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312号 注目の人 金澤翔子の母・書家金澤 泰子さん

この子を見て!みんな、泣かなくても大丈夫
金澤 泰子/金澤翔子の母・書家
Profile

金澤 泰子/金澤翔子の母・書家
1943年、千葉県生まれ。1962年、明治大学入学。書家の柳田泰雲・泰山に師事。1990年、東京・大田区に「久が原書道教室」を開設。講演・執筆活動も忙しく、著書に『愛にはじまる』(ビジネス社)、『魂の書』(清流出版)、『翔子の書』(大和書房)、『金澤翔子、涙の般若心経』(世界文化社)などがある。久が原書道教室主宰。東京藝術大学評議員。



私の原風景

小学校4年生のころ。「こがね虫」と書いた書が千葉県の大きな賞を受賞

小学校4年生のころ。「こがね虫」と書いた書が千葉県の大きな賞を受賞

 私の実家は千葉の旧家です。九十九里の近く、山武市というところで、5人きょうだいの3番目として生まれました。

 小さいころのことで、よく覚えているのは、家の裏山に一人で登ったときの光景です。山菜や茅(かや)、松の実などで、背負いかごをいっぱいにしながら頂上まで行くと、実家の庭がまるで鳥瞰(ちょうかん)図のように見え、遠く九十九里の海までが見渡せました。そこでは青い空と海を独り占めできるのです。友達と遊ぶより、一人で自然と戯れているのが好きな女の子でしたね。

 わけても、花の美しさは今も私に大きな影響を与えています。誰の目にも触れない山の奥で、四季折々の花が見事なまでに咲き乱れ、ひっそりと散っていくさまは、凛とした女性の生き方を思わせました。

何一つ不幸がない家庭で18歳まで育った

 父は、今でいう鉄道オタク。大学を出てから鉄道学校に入り直し、国鉄(現JR)に入社して、成田や両国、千葉の駅長を務めました。毎朝きっちり時計を合わせてから出掛けるような几帳面な性格で、休みの日は庭で弓を引くなど、武士の家系を受け継ぐ者として、日々、精神統一を怠らない人でした。

 一方の母は、慶応大学の医学部(産科)を出たせいか、モダンな考え方が身につき、どちらかというと自由奔放。便利主義で、おしゃれで、家のことはお手伝いさん任せ。雨が降り、子どもたちが学校からずぶ濡れで帰ってきても、暖かい家の中で好きな本を読んでいるような人でした。

 だから、私たちは早くから自立せざるを得なかったと、反発した時期もありましたが、両親がそろい、きょうだい仲も良かったので、昔は何もかもうまくいっていました。本当に幸せなまま、18歳まで実家で暮らしました。  

伝説のサロンでの華やかな生活

 ところが、猛勉強して東京の大学に入り、一人暮らしを始めてから、180度、私の生活は変わりました。ある文学青年とのお付き合いが始まり、文化人が集うサロンに出入りするようになった私は、牧歌的で静かな世界の住人から一変して、都会的で華やかな世界の住人となったのです。

 そのサロンは、戦後の新宿文化の象徴といわれた場所・風月堂で、1960年代当時に来ていた人たちは、寺山修司さん、横尾忠則さん、谷川俊太郎さん、安藤忠雄さん、馬場あき子さん、唐十郎さんなど、若さと才能にあふれたそうそうたる顔ぶれでした。彼らの影響で人脈が広がり、芝居小屋にも関わるようになりました。

 毎日が刺激の連続で、結局、大学へはほとんど行きませんでした。それでも試験だけは受けていたので、何とか卒業できましたが、そんなことは問題にならないぐらい、個性豊かな人たちとの付き合いを謳歌(おうか)していたのです。

 その後、フランス文学に憧れていた私は、30歳で銀座に文化的なサロンを開くまでになりました。詩人ボードレールの恋人であり、若い才能を育てようとサロンを開いたサバチエ夫人に倣い、店のつくりなども研究した結果、サロンは文学界、美術界を代表する方々が常連となり、当時、銀座で繁盛している店舗として紹介されるほどでした。あのころの私は、まさに怖いものなしだったのです。 

障害者を生み、一緒に死のうと思った

娘・翔子さんと

娘・翔子さんと

 そのころ、趣味の能を通じて友人から紹介され、知り合ったのが主人です。主人の方が5歳年下ですが、家業を継ぐ実業家で、当時からいくつもの会社を経営し、風格があり、人間として器の大きい人でした。

 第1子となる翔子を授かったのは、41歳のときです。それまで2回も流産していたので、赤ちゃんの心音がはっきりし、「もう大丈夫でしょう」と医師から言われたときは、喜びでいっぱいでした。それまでやることなすこと、ことごとくうまくいき、望みは何でもかなうと思っていたのです。女の子だったら日本一の書道家にしようと思っていました。

 しかし、出産から45日後、翔子がダウン症だと分かり、背筋が凍るほどのショックを受けました。「知能がなく、一生歩けないかもしれない」と告げられ、すっかり希望を失って、二人で死のうと、それだけを考えて5年間苦しみ続けました。何より、障害者を生んでしまい、私の身内の人たちに申し訳ないと思いました。

実際に、ミルクを薄めて衰弱死させられないかと考えたり、坂の上からベビーカーを落とそうと思ったりしたこともあります。でも、そう思ったときに限って翔子はダウン症の子ども特有のかわいらしさでニコッと笑い、両手を広げて私の胸に飛び込んでくるのです。

 なかなか決心がつかないまま、当時住んでいたマンションの最上階で、「地震が起きたら、今度こそベランダから落とそう」と考えていたときのことです。本当に大きな地震が起きて、とっさに翔子を抱きかかえていました。心の底で翔子のことを愛している自分に気づき、ようやく育てていく決心がついたのはこのときかもしれません。

翔子は5歳ですでに構えができていた

翔子さんが書道を始めたころ

翔子さんが書道を始めたころ   

翔子さんが2歳のころ

翔子さんが2歳のころ

 話が前後してしまいますが、私が書道を始めたきっかけは、小学校4年生にさかのぼります。学校で「こがね虫」と書いた書が千葉県の大きな賞をとり、「私は書道で生きる」と、そのときなぜか思ってしまいました(笑)。その後、紆余曲折がありましたが、今の翔子のことを思うと、書道だけは手放さなかったのがよかったのだと思います。

 結婚を機に、書家の柳田泰雲先生に再度師事し、真剣に楷書の勉強を始めました。翔子はゆりかごにいるときから私が書道をする姿を見ていたせいでしょうか、私が自宅で始めた書道教室で、同級生3人と5歳で書道を始めたときから、しっかりと筆を持っていました。「この子はうまくなる可能性を秘めているな」という持ち方をしていたのです。

 また、保育園では、何でもニコニコしながらビリを引き受ける翔子をみんながかわいがってくれて、お友達もたくさんできて、「この子はいていいんだ」と思えました。小学校3年生までは、普通学級で学ぶこともできました。心配の種は尽きませんでしたが、苦しみは少しずつ薄れていきました。

 ところが、4年生に進級するとき、突然、「うちではもう預かれません」と言われて、また悲嘆に暮れました。それから数カ月間、二人でほとんど家に引きこもって、朝から晩まで般若心経を写経しました。

涙の般若心経

 私自身、このつらさを書道に救ってもらいたいという思いがあり、必要以上に翔子を厳しく指導しました。もどかしさから声を荒げ、「こんなことがどうしてできないの!」と容赦なく叱りつけたこともあります。それでも翔子は、涙をこぼしながらも姿勢は崩さず書き続け、1枚書き終えると、はっきりとした声で「ありがとうございました」と礼を尽くしました。

 そのうちに、一つ一つの文字はアンバランスでも、塊で見るとある種のすごみさえ感じられる作品が書けるようになりました。翔子が10歳のときに書いた般若心経は、「涙の般若心経」と呼ばれ、もっとも人気のある作品のひとつです。

 今もふと、あの濃密な時間が懐かしく思い出されます。「涙の般若心経」がなければ、今の翔子の書の基本、そして、集中力、持続力は培われなかったかもしれません。そう考えると、普通学級への進級を断られたことも必然だったと思えます。

純粋な魂が感動を呼ぶ

2006年、鎌倉の建長寺の奉納作品

2006年、鎌倉の建長寺の奉納作品

 翔子が14歳のとき、主人が突然、心臓発作で倒れ、52歳の若さであっけなくこの世を去ってしまいました。遺言ではありませんが、約束していたことがありました。主人と生前、「翔子はダウン症だけど、こんなに立派な字が書けるのだから、20歳になったら、翔子の書をお披露目しよう」と話していたのです。

 それで、生涯一度のことだからと、銀座で個展を開いたところ、全国から2000人を超える人が見にきてくれました。これには本当に驚きました。しかも、皆さん翔子の作品を見て涙を流されるのです。

 テクニックなら私の方がずっと上です。翔子はただ、私に喜んでほしい、みんなに喜んでほしいという思いだけで書きます。そんな汚れを知らない純粋な魂が、見る人の胸を打ったのかもしれません。

 私も翔子から学ぶことはたくさんあります。彼女には競争も、他人との比較も、地位や名誉などの欲望も一切ありません。いつでも慈愛に満ちあふれ、100パーセント豊かな時間を生きています。翔子のおかげで、私も世俗の価値観で生きなくなり、人間の本質を考えるようになりました。今では、許せないものはまったくなくなりました。生きている人は皆尊いと思えるようになったのです。

70代の今が一番幸せ

2013年、翔子さんの大字(だいじ)練習風景

2013年、翔子さんの大字(だいじ)練習風景

 20歳で世間に認められ、今では、大勢の人の前で書を披露する「席上揮毫(せきじょうきごう)」の機会も多くありますが、翔子には緊張もプレッシャーもないようです。むしろ見てくれる人が多いほど、不思議といい文字を書きます。書き終わると、満面の笑顔で得意のダンスを披露するなど、サービス精神も旺盛です。

 そして、弱い人が好き。個展に首相が訪れようが、お年寄りや赤ちゃんを見るとおかまいなくそちらへ走って行って、痛いところをさすってあげたり、抱っこしてあげたり。一人で立つことのできなかったダウン症のお子さんが、翔子に背中をさすられ、「大丈夫、歩ける」と言われた途端、本当に歩き出したといった奇跡のエピソードも数多くあります。翔子は「みんなにパワーをあげたい」と口癖のように言いますが、翔子を見ていると、パワーとは強さではなく、やさしさであると、つくづく思わされます。

金澤 泰子

 今は、同じ苦しみを持つ母親たちに希望を見せるのが私の役目。講演会にも現物支給みたいにできるだけ翔子を連れていって、「この子を見て。みんな、泣かなくても大丈夫よ」と伝えています。

 ここに至るまでいろいろありましたが、70代になった今が一番幸せです。人生に無駄なことはないと言いますが、書道を続けてきたことも、翔子を見ていると、ここに根拠があったんだと思えます。

 そうなると、過去を含めた全てが「感謝」という色に塗り変わっていきます(笑)。これからも自然や人に感謝しながら、翔子と二人三脚で歩いていけたらと思います。
(都内の自宅にて取材)


金澤翔子/書家
1985年、東京都生まれ。生後すぐダウン症と診断される。5歳で母・泰子に師事し書道を始める。20歳で初の個展を銀座書廊において開催。その後、建長寺(鎌倉)、建仁寺(京都)、東大寺(奈良)などで個展を開催。2012年NHK大河ドラマ『平清盛』の題字を担当。現在、もっとも注目を集める若手書家の一人である。



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