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307号 注目の人 女優小山 明子さん

この人の幸せが私の幸せ。17年の介護生活に悔いなし
小山 明子/女優
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小山 明子/女優
1935年千葉県生まれ。高校卒業後、大谷学園横浜ドレスメーカー女学院(現・横浜高等教育専門学校)在学中に雑誌『家庭よみうり』のカバーガールとなったことがきっかけで松竹にスカウトされる。55年『ママ横をむいてて』で女優デビュー。60年映画監督の大島渚氏と結婚。フリーの女優となり、映画、ドラマ、舞台で活躍。96年に大島氏が脳出血で倒れ、介護の日々が始まる。介護に関する講演などでも活躍。2008年『パパはマイナス50点』で日本文芸大賞エッセイ賞受賞。



あのときのことを思えば何だってできる

1歳のころ

1歳のころ

 私は昭和10年(1935年)に千葉で生まれ、2歳のときに父の仕事の関係で朝鮮に一家で移り、3歳から東京で暮らしていました。4人の兄に囲まれながら女1人で育ったので、おてんばで、物おじしない活発な女の子でした。

 戦争が始まったのは小学校に入学した年。次第に空襲が激しくなると、兄たちは集団疎開、私は母の実家である大阪の池田に1人で縁故疎開をしました。

 ところが、私が疎開していた池田の家のすぐそばには軍需工場があって、学校からの帰り道に機銃掃射にやられ、お友達と命からがら桃畑に逃げたことがありました。隣町の豊中にも爆弾が落ち、せっかく空襲を避けて疎開したのに、どこにいても怖いという状況でした。そこで母は「どうせ死ぬなら家族一緒に」と、私や兄たちを疎開先から呼び寄せ、さらに遠縁を頼って埼玉県の鶴瀬村(現・富士見市)に一家で疎開しました。

 国民学校4年で終戦を迎え、ようやくほっとしたのもつかの間、母が倒れてしまいました。母は戦争が始まった年に胃潰瘍の手術をしていたのですが、戦時中のことですから満足な医療も受けられず、生活の気苦労もあって、最期は東大病院に入院して亡くなりました。

戦前は東京の本郷曙町に両親と兄、祖父母と住んでいた。6歳ごろ

戦前は東京の本郷曙町に両親と兄、祖父母と住んでいた。6歳ごろ

 
 戦争中はいろいろなことがありました。生きるのに大変な時代でしたけれど、どこの家も同じだったから、特別苦しいとか、つらいとかは思いませんでしたね。だからあの時代を生きた人間は強いのだと思います。

 私はその後、大島(映画監督の大島渚さん)が会社を辞めて独立したときも、「何もなくなっても一から出直せる。あのときのことを思えば何だってできる」という気持ちになれましたし、大島の闘病や介護に向き合ったときも「主人の命が大事。それ以外のものは何もいらない」と思えました。それは戦中戦後の体験のおかげだと思います。

 母が亡くなってから、一家で横浜の鶴見に引っ越しました。戦後少したつと、すぐ上の兄が西部劇の映画によく連れて行ってくれました。そのころテレビはまだなくてラジオだけで、娯楽といえば映画でしたね。そんなに上流家庭ではありませんでしたが、ごくごく普通の家の暮らしだったと思います。

 私は、男兄弟の中で育って子どもも息子が2人。男社会の中で生きてきたので、性格や考え方も男っぽいと思います。

 くよくよしたり、人のうわさ話をしたりということは一切ありませんでした。それは性格にもよると思いますが、それ以上に姉妹も母もいなかったから、そういうことを話す相手が近くにいなかったことが影響していたかもしれません。そういえば女優さんって、わりと男っぽい方が多いですよ。そんな「女オンナ」していたらできない仕事です。やっぱり男みたいなところがなくてはね。

芸能界入りに大反対した父

20歳ごろ。大谷学園横浜ドレスメーカー女学院に通っていた時代、自分でデザインした洋服

20歳ごろ。大谷学園横浜ドレスメーカー女学院に通っていた時代、自分でデザインした洋服

 高校卒業後、ファッションデザイナーを目指して横浜の洋裁学校に行っていたときに、雑誌『家庭よみうり』の表紙に出たことがきっかけでスカウトされ、私は考えてもいなかった女優として芸能界入りすることになりました。ところが父は大反対。父は堅実なサラリーマンでしたから、一人娘が浮き沈みの激しい芸能界なんてとんでもないことでした。でもお声がけいただいた松竹の上層部の方が父の大学の大先輩だったために、父は仕方なく娘の芸能界入りを承諾したのです。

 もちろん大島との結婚にも反対でしたから、私は一生懸命「失敗しても後悔しないから反対しないで!」と父を説得しました。でも、後に大島のことを1番分かってくれたのも父でした。息子が生まれるとしょっちゅう孫の顔を見に来るようになり、誰よりも大島のことを気に入ってくれました。父は60歳で再婚して97歳まで、再婚相手の継母は100歳まで、それぞれ長生きしました。幼いころに実母を亡くした私にとって、幸せに長く過ごした父と継母は、とてもいい夫婦のお手本でした。

大島渚監督との結婚生活

1960年10月30日 大島渚と結婚

1960年10月30日 大島渚と結婚

 私の夢は、結婚で女優を辞めて家庭に入ることでした。小さな家で白いエプロンをかけて夕食の支度をしながら夫の帰りを待つ…というイメージ。ところが、大島が松竹を退職して独立する時期と結婚の時期が重なったため、「夫が無職」という状態でのスタートでしたから、それどころではなくなりました(笑)。

 新婚時代には毎晩のように大島のお仲間がやって来て、難しい映画談議を繰り広げていました。集まっている人たちはみんな頭のいい人たちばかり。私は女優の仕事をして家に帰ると皆さんに食べるものを作って出したりしましたが、その議論には加われませんでした。

デビュー作『ママ横をむいてて』で堀内真直監督と

デビュー作『ママ横をむいてて』で堀内真直監督と

 私には、大学を出ていないというコンプレックスがあって、大島に「あなたは結婚する相手を間違えたわね。こういう議論に加われる、大学出の人を選べばよかったのに」と言うと「あなたは撮影所という大学に5年間通って、立派に卒業しているじゃないですか。それで僕は十分です」と言ってくれました。

 私はやっぱり「この人についていこう」と思いましたね。大島はテレビ的には「バカヤローの大島」と、しょっちゅう怒鳴っているキャラクターで取り上げられることも多かったのですが、家で声を荒げるようなことは一切ありませんでしたし、学歴はもちろん、どんな人とも平等に付き合う人でした。

 その後、大島の映画が海外で評価されるようになって、私たち夫婦は何度もカンヌに行きました。中でも印象深かったのは、やはり『戦場のメリークリスマス』(1983年)のときですね。山本寛斎さんがデザインしてくれた赤と黒の思いっきりハデなTシャツをみんなで着て街を歩いたら、それが現地でものすごく評判になって。とても楽しく、懐かしい思い出です。

まさかの「介護うつ」を乗り越えて

 私は大島が最初に脳出血で倒れた1996年、61歳で「介護うつ」になり、その後4度の入退院を繰り返しました。講演ではその体験もお話ししています。当時は自死願望もありましたし、今ほどうつ病に対する理解がない時代でしたから、自分の入院をマスコミに隠すのも大変でした。髪は真っ白になり、15キロも痩せ、鏡に映った自分の姿は自分でも驚くくらい、ガリガリでシワシワの「老婆」そのものでした。

 人間というのは脆(もろ)いものですね。もともと楽天家で「なるようになるさ」という性格の私がうつになって、そのトンネルから抜けられずに苦しんだのです。でも幸いなことに、息子たちや良い先生に助けられて4年後にようやく、うつから卒業することができました。

私の「終活(しゅうかつ)」

2000年カンヌへ

2000年カンヌへ

 私は大島の介護生活を通じて、「いつか別れの日が来る。だからこそ、今日一日を大切に生きよう。大島が今日一日、元気で幸せでいるのが私の幸せなのだ」と思えるようになりました。

 毎日、「パパ、今日は何かいいことあった?」と声をかけ、「私のこと好きだったら手を握り返してちょうだい」と手を握る。するとギュッギュッと握り返してくれる。言葉が出なくても、コミュニケーションの方法はいろいろあるんです。そんな会話を繰り返すうちに、「今日はパパの機嫌が良くて私もうれしい。この人の命が大事で、この人の幸せが私の幸せ」という気持ちになりました。

 17年という長い介護でしたが、後悔はしたくないと思っていました。京都に行きたいとか、お酒が飲みたいとか、どんな小さなことでも彼の希望を全てにおいて優先する、と自分の中で決めて生活してきました。だから介護に悔いはありませんし、葬儀で「最後までやりました」と言い切ることができました。

 私は講演などでも「70歳を過ぎたら自分の人生の終わり方、自分はどういう最期(さいご)を迎えたいかを、元気なうちにいろいろ考えておきましょうね」とお話ししています。もちろん「ぴんぴんコロリ」が誰にとっても理想です。

 だけど、誰もがそうなるとは限りませんよね。だから私は息子たちにこう言ってあります。「私は元気だから、もし認知症になったらきっとあなたたちを困らせる。歩き回ったり、訳の分からないことを言ったりするかもしれない。そうなったときには施設に入れてね。あなたたちには迷惑をかけないように資金は用意しておくから。だけど、私の好きなお花やチョコレートを持って会いに来てね。そのとき、もし私があなたたちに向かって“あなた誰?”と言っても、黙って“ママ、好きだよ”って手を握ってちょうだいね」って。

 私は大丈夫、と思っていた自分がうつになったのだから、認知症にならないとは言い切れませんし、これからどんな病気にかかるかも分からない。でも、だからこそ「もしそうなったら、こうしてほしい」という自分の希望を周囲の人に伝えておくことが大切だと思うんです。元気なうちに、笑い話で話せるうちにね。

 それがもう息も絶え絶えになってしまっていたら、伝えたくても伝えられないですからね。「終活」って大事ですよ。

復興支援は「すぐやる課」の精神で

小山 明子さん

 2年前、ひょんなことから「福島支援バスツアー」に参加して楢葉(ならは)町を訪れ、仮設住宅で知り合った方と文通するようになり、それがきっかけで福島や東北の支援活動をするようになりました。

 その後は、全町避難の大熊町に中学生向けの本を贈ったり、私の住んでいる地域の仲間と一緒に企画して皆さんを湘南に呼んだりして交流しています。

 先日も鎌倉で映画の上映会があって、その際に、陸前高田市の市長さんを招いてお話を聞き、そのがんばりに感動したのですぐに名刺交換。お盆には市長さんのお2人の息子さんに、毎年孫たちにプレゼントするのと同じように「藤沢のおばあちゃんより」と書いて図書券をお送りしました。

 私はそういうことに関しては「すぐやる課」(笑)、なんでもすぐに行動です。そういうところも男っぽいと思います。

 私の場合「小山明子」という名前を出せば相手の方もすぐに分かってくださいます。だったらその名前をいい意味で利用して、私が関わることで誰かの力になれるのなら行動したい、そういう方々とつながっていたい、と思うんです。

 折に触れてお手紙を出すとか、寒くなったら使い捨てカイロをお送りするとか、大げさなことではなく、ささやかだけれど「私たちは3・11を忘れないよ」「皆さんのことを思っていますよ」という発信を、これからもずっと続けたいと思っています。
(神奈川県藤沢市内のホテルにて取材)



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