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302号 注目の人 評論家/金 美齢

逃げず、前向きに生きること。それが美しく齢を重ねる秘訣です
金 美齢/評論家
Profile

金 美齢/評論家
1934年台湾生まれ。59年早稲田大学第一文学部英文科に留学。71年早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。75年より英・ケンブリッジ大学客員研究員。早稲田大学講師などを経て、評論家としてテレビ・雑誌等で活躍。JET日本語学校名誉理事長。2000年~06年5月まで台湾総統府国策顧問。主な著書に『「鬼かあちゃん」のすすめ』(小学館)、『夫への詫び状』『凛とした生き方』(PHP文庫)、『日本人の覚悟』(ワック)など。最新刊は『凛とした子育て』(PHP文庫)。ホームページwww.kin-birei.com/



大家族で身についた人間力の基礎

1942年ごろ。小学3年生ごろ

1942年ごろ。小学3年生ごろ

1940年ごろの家族写真。小学校入学前後

1940年ごろの家族写真。小学校入学前後

 私は1934年、まだ日本の統治下だった台北で生まれました。父は商社マンで、中国大陸に単身赴任していて台湾にほとんどいなかったので、母と私と妹は、私が小学校を卒業するまで母の実家で暮らしました。母の実家はお茶の栽培から製造、輸出までを扱う大きな「茶行(ちゃぎょう)」を親族で営んでいました。

 祖父は精進料理しか食べないような信仰心のあつい仏教徒。かなり早い時期に引退し、別荘で仏教三昧の暮らしをしていたので、その家のゴッド・マザーは祖母でした。そこには厳然としたヒエラルキーがありましたが、私はそういう堅苦しいものが大嫌いでした。

 子どもたちは毎年、昔ながらのしきたりに従って祖母の前にひざまずいてお年玉をもらうのですが、私は「そんなことをするくらいならお年玉なんかいらない!」と、一切そういうことをしませんでした。

 だから私はそのファミリーの中でははみ出し者で、一族から「じゃじゃ馬娘」と言われて育ちました。ひとことで言うと「ツッパリ」です(笑)。

 小学校卒業後は、私と父と母と妹だけで暮らすようになるのですが、大家族の中でいろいろな人間関係を学び、この時代に、その後の人間形成における基礎が作られたような気がします。

 私は子どものころから読書が大好きで、手当たり次第に読んでいました。本を読み出すと夢中になって他のことを一切しなくなるので、母から読書を禁じられていましたが、おかまいなしにいろいろな本を読みあさりました。


 おとぎ話を読んで「自分もお姫様として生まれたら幸せだったろうなあ」ということは思いましたが、「大きくなったらこうなりたい」ということを考えたことは、ほとんどありませんでしたね。当時は女性が職業に就く姿をイメージすることが難しかった時代でした。  

 小学6年生で終戦を迎えました。台北にも空襲はあって、防空壕に入ったこともありますし、疎開もしました。食糧も不自由になりましたが、日本の本土ほど大変ではなかったと思います。

時代の先を行き過ぎた「台北一の不良」

 その後、台湾でも有数の進学校に通うようになるのですが、私は「台北一の不良」と言われるほど、勉強しないで遊んでばかりいました。

 遊びといっても家の中でレコード鑑賞会を開いて、そこでちょっと踊ったりするだけなんですけどね。大人のパーティーに学生が出入りするのは禁止でしたから、あくまでも家の中なのに、普通の人に言わせると、それは真面目な学生とはちょっと違うと。だから「金美齢は不良だ」ということになったわけですが、当時から現在に至るまで、私自身の考え方も生活のスタイルも、何も変わっていないんです。

 当時の私は、時代の価値観より先を行き過ぎていて、その後何十年もたって、時代がようやく私に追いついてきたということなんでしょうね(笑)。

 その進学校で大学受験を拒否したのは、学年で2人だけでした。カッコよくいえば抵抗ですが、要するに勉強が嫌いだったんです(笑)。私は今でも受験勉強が大嫌い。本を読むのは大好きだし、好きなことは夢中になるタイプですが、押し付けられたことは一切やりたくないんです。受験勉強というのは押し付けの最たるものでしょう。大人になって考えてみると実は受験勉強も半分ぐらいは役に立ちましたが、当時は子どもだった。若気の至りですね。

 その後25歳で早稲田大学に留学して博士課程まで進んだ私のことを、高校時代のクラスメートは「学年で1番勉強をしなかったあなたが、なぜこんなに延々と大学にいるの!?」と、その落差にあきれ果てていました。私もゲラゲラ笑いましたけれど。

逃げない性格

1962年ごろ。台北で岸信介元首相の通訳

1962年ごろ。台北で岸信介元首相の通訳

 高校卒業後、私は国際学舎、今の国際文化会館に就職しました。国際文化会館というのは国際交流センターのようなもので、台湾では初の試みだったため、運営ノウハウを教えるという名目で、アメリカから2年契約で大学講師を館長として迎えました。

 その彼が私に「英語をやる気があるか?」と言ってきました。こんなチャンスに乗らない手はないと「もちろんあります」と答え、いきなりテストをされました。

 結果は落第でしたが、彼はそれでも「お給料は正規秘書の半額だが、勉強するか?」と聞くので、「もちろんします」と答えました。  

 私は、ピンチであれチャンスであれ、目の前の出来事から逃げない性格。敵に背を見せるのが嫌いなんです。

 それから本格的に彼から英語を学びました。とはいえ、短い間にさほど上達するはずもありません。主な仕事は内部向けの会議録の作成でしたが、彼は完璧な会議録を書いて私の名前で出すわけです。ですから皆さんびっくりして「君の英語は素晴らしい!」と私を褒めるんです。

 私は「ハイそうです」とも「いや実は」とも答えられず…。そのとき、初めて学ぶことの大切さを、身をもって体験しました。「大学なんて行っても行かなくても同じじゃないか」と思っていましたが、「やっぱり人間は勉強しなければいけない」と。それが日本へ留学するきっかけになりました。この留学がなければ、夫・周英明とも出会っていなかったでしょうし、その後の人生もまったく違ったものになっていたはずです。

 私と夫は政治思想は一緒でしたが、人間としては似ても似つかない夫婦でした。相手は絵に描いたような優等生。ほんとうに善良で、絶対にわがままを言わない人でした。彼は無理してそうしているわけではなく、そういうふうに生まれついた人でした。

 私はその後50年にわたって台湾独立運動に関わることになり、極秘文書を台湾に届けるといった、秘密工作のような危険なことにも関わりましたが、そうした活動の源になっているのも「ツッパリ」だと思います。

 私はこういう性分だから、独立運動に関わることになったのはいわば必然だったと思います。正しいと思ったことをやらないということは、たとえそれが危険でもありえない。「やってくれないか」と言われたときに「NO」と言えないんです。

 とはいえ、私が特別にチャレンジ精神が旺盛で、常に自らアグレッシブに動く性格かというと、実はそうではないんです。「絶対に逃げない」ことの積み重ねの結果として、今の私があると思います。

大変な時代でも子どもを産んで良かった

1996年。最初の総統選に立候補した李登輝さんと面会

1996年。最初の総統選に立候補した李登輝さんと面会

1975年ごろ。英国ケンブリッジ大学客員研究員。シェークスピア生誕の家

1975年ごろ。英国ケンブリッジ大学客員研究員。シェークスピア生誕の家

 日本に来て、実家もなく、真っ当な職業もなく、子どもを保育所に預けることもできず、何よりも日本での滞在すら不安定な中で、子どもを2人も産んで育てるというのは「よっぽどバカか、勇気があるかよね」と私が言うと、夫は「両方だね」とよく言っていました。そんな、ないないづくしの大変な時代でしたが、私は子どもを産んで育てて良かったとつくづく思います。そうでなかったら、私はもっと自分勝手でわがままな人間になったことでしょう。

1966年ごろ。家族写真

1966年ごろ。家族写真

 仕事と子育ての両立は、自分の覚悟と工夫次第でいくらでもできると思います。覚悟といっても、まぁ、できちゃったものはね(笑)。私もあんまりカッコイイことは言えませんが、これも必然、神様のいたずらですよ。「コイツはわがままばかり言っているからひとつ、ちょっと苦労させてやれ」ということなんでしょうね。

 娘や息子たちの家族がいるのといないのとでは、天と地ほど違います。ですから120%良かったし、すごく幸せです。

 私、今、孫が5人いるんです。55年前、台湾からたった1人で日本にやってきて、11人の家族になったんです。夫は晩年、息子・娘の家族と私たち夫婦の3世帯が一緒に住む「3世帯住宅」で孫たちに囲まれて暮らしました。それが彼の幸せだったと思います。

人間が好きだから

2001年ごろ。孫たちと

2001年ごろ。孫たちと

 今年の2月で80歳になりました。よく「若さの秘訣はなんですか」と聞かれます。それは私が、物事から逃げず、前向きな性格だということと、悪い生活習慣が何もないということが大きいと思います。

 タバコは吸ったこともないですし、お酒もほどほど。食事に合わせてワインやビールを1杯くらいは飲みますが、深酒はしません。暴飲暴食をしないということですね。

 食事はおいしいもの、自分が食べたいものを食べていますから、体調も気分もとても良い状態です。

 そして、人間が好きということ。年寄りには近づきたくない、という若者はたくさんいると思いますが、私の周りには若いイケメンがいっぱいいますよ(笑)。

マッハ文朱さん



 「老い」について本に書いたりもしましたが、その言葉が似合わないとも言われますね。自分の老後のことを考えて、いろいろと手当てをしたんですが、ちょっと早過ぎたかな。

 本のタイトルにもしましたが、美しく年齢を重ねる秘訣といえば、「無理をしない」ということでしょうか。私は敵に背中は見せないけれども、自分を偽って生きるのは、どうしても無理をすることになるから、自分の本能に正直に生きてきたと思います。ツッパリも含めて、自分というものを隠さないで出しちゃう。ストレスは全部他人に押し付けて自分には残さないから、ストレスがまったくありません(笑)。

 一日でも長く元気で、現役で仕事を続けることが今後の抱負であり目標です。自分からは引退しません。生涯現役でいたいと思っています。

 私のような職業はお呼びがかからなければそこで終わりですから、引き続きお呼びがかかるような一日一日を送りたいと思っています。

 
(東京都内の事務所にて取材)



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