一冊の本との出合い

1967年4月銀婚式の鮫島一家。44歳のころ。上段右から、長男、三男、次男

1967年4月銀婚式の鮫島一家。44歳のころ。上段右から、長男、三男、次男

 その後東京に戻り、いちばん下の子が幼稚園に通い始め、自分を見つめる時間がようやくできました。何かにつけて戸惑い一喜一憂していた私は、自分の至らないところばかりが気になり「こんな母親ではダメだなぁ。まず自分を変えなければ」と思うようになりました。それでいろいろ偉い方のお話を伺ったりしましたが、納得のいく答えにたどり着けず、不惑にはほど遠い自分がいました。

 ところが40歳を目前にしたころ、主人のいとこの家で一冊の本をもらいました。それには「人間の肉体は期間限定で神様からお借りしているもの。本当の自分の霊魂は何度も違う環境に生まれ変わり、学びながら磨かれるべきもの」と人間について書いてありました。

 私はその時「これなら分かる」と思いました。「私が渋沢の家に生まれたのも、長い輪廻の時を経て、今回の生涯で学ぶ課題を自ら選んだ境遇なのだ」と理解できたのです。

なにがあってもありがとう

 またその本には「何か良くないことが現れたということは前世でクリアできなかった問題(負のエネルギー)が現れて消えるチャンス。落ち込まないでむしろ喜ばしいこと」と励ましが書いてありました。

 それからは嫌なことや都合が悪いことが起きたとき、例えばこれは実際私自身に起きたことですが、足を骨折したり、自動車事故に遭ったりしたときにも「自分の身辺に起こることは全部自分に縁のあること。誰かのせいで起きたのではなく、すべて自分の過去生から今に至るまでの誤った想いが現れて消え良くなる過程」と捉えるようにしました。もちろん初めからすぐには考えられませんでしたが、起こるたびに繰り返して身についたように思います。

 2015年に出版した本のタイトルにもなった「なにがあっても、ありがとう」も、初めは口だけでも、感謝の言葉を発していると後から心が追いついてきます。何ごとも気楽に楽しんでぼつぼつ続けることが一番です。私はその本との出合いから50年かけてようやく「後天的ポジティブ思考」を習慣化できました。本当に感謝です。

健康の秘けつは歩くこと

夫を見送って2年後、80歳で一からダンスレッスン入門

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都内の他、最近は地方講演依頼も。90歳過ぎて珍しいのか依頼も多い

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 今、私が健康でいられるのは台湾出身で健康指導をされていた先生のおかげです。主人が存命のころ、2人で近くの明治神宮をお詣りがてら、朝散歩していると、体操指導をされている先生をお見かけしました。そこで、皆さんの後ろの方でお真似をしました。そのまま黙って行ってしまっては礼儀知らずで申し訳ないと思って、先生に「教えていただいてありがとうございました。簡単な体操なので、ずっと続けて健康維持に努めたいと思います」とごあいさつしました。それがきっかけでお目にかかるたびに歩き方や姿勢のご指導を受けたり、朝の散歩の途中で治療法を伺ったりしました。

 「姿勢を良くすることが健康のもと」というのが先生の教えです。姿勢がピシッとなっていると内臓がよく動いて血液も体液もよく動くようになります。歩くことは大事ですが、日本人は「歩く」というと何歩とか何キロとか数字を重視しがちです。正しい姿勢で歩くことが大切だそうです。また、「食品はなるべくまるごと使うよう心掛けること」「感謝してよく噛み、腹八分目を心掛けること」「朝しっかり食べて、夜は寝る2時間前までに軽めに。朝昼晩の割合は3対2対1」も実践しています。

病床の夫のために描いた絵

病床の夫のために描いた絵

病床の夫のために描いた絵

 日ごろ健康を自負していた主人は84歳で食道がんを宣告され、本人の希望で自宅療養していました。そのころ「ガングロ」とか「ヤマンバ」といった奇抜なファッションが流行していました。それが面白いので、外に出られない主人に「こんな格好をした若い子がいたの」と一生懸命話しました。でもそれまで見たこともないスタイルで想像できないらしかったため、絵に描いて見せようと思いつき、捨てないでとってあった障子貼りの残紙に描いて見せました。

 それを見て主人がすごく面白がりましたので、こんなに喜ぶなら病人のお見舞いにいいかもしれないと、カラーコピーしてお見舞いに使いました。

鮫島 純子さん

 そんな折、ある主人の同級の方の「偲ぶ会」がありました。香典や供花はお断りされたので、絵ならお赦しくださると思い、巻物にしてお供えしたところ、テレビ局にお勤めだった故人のご子息より「放映したい」というお話があり、番組になりました。病床の夫のために描いた絵はその後、出版社からのお申し出で、考えてもいなかった出版発売となりました。

 主人は本人の希望で投薬も手術も抗がん剤も放射線治療もしませんでした。すでに85歳でしたからそういう心境になれたのだと思いますが、がんの宣告から亡くなるまでの1年7カ月の間に青森と関西に家族旅行を2回も楽しみ、最期は自宅で眠るように静かに旅立っていきました。

 私は(子どもが)男の子ばかりです。最後に嫁たちの世話にできるだけならないように、足腰は鍛えておかなくてはと、散歩は怠れません。

 最近、私は講演会などに呼ばれて「何をお話しすればいいでしょう」と伺うと「元気な姿を見せてくださるだけでも結構ですから、お話の内容は何でも」と主催者の方がおっしゃったりします(笑)。
(東京都渋谷区にて取材)



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