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310号 注目の人 沖縄民謡歌手古謝 美佐子さん

今、ようやく味わいのある歌が 歌えるようになりました
古謝 美佐子/沖縄民謡歌手
Profile

古謝 美佐子/沖縄民謡歌手
1954年、沖縄県嘉手納町生まれ。幼少のころから沖縄民謡に親しみ、小学生から舞台に立つ。9歳でレコードデビュー。86年より坂本龍一のプロジェクトに参加。90年から沖縄ポップグループ「ネーネーズ」のリーダーとして参加し、6枚のアルバムを発表。96年よりソロ活動を再開する。97年に発表した『童神』は、沖縄を代表する新しい子守唄としてブームを呼び、夏川りみ、山本潤子、birdなど数々の歌手によってカバーされている。ソロ活動以外にも初代ネーネーズのメンバーらと共に「うないぐみ」を結成、2015年1月にアルバムを発表した。



音楽の原点

小学生のころ。右から二人目が本人

小学生のころ。右から2人目が本人

 私の音楽の原点は、1歳半ぐらいから叔母さんに連れていってもらっていた沖縄芝居です。何度も観に行くうちに、芝居で歌われる沖縄民謡を覚えて、まねして歌うようになったのがきっかけです。

 当時は各家庭にラジオもない時代。2、3歳のころには、道を歩いていても、どこからか民謡が聴こえてくると音のする方へ走って行って、歌ったり踊ったりするような子どもでした。よく行っていたのは近所の散髪屋さんで、母親が、「ちょっと踊ったら気が済むから踊らせて」と言っていたらしいです(笑)。

 本格的に民謡を習い始めたのは、小学校に入ってから。最初は母親に大反対されました。そういう芸事は遊び人がやること。女子どもが三線を触るなんてとんでもないと。でも、最後には許してくれて、民謡歌手に弟子入りし、9歳のとき『すーしすーさ』でレコードデビューしました。

基地の町に生まれて

 父親は、私が3歳のときに亡くなっています。米軍基地で自動車の修理工をしていたようですが、基地内で居眠り運転をしていた車に後ろからひかれて亡くなったそうです。

 3歳ですから思い出はほとんどありません。唯一、鮮明に覚えているのは、亡くなった父が頭に包帯を巻いて、手を組み、横たわっている姿です。祖母が父の指を1本1本立てながら爪を切っていました。顔もよく覚えていなくて、写真があるからこんな顔だったんだって分かるだけ。でも、父を知る人からは「双子の弟たちより、あんたが一番父ちゃんに似ている」と言われます。

 母が言うには、父は生真面目な性格で、家の後ろにあったダンスホールから聴こえてくるはやり歌を私が歌っていると、「こっちから流れてくる音楽はいい音楽じゃない」と言って勝手口を閉めてしまうような人だったそうです。もし生きていたら、私が歌手になることもなかったかもしれませんね。  

男には絶対負けるな

 父が亡くなってからは、母が女手一つで私と双子の弟を育ててくれました。ミシンが得意だったので、外国人ハウスに行って洋服を作る仕事をもらっていました。

 それでも毎日仕事があるわけではありません。家は貧しくて、食事も野菜ばかり。肉や魚は盆と正月くらいしか食べられませんでした。それなのに、たまにお祝いで出る紅白のかまぼこも「着色されている部分は食べてはいけない」と言うほど添加物が嫌い。でも、そのおかげで添加物を避けるクセがついて、今も健康で歌を歌えているんじゃないかと思います。

 母は、とても強い女性で、女手一つで子育てをしている気負いもあったのでしょう。しつけも厳しく、「男には絶対負けるな。女とはケンカするな」と言われて育ちました。同級生の男の子とのケンカで負けて、泣いて帰ってきても、家に入れてくれません。「もう1回行ってこい」と背中を押されて、もう一戦。だから、私も母に似た強い女になりました(笑)。

 一度だけ、苦労している母親がかわいそうで、「母ちゃん、再婚して」と言ったことがあります。でも、「母ちゃんが好きになった人は父ちゃんしかいない」と、聞いてくれませんでした。それっきり母には何も言いませんでした。母は私が44歳のとき、67歳で亡くなりました。再婚して、あくせく働かずにいられたら、もっと長生きできたのかなと思いますね。  

米軍機の墜落を経験

中学生のころ。沖縄でのステージ

中学生のころ。沖縄でのステージ

高校生のころ。本土公演での踊りの様子

高校生のころ。本土公演での踊りの様子

 基地と縁の深い生活で、小学生のときには、B‐52という戦闘機の墜落に遭遇しました。

 うちはトタン屋根だったのですが、夜中、そこに激しくバラバラッ!!と何かが落ちてくるような音がして、その音で目が覚めました。翌日、米軍機が落ちたと聞いて、「戦争が始まったのか?」と怖くなったことを覚えています。落ちたのは基地内の滑走路で、後から現場を見に行くと、地面が大きくえぐられて、真っ黒になっていました。でも、落ちたのが滑走路だからまだ良かったんだと思います。ひとつ間違えて弾薬倉庫に突っ込んでいたら、基地はおろか沖縄本島もなくなっていたかもしれません。

 それでも、子どものころは、「これが沖縄なんだ」という意識しかありませんでした。物心がついたときには、まわりに外国人がいる生活は普通でしたから、沖縄が特殊な環境に置かれていることは知りませんでした。ただ、母は戦争を体験していましたから、米軍が読谷(よみたん)や北谷(ちゃたん)の海から上陸してきた話や、迎え撃った日本軍が沖縄の人を守らずに真っ先に逃げて行った話を、しょっちゅう聞かされていました。小さいころから沖縄の悲惨な出来事を頭に植えつけられて育ってきたせいか、やはり戦争に対する恐怖心や解決しない基地問題へのいら立ちは、今でも強く持っています。みんなが安心を享受できる国に、早くなってほしいと切に願っています。

長い髪を切り、歌を諦めようとした

 その後、沖縄民謡歌手として、地元沖縄で頻繁にステージに立つようになり、そのころ知り合った男性と19歳で結婚し、娘を2人もうけました。でも、30歳で離婚。一番大きな理由は、歌を辞めて家庭に専念してほしいと言われたことです。

 その言葉に従って、お尻の下まで伸ばしていた長い髪をばっさり切ったこともありました。それだけの長さがないと、髪をアップにまとめて結いあげる琉装ヘアができません。

 でも、歌を捨てることはできなかった。結局、家庭より歌を取りました。

 歌の道を選んだものの、もし私が喉の病気にでもなって、歌えなくなったら、子どもたちは飢えてしまいます。そうかといって、事務職には就いたこともないし…とあれこれ考えて取ったのが車の二種免許です。

 嘉手納(かでな)のタクシー会社で働いていた同級生から「二種免許さえあれば女性ドライバーでも採用する」と聞き、民謡酒場で歌う仕事の合間を縫って、20日間で取得しました。まだ使ったことはないけど、いつでも使えるよう今も更新しています(笑)。

お客さんの顔を見て歌うのが好き

 初代ネーネーズに参加したのは1990年です。その前に、YMOを解散してソロ活動に力を注いでいた坂本龍一さんと出会い、6年ぐらい一緒に仕事をしていて、国内ツアー、ワールドツアーにボーカルとして参加していました。その後、音楽プロデューサーの知名定男さん、のちに夫になる佐原一哉から沖縄民謡コーラスグループをつくらないかと誘われ、ネーネーズを結成。5年間、国内外でライブツアーを行い、いろいろな人たちとセッションを重ねました。ネーネーズはポップス色も強く、日本語の歌も歌います。最初はそこに抵抗がありました。私は学校の中では標準語、門を一歩出たら沖縄弁という世代ですから、歌詞も沖縄方言の方がスーッと入ってくるし、思いも込めやすいんです。標準語には苦手意識もありました。でも、お客さんのおかげで苦手を克服できました。特に本土で日本語の歌を歌うと、お客さんの表情がガラッと変わるんです。会場ごとに反応も違います。一人一人の顔を見て、メッセージみたいなものを感じ、エネルギーをもらいながら何度も歌い込み、納得できる歌が歌えるようになりました。

 だから、私は今でもお客さんの顔を見て歌うのが好き。ソロコンサートでは会場も真っ暗にしません。薄明かりの中、じっと目をつぶって聴いている人、私を見つめている人、泣いている人、いろんな顔が見られるのがうれしいんです。

大ヒット『童神(わらびがみ)』にはレゲエバージョンも

2011年4月、東京コンサートにて。「アメイジング・グレイス」を熱唱

2011年4月、東京コンサートにて。「アメイジング・グレイス」を熱唱

 95年にネーネーズを脱退し、再びソロになったのは、聴く人の心に響くような歌を歌いたくなったからです。沖縄民謡というと、最後はカチャーシー(両手を頭上に上げて左右に振り、足を踏み鳴らす踊り)でにぎやかに終わるのが普通。でも、そんなお祭り気分の曲は民謡酒場でいくらでも歌えます。

 もっと、人と自然のつながりや、命の大切さを歌う、心に響く曲をコンサートの中心にしたいと思いました。「静かな曲ばかりじゃつまらない」と言う人もいましたが、それでも私の歌を聴きたいという人が残ってくれればいいと思い決心しました。そのとき、私の想いを分かってくれ、「一緒に目指す音楽をやっていこう」と言ってくれたのが佐原です。彼がいなければ、今の自分はありません。

愛する孫たちと共に

愛する孫たちと共に

 ちょうどそのころ、初孫が誕生し、佐原が曲をつくり、私が歌詞をつけたのが『童神』です。童神とは、幼子の心は純白で、神の魂に近いという言い伝えから生まれた沖縄の言葉ですが、多くの方にカバーされる新しい沖縄の子守歌になりました。

 中でもびっくりしたのは、birdさんのレゲエバージョンです。その他、日本語バージョンの山本潤子さん、英語バージョンのヘイリーさん、ロックバージョンもあります。ロックで眠れるのかな?と思ったりもしますが(笑)。『童神』を出してからは、沖縄の若い子、ポップスを歌うような子も聴きにきてくれるようになりました。

70代に向かって毎日有意義に暮らす

「うないぐみ」のメンバーと

「うないぐみ」のメンバーと

 もっともっといい歌を歌うためには、健康管理も欠かせません。

 沖縄では昔から、50、60歳になってから本当に味のある歌が歌えるといわれてきました。40歳からはそのことを意識して、いろいろな島唄を勉強すると同時に、肺活量を増やして最後まで力強い歌声を出せるよう、水泳やウオーキングなどの有酸素運動を取り入れ、体力づくりをしています。

 食べ物にもできるだけ添加物を使わないように。それでも全国を巡回するコンサートのときなどは、どうしてもお弁当が続きます。それで、いつもバッグに入れて持ち歩いているのが沖縄の天然海塩。良質なミネラルを豊富に含んでいて、デトックスの働きがあるといわれているので、お弁当にもパパッと振って食べるようにしています。

古謝 美佐子

 そのおかげか、喉の調子もいいし、持久力も若いころと変わりません。40歳からは50代に向けての体力づくり、50歳からの10年間は60代に向けての体力づくりをやってきたので、60歳になった今は、70代に向けての体力づくりに励むつもりです。

 実は、60歳を機に、初代ネーネーズのメンバー2人ともう1人、3人を引き連れて「うないぐみ」を結成しました。「私と一緒にやるなら、同じように食事にも気をつけて、体を鍛えないといい歌は歌えないよ。それでもついてくるなら一緒にやろう」と立ち上げ、1月には1stアルバムも出しました。

 歌を通して伝えていきたいのは、人を思いやる心や、いたわる心。小さい子には、誰が教えなくても相手を思う純粋な心があります。その心を死ぬまでずっと持ち続けてほしい。ぶれない心を歌で残してあげたいんです。
(赤坂のホテルにて取材)



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