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316号 注目の人 小説家 篠田 節子さん

読書には、もう一つの人生を手に入れる楽しみがあります
篠田 節子/小説家
Profile

篠田 節子/小説家
1955年東京都生まれ。東京学芸大学教育学部卒業後、八王子市役所に勤務。さまざまな部署に配属、市立図書館の立ち上げにも携わった。直木賞作家・多岐川恭、推理作家・山村正夫などのクラスで学び、90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。97年『ゴサインタン−神の座−』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年デビュー25周年記念作『インドクリスタル』で中央公論文芸賞を受賞。最新刊は『となりのセレブたち』(新潮社)。大人の恋あり近未来SFありの短編集。



手広く商売をしていた実家が没落

伯母たちと。右端が母

伯母たちと。右端が母

 戦前、私の実家は、かなり大きな機屋(はたや)で、地元の八王子に白亜の洋館を建てて派手な暮らしをしていたようです。昔の写真を見ると「何これ、写真館?」と思うような応接間が写っています。

 父は長男ですが、母親、私の祖母にあたる人を小学生くらいの時に亡くし、その後すぐ迎えた父親の後妻、さらに父親を、次々に病気で亡くしました。それで派手に商売をやっていた機屋が一気に没落。父は兵隊に取られ、幼い妹たちと弟が実家に残りました。その後、妹のうちの一人は戦争中に結核で亡くなり、小さい弟も兵隊に取られて満州に送られたそうです。父は外地には行かず内地で終戦を迎え、満州に行った弟も戦後に戻ってきました。しかし、八王子にも空襲があって、父たちが戻ってきたときには一面の焼け野原。持っていた土地も取られ、住むところもない状態で、バラックを建てて、暮らしていました。そこに母が嫁いできて私が生まれたわけです。

 小説家というと皆さんよく「小さいころから家に文学全集が並んでいたんですか」と言われますが、全然そんなことはなくて。友達の家の本棚にずらっと並んだ全集を見て「こんなお家が、本当にあるんだ!」と驚いたくらいです(笑)。

 子どものころ、本は古本屋で買うのが当たり前で、学校の図書館もよく使いました。貸し本屋で借りるのは漫画。読書は完全な娯楽で、「本ばかり読んでいないで勉強しろ!」と、普通に言われていました。今で言えば「ゲームばかりしてちゃダメ!」ってところですね。

 当時、ピアノを習っているのは商店などお金持ちの子どもで、普通の子の習いごとといえばお習字とそろばんでした。私が通っていたそろばん塾では、自分のクラスが始まる前、子どもたちが廊下にたむろって、近所の駄菓子屋で買ったお菓子をボリボリかじりながら、本棚にあるボロボロになった漫画を読んでいたものです。私もそうして『カムイ伝』や『忍者武芸帳』を、読破しました。

『三丁目の夕日』がリアルにあった時代

買ってもらったばかりのランドセルを背負って

買ってもらったばかりのランドセルを背負って

 私は一人っ子ですが、周りは子どもだらけ。隣近所や親戚に年代の違う子どもが群れている環境で育ちました。お友達の家に行って、そこの家のお兄さんやお姉さんと同じこたつに入っていると、お姉さんがマセた恋の流行歌を歌っているかと思えば、お兄さんは「安保反対」と叫んでいる。昔の田舎町の庶民の暮らしそのものでしたね。考えてみればいい時代です。リアルな『三丁目の夕日』の世界。

 子どものころ自分の行動に影響を与えた本といえば、『ファーブル昆虫記』でしょうか。河原や原っぱで、丈高く茂った草の間や葉っぱの裏側にいろいろなものを発見して、驚いたり、気味悪がったり、感動したり。そのときに育まれた世界観のようなものが、後々、自分の物の見方の柱になっていったような気がします。

 今でも、人と人との関係やライフスタイルを考えるとき、道徳や宗教的な規範ではなく、環境に照らし合わせて、無意識に生き物として正しいか否か、といった発想をしています。そうしたものも、小さいころの読書体験が根っこにあるように思います。

公務員になって趣味を続けよう

大学生のころ。近所の山寺にピクニックに行って

大学生のころ。近所の山寺にピクニックに行って

 母の教育方針は、地道に真面目に堅実に。だらしない振る舞いや派手な服装はだめとか、暗くなるまで遊んで歩くなとか、普通の家の女の子のしつけでした。高校も親の目が届くところということで、徒歩で通える近所の学校に。偏差値とか校風は関係なし。

 絵を描くのがもともと好きで、高校では油絵を描いたり、あちこちの美術展に行ったりしました。しかし、美大に行くなんていうのはとんでもない、芸術家イコール変わり者、ということで、非行に走るのと同様、許されませんでした。

 当時は公務員か学校の先生になって、仕事はきっちりやって、その一方で趣味を持ち続けて、その世界である程度のところまでいければいいなと思っていました。小説家になるなど、考えたこともなかったですね。

 多趣味というより、好奇心の赴くままに、青春時代の、お金はなくても時間と体力がある時期に、「何にでも手を出す」という経験ができたのは良かったと思っています。芸術、スポーツ、ジャンルを越えた学問的な興味、何でもいいから興味あるものに頭と足を突っ込むって、いいことじゃないかしら。

 人生は思い通りにならないものですが、どんづまりのときに突破口を開いてくれるのは、そんな、がらくたみたいな経験やその中で培った人脈だったりします。そういう意味では、頭が柔らかく伸びしろが大きい時期に、就活という形で奔走しなければならない今の大学生は本当に大変だと思います。何でもすぐに答えを出さないといけないし。待ってくれない世の中ですから致し方のない面はありますが。 

 私は教員養成の単科大学に進みました。教育実習に2回行って「小学校教諭は向いてないな」と感じ、裁判所の調査官を目指したのですが、試験に落ちて一般公務員に。市役所に勤め、26歳で結婚。夫とは、仕事関係の勉強会で知り合いました。4歳上の夫は都庁の職員でしたが、私の直木賞受賞直前に退職してサポートしてくれるようになりました。マネージャーというより事務長かな。お料理も上手で全部やってくれるので私は台所から追い出されました(笑)。

カルチャーセンターで小説を

1997年、山本周五郎賞受賞時のインタビュー

1997年、山本周五郎賞受賞時のインタビュー

1997年、山本周五郎賞受賞の知らせを受けた瞬間

1997年、山本周五郎賞受賞の知らせを受けた瞬間

 小説を書くようになったのは31歳のときですね。文章教室のつもりでカルチャーセンターに行ったら、そこが小説教室で。「じゃあ小説でもいいか」と(笑)。

 半年に2本くらいのペースで短編を書いていたと思います。お互いに書いたものを批評し合っている中で、熱心な生徒が仲良しグループを作って。情報交換するうちに、「とにかく新人賞に応募しよう」って話になりました。私って、釣り糸を目の前に垂らされると、すぐにパカッと食いついちゃうタイプなんですよね。当時は「楽しい楽しい」で書いていました。

 小説の書き始めは、意外かもしれませんが「思いつき」です。自動的に物語のイメージとテーマが立ち上がってくる。そこまでは瞬間芸の世界です。その後は鉛筆と定規で設計図を引くように、入念に構成を決めていきますが。

 実際に文章に起こすときには取材が必要になりますが、最初は本や雑誌、ネットなどで、基礎的な知識や情報を仕込んでおきます。人に話を聞くにもそうした準備は欠かせません。

 取り上げる題材についてはひと通り勉強しなければ書けないので、いろいろな文献に当たります。よくお世話になるのは放送大学のテキスト。初心者が基礎的なところを押さえるのには最高の教材です。それから専門書や場合によっては論文を見ていく。

 美術や音楽についての小説も書きましたが、「好きだから書けるだろう」と思って手を出すと、自分の知識やイメージがすごく曖昧だったことに気が付きます。受け身で読んだり聴いたり見たりしているぶんには、こんなものかな、と分かった気分になっていますが、いざ自分が発信するとなるとテキトーってわけにはいかない。きちんと調べておかないと…。

 人間関係と人物描写、感情描写だけで書いていれば、読みやすく書くのも楽でしょうが、そうはいかない。ミステリーやSFなど、エンターテインメント分野では、論理や情報、見識も必要とされます。

ピンチを救った原稿のストック

北キプロスの町にて。『インコは戻ってきたか』(集英社)の取材の様子

北キプロスの町にて。『インコは戻ってきたか』(集英社)の取材の様子

 2、3年前、母が倒れ、2週間ほど母の病室からまったく離れられない状況になったことがありました。その後も数カ月仕事はできませんでしたが、それまでのストックがあったので連載などは支障なく続けられました。

 暇さえあれば、アイデアはあるので、何の媒体で発表するとか関係なく、役人のように毎日、粛々と書いています。それで注文が来ると「じゃあこんな話で書きましょうか」と。実はストックがあるわけです。

 今は、昼間の大半は家で母を看ています。身体的介助の必要はありませんが認知症があるので一時も目が離せず、書く時間と労力が取れないのが悩み。そのあたりの事情は、中編集『長女たち』に書きました。よく「スランプで書けない」とか「才能の限界を感じて書斎で頭を抱えている」なんて話を聞きますが、「なーに、ぜいたく言ってやがる!」と。そろそろストックも底をついているし、このまま行くとどうなることか(笑)。

 これから書きたいと思っているのは海底遺跡を題材にした冒険小説。インドからアジアにかけての古代文明とイスラム復興主義とインドネシアの開発独裁を絡めながらの物語です。何人もの研究者に取材させてもらって、300枚以上は書いたのですが、インドネシアでの長期取材が必要と分かってペンディングに。今のこの状況を脱したら、英語の勉強をやり直し、スキューバダイビングの免許も取って、必ずや完成させますよ。

読書の楽しみ

篠田 節子

 読書は知識や情報を得るには最高の手段だと思います。最近ではたいていのことはネット検索で答えが出てきますが、本質的な理解が深まらないことは、自分で小説を書くたびに痛感しています。あるテーマについて体系的に書かれた本のもたらすものは、ネットで得られる断片的な情報とは違います。何かを知りたいとき、1冊の本を読破する意義は大きいと思います。

 一方、小説などでは豊かな心の経験というのでしょうか、経験したことのないもう一つの人生を手に入れる楽しみがあります。それは書き手にとっても同じで、小説を書くというのは大変な面はあるけれど、実は本人が面白いからやっているんですよね。

 一読者として好きなジャンルは翻訳物のサスペンス。『ジュラシック・パーク』の原作者、マイケル・クライトンの作品が好きですね。誕生日(10月23日)が一緒なので一方的に親近感を持っているんです(笑)。人の開発した技術と自然の力とのせめぎ合いの結果、予想もつかない事態が起きる。その辺のメカニズムは、身辺雑記的人間関係を描いたものより私にとってははるかに興味深いものです。
(東京都新宿区の喫茶室にて取材)



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