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306号 注目の人 演歌歌手・浪曲師二葉 百合子さん

引退後も素晴らしいお弟子さんに恵まれて 幸せだなぁと、つくづく思います
二葉 百合子/演歌歌手・浪曲師
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二葉 百合子/演歌歌手・浪曲師
1931年東京生まれ。浪曲師の父に師事し、3歳で浪曲師として初舞台。父が横綱、双葉山のファンだったことが芸名の由来。57年には「女国定」で歌手としてもデビュー、間奏に浪曲の台詞を入れる「歌謡浪曲」を確立。70年文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。74年「岸壁の母」を台詞入りでカヴァーし大ヒットさせ、76年日本レコード大賞審査員会選奨受賞、NHK紅白歌合戦出場。94年芸術選奨文部大臣賞、2006年旭日小綬章受章。11年3月、77年間の芸能生活に終止符を打ち引退。14年7月第49回長谷川伸賞受賞。



3歳で初舞台に上がったきかん坊

昭和9年、初舞台のころ。4歳

昭和9年、初舞台のころ。4歳

 私は昭和6年、東京・葛飾で2男3女、5人きょうだいの次女として生まれました。きょうだいゲンカで兄貴を倒してしまうようなきかん坊で、ついたニックネームが「おとこおんな」。負けず嫌いというんでしょうか、叱られるとカーッとなるような性格だったらしいです。

 浪曲の師匠だった父が子どもたちに浪曲をやるかと聞いたとき、きょうだいの中で、私だけが「やる」と言ったようで、3歳で初舞台に上がりました。 

 当時の東京にはたくさんの寄席があり、父は幼い私を連れてお師匠さんのところを回り、「百合子を出させてください」とお願いしたようです。

 当時、浪曲をやっている6、7歳くらいの女の子は何人かいましたが、3歳というのはおそらく私くらいだったと思います。小さな子が舞台に上がって、ませて浪曲なんかやるものですから、お客さまは孫を見るように温かく見守ってくださっていました。お菓子やおひねりとか、いろいろなものをご褒美に頂き、それが子ども心に、すごくうれしかったのを覚えています。

 父は芸に対してとても厳しい人でした。「こういう筋なんだから、大人の気持ちになってやらなきゃダメなんだ」と言われていましたが、3歳ですから言葉の意味も分かりません。父の言うとおりに歌おうなんて無理ですよね。それでも舞台が終わると、父からは「その歌い方はなんだ、だらしない!」とゲンコツが飛んでくるんです。それはそれは怖かったですね。

 父が私のことを褒めるのは、10回に1回くらい。「まぁ、今日は許してやるわ」と言って、舞台の帰りに、私の好きなあんみつやおしるこをごちそうしてくれました。子どものころは無我夢中で、「父に怒られないように一生懸命やらなきゃ」と必死でした。

空襲警報の中での公演

昭和15年、一座を組み地方巡業を始めたころ

昭和15年、一座を組み地方巡業を始めたころ

昭和14年、ポリドールレコードに入社したころ。9歳

昭和14年、ポリドールレコードに入社したころ。9歳

 浪曲の一座というのは地方公演が多くて、9歳か10歳になると私を座長にした「二葉百合子一座」というのを父が作り、北は北海道から南は九州まで、日本全国を回りました。

 当時の公演は昔で言う「芝居小屋」でやっていました。あとは小学校の講堂や、大きな街に行くと公民館で演じていました。娯楽の少ない時代でしたから「浪曲の二葉百合子一座が来る」となると皆さん楽しみにしてくださって、どこに行ってもたくさんのお客さまが入っていました。

 舞台は父や大人の浪曲師さんが先に出て、「トリ」を務めるのが私。最後に「子どもの座長さん」が出てきて一生懸命やるので、温かい拍手をたくさん頂きました。

 その後、次第に戦争が激しくなっていきますが、地方公演は戦時中も中止にはなりませんでした。公演中に空襲警報が鳴ったこともありました。場内の電気を消して、飛行機が通り過ぎるのをじっと待つんです。シーンと静まり返った劇場の楽屋で「ここに爆弾が落とされませんように、頼みます」と祈りました。警報が解除になると、場内と舞台に明かりがボーッとついて、舞台を再開します。戦時中も休みなく公演をやり続けました。

 当時は浪曲にも検閲があって、恋愛ものや、切った張ったなどはいっさいダメだったそうです。それでとても苦労したということを後に父から聞きました。

 そのころになると東京への空襲もひどくなり、葛飾の実家のすぐ近くにも爆弾が落ちました。幸い家族は全員無事でしたが、家族は両親の出身地である山梨県の韮崎(にらさき)に疎開することになりました。でも、私と父だけは浅草の知り合いの家の部屋を借りて、そこから全国を回って歩きました。

 地方巡業から浅草に戻ってみると、3月10日の東京大空襲で辺りは一面の焼け野原になっていて、ほんとうにいろいろなものが…。

 そのときの光景を思い出すと、今でも涙が出そうになります。街の惨状を見るのが怖くて怖くて、父の袖(そで)をつかんで後ろにくっついて、焼け野原を歩きました。お借りしていた家も、周りの家も、1軒も、何も残っていませんでした。

厳しかった父の最期

昭和39年ごろ。自宅前にて父(67歳)と

昭和39年ごろ。自宅前にて父(67歳)と

 浅草の家が焼けてしまったので、私と父も山梨へ行き、今度はそこから中央本線に乗って全国巡業を続けました。昭和20年、14歳で終戦を迎えました。その後、私が取り組むようになった浪曲と歌謡曲をミックスさせた「歌謡浪曲」というスタイルは、疎開中の昭和20年に父が考え出したものです。若い女の子がやる浪曲だから、洋楽を入れたら若い人たちがもっと興味を持ってくれるのではないかというのが父の提案でした。

 父は浪曲師でしたが演歌も大好きな人でした。お酒が1滴も飲めない人でしたから、機嫌がいいと、おしるこを飲みながらよく歌っていました。

 父に怒られなくなったのは20歳…、いや、もっと後でしょうか。主人と昭和38年に結婚して独立し、テレビやラジオに出演したりレコードを出したりするようになっても「なんてだらしない歌い方なんだ!」「おなかから声が出ていない!」と電話で怒られっぱなしでした(笑)。

 そんな父が昭和51年「岸壁の母」で紅白歌合戦に出たときに「百合子、歌もヒットさせてもらって念願の紅白に出られて、やっぱり続けていてよかったな」とものすごく喜んで、初めて褒めてくれました。その言葉はとってもうれしかったですね。

 父は81歳で亡くなったのですが、息を引き取る前の晩「もう危ない」と聞いて実家に飛んで行くと、父はお医者さまや主人や他のきょうだい全員を人払いして、私だけを枕元に残してこう言いました。「今までほんとうに苦労をさせたけれど、お前のおかげでいい暮らしができた。嫌な思いをしただろうけれど、ありがとう」。それから30〜40分後、父が息を引き取るまで、私が体を起こして背中をさすっている間中、父は「ありがとう、ありがとう。辛抱してくれてよかった」と言い続けました。

 父のこの言葉で、それまでの苦労がいっぺんに吹っ飛びました。「芸事は一生勉強だから」と怒り続けてくれた父がいたからこそ、77年間、この道でへこたれずにやってこられました。父には感謝しかありません。

「岸壁の母」端野いせさんに守られて

昭和56年ごろ。「岸壁の母」のモデル端野いせさんと

昭和56年ごろ。「岸壁の母」のモデル端野いせさんと

 「岸壁の母」のモデルになった故・端野いせさんとは、ほんとうに親しくさせていただきました。東京都大森のいせさんのお宅には、何度も出向き、お話を伺いました。いせさんは息子さんやご主人を戦争に取られて悲しい思いをしている、たくさんの方たちの代表でした。 

 私にも息子がおりますので、そのお気持ちは痛いように分かります。もちろん、私自身も戦争のあの怖い思いを体験していますから、戦争というものは絶対に繰り返してはならないと全国各地の公演先に行くたびに「岸壁の母」を歌い、浪曲を語りました。今年も、次の年もと、私は毎日毎日「岸壁の母」を歌い続けたのです。

 すると、そのうちお客さまの方から「今年も岸壁をやってほしい」というリクエストが来るようになり、「岸壁の母」は4年くらいかかって全国的なヒットになっていったのです。「それは去年やったじゃないか」と言う方は1人もいらっしゃいませんでした。

 いせさんは昭和56年7月1日、お亡くなりになりました。主人と2人、最期を看取らせていただきました。臨終まで息子・新二さんの名を、うわ言のように呼び続けて…。

 引退する5、6年前からでしょうか、「岸壁の母」を歌うときには、舞台でもテレビでも、私がマイクを持つ右手のすぐ脇には、必ずいせさんの立つ気配が感じられるのです。私には、その姿が、髪形や着物の柄まで見えるのです。私の歌う「岸壁の母」の歌と一緒に、新二さんは、必ず帰ってくると信じて、新二さんの名を叫び続けていたのだと思います。母の子を思う心念(しんねん)が、私に姿を見せてくださったのだと思います。そして「この平和がいつまでも続きますように」と祈りながら、いせさんと思いをひとつにして歌っていました。

お弟子さんたちは素晴らしい「孝行娘」

平成18年秋 旭日小綬章受章

平成18年秋 旭日小綬章受章

 お客さまから「二葉百合子も声が出なくなって哀れだな…」と言われる前に引退しよう。このことは、ずいぶん前から決めていました。

 平成18年の「芸能生活70周年コンサート」での引退も考えたのですが、まだ、そこそこ声が出ていましたし、その年に旭日小綬章というご褒美を頂戴したものですから「これはもうちょっと頑張らないとダメだろう」ということになって延びたのです(笑)。 

 そして平成23年3月、80歳を区切りに引退することにしました。

 やり残したことはありませんね。引退してから、もう3年半もたつのに「もうちょっと聞きたかったわねえ」なんて言ってくださる方がいらっしゃったりするんですよ。ありがたいこと、感謝ですね。芸人冥利(みょうり)に尽きます。

 引退後はのんびり温泉巡りでもしたいと思っていましたが、今は坂本冬美さん、藤あや子さん、原田悠里(ゆり)さん、石原詢子(じゅんこ)さん、島津亜矢さんといった、そうそうたる歌い手さんたちが歌のお稽古に来てくださっているので、なかなかそういう暇がないですね。彼女たちも私も真剣勝負のお稽古です。

 皆さんほんとうに情に厚い方でね。みんな1歩外に出れば1人1人が大スターなのに、お稽古に来るときはスッピンで、本当の母娘のようにおしゃべりしてくれます。

 主人が写真を撮ったりすると「お父さん、この写真は絶対に外に出しちゃダメよ!」って言われるくらい、「素」のまんま(笑)。ほんとうに優しくてかわいい孝行娘たちです。月に1度は主人と私を囲んでのお食事会なども開いてくれて、いろいろな話もしてくれます。

 「岸壁の母」は私の大事な大事な財産ですが、平和を願う曲として長く歌い継いでほしいと思っていました。その願いがかなって、皆さんほんとうに一生懸命にやってくださっています。

 それに「岸壁」だけではなく、歌い継いでほしい曲を、私の気持ちを受け継いで自分のコンサートで歌ってくださったり、CDにしてくださったりしているんです。

 私は素晴らしいお弟子さんをたくさん持たせてもらって幸せだなぁと、つくづく思います。こんなに素晴らしい歌い手さんたちがこれからも歌謡浪曲を歌い、語り継いでくれるわけですからね。

 おかげさまで今のところ健康で、声はまだ少しは出ますよ。83歳の声ではありますけれどね(笑)。皆さんの意気込みがすごいので、お弟子さんに負けないように私も大きな声でお稽古をしています。

 
(東京・品川区にて取材)



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