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299号 注目の人 法政大学総長・江戸文化研究者/田中 優子さん

江戸の想像力と柔軟性を生かして しなやかに生きる
田中 優子/法政大学総長・江戸文化研究者
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田中 優子/法政大学総長・江戸文化研究者
1952年、神奈川県横浜市生まれ。80年、法政大学大学院博士課程(日本文学専攻)修了。『江戸百夢』(朝日新聞社、ちくま文庫)で芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞受賞。2005年、紫綬褒章受賞。朝日新聞書評委員、「サンデーモーニング」(TBS)のコメンテーターなども務める。著書に『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)、『きもの草子』(ちくま文庫)、『カムイ伝講義』(小学館)、『未来のための江戸学』(小学館101新書)、『グローバリゼーションの中の江戸』(岩波ジュニア新書)他多数。



身を寄せ合って生きる裏長屋での暮らし

7歳。七五三のお祝い

7歳。七五三のお祝い

3歳。踊っています!

3歳。踊っています!

 私は幼いころ、横浜の下町の長屋住まいで、両親と母方の祖母、兄、私の家族5人が身を寄せ合うようにして暮らしていました。江戸時代、商店の裏側にある住まいのことを「裏長屋」と呼んでいましたが、私が住んでいたのも、相鉄線・西横浜駅から歩いてすぐの商店街の裏。まさに裏長屋でした。

 広さは6畳と3畳、台所のみで、隣とは薄い壁1枚で隔てられ、プライベートもないに等しい状況でした。ただ、東京や横浜は戦時中の空襲でずいぶん焼けましたから、当時はこういう長屋が多かったんです。私の祖母も横浜でお茶屋を開いていましたが、そこも焼けてしまいましたし、そのような長屋住まいをしていた人は珍しくなかったと思います。

 当時、父は会社員で、設計の仕事をしていました。父は小学校しか行っていませんが、13歳から丁稚(でっち)として働きながら、認定試験で高校を卒業しました。丁稚先は東大の赤門前にある大きな本屋さんで、「本を読みたくて丁稚に入ったのに、毎日配達の仕事が忙しくて本が読めなかった」という話を小さいころによく聞かされました。

 家では、母がスカーフの絵付けをする仕事をしていたのを覚えています。

 表通りからちょっと引っ込んだ場所にあった裏長屋は共同体のようであり、同じ年ごろの子どももたくさんいて、みんな仲が良かったですね。親の帰りが遅い日はお向かいへ行ってご飯を食べたりして、お互いに協力しながら生きていました。暮らしは今と違いますが、幸福な記憶として強く残っています。

教育にかける親の思い

7歳。前列左端が本人。祖母(前列中央)と兄(その左後)ととともに、関西の親戚を訪ねた時

7歳。前列左端が本人。祖母(前列中央)と兄(その左後)ととともに、関西の親戚を訪ねた時

 ただし、教育に関しては、両親は熱心でした。5つ上の兄が、戦後すぐにもかかわらず、受験して幼稚園に入ったんです。親は、この暮らしから何とか子どもたちを抜け出させて、将来は良い仕事に就かせたいという思いがあったんですね。「それには教育しかない」と。

 もちろん、そう考えたのは私の両親だけではありません。戦後、新しい教育制度が整ったことで、その教育制度の下、できるだけ良い教育を受けさせたいと思うのは当時の親として当然のこと。言ってみれば、それが団塊世代の親たちの考え方であり、それゆえ団塊世代は子どものころから競争社会の波に巻き込まれたわけです。大学の進学率も今より低く、大学に行くだけで一種のエリートだった時代です。だから、多くの人が大学を目指して殺到しました。これは社会現象のようなもので、都市部の同じような世代は、おそらく同じような経験をしていると思います。その結果、授業のマスプロ化(大量生産)が起こって学生紛争のきっかけにもなったわけですが。

 兄も私も、わざわざ山を越えて学区外のエリート小学校に通学しました。しかも帰りにはバイオリン教室にまで通っていたんです。中学も私立を受験。身を寄せ合って暮らす長屋の家族なのに、今考えるとギャップでしょう(笑)。

 ちなみに、兄は成績も良く、バイオリンも上手で、両親はかなり期待していたようですが、私は何をしてもダメだったので、「学校を出たらお嫁に行ったら?」と言われて、気楽な毎日を過ごしていました。中学・高校と本ばかり読んでいて、成績も良くありませんでしたから、研究者の道を進み、今のような仕事に就いたことは両親も意外だったんじゃないかしら(笑)。

高校で文筆家を目指す

学部生のころ

学部生のころ

 子どものころの私は、集団生活になじめなくて、大人しくて内向的だったと記憶しています。同じタイプの子といつも静かに遊んでいるような子どもでしたね。

 しかし両親はまったく違っていたと言うんです。幼稚園に入る前は非常に活発で、「自分で歌をつくって、歌いながらはだしで踊っていた」と(笑)。確かにそういう写真が残っているので、そんな一面もあったのでしょう。

 本を読むのは幼いころから好きでしたが、文章を書き始めたのは、清泉女学院の高校に進んでからです。学生が発行する雑誌の編集委員を務めていて、取材文を書いたりしていました。

 それから、小説も書きました。例えば、1本の木があって、そこにいろんな人がやって来て、さまざまな会話をし、その一部始終を木が見ているという構成の。その原稿はどこかにいってしまいましたが、今思えば、とっておけばよかったかもしれませんね(笑)。

 いずれにしても、そのころから将来は文学で身を立てようと思っていました。「何のジャンルであろうとも物を書いていく」という想いは、自分の中にありました。

お嬢様学校から法政へ そこで出合った江戸文化

1974年、大学院生のころ

1974年、大学院生のころ

 大学で法政を選んだのは、高校時代の国語の先生が、私の文章能力を認めてくださり、「この先、文学の道へ進むのなら、法政がいい」と薦めてくださったからです。

 1960年代のことですから、カトリック系の女子高に行くような女の子が法政を受けるというのはあまり考えられなかった時代ですが、法政には古代文学でも近代文学でも素晴らしい先生がいると教えられ、実際にその先生方の本を読んでみて、「ぜひ教えを受けたい!」と、進学を決めました。

 江戸文学はまったく念頭にありませんでした。それがなぜ研究者になったのかというと、フランス文学者であると同時に、江戸文化にも詳しかった作家、石川淳のエッセイを読んだことがきっかけです。

 もっとも衝撃を受けたのは、江戸時代の人々の固定観念を持たない思想の柔軟性と想像力でした。

 まず、彼らは名前が1つではありませんでした。例えば、浮世絵師の葛飾北斎が描き方や心境の変化で名前を変えていたのは有名な話ですが、1人が能力やジャンルごとに別の名前を使うのもよくあることで、書を書くときの名前、絵を描くときの名前、歌仙を巻くときの名前など、同時期にいくつもの名前を持つ人が普通にいたのです。最大100ぐらい名前を使い分ける人もいたようです。

 他にもいろいろありますが、1人の人間が物事を多面的に捉えながら成り立っていく江戸の文化創造の複雑さに驚き、彼らの頭の中はどうなっているのかと興味を持って調べるうちに、これはとんでもなくレベルの高い文化だと、どんどん深みにハマっていったんです。

世界中どこでも生きていける人材を育成

1979年1月、ニューヨークにて

1979年1月、ニューヨークにて

 法政大学では1980年から教壇に立ってきました。この3月までは、社会学部の学部長として多摩キャンパスで学生たちに講義を行ってきましたが、昔に比べて、「学生たちが真面目になった」という印象はありますね。特に女子学生たちが極めて優秀で、意欲的に発言し、自分の意見もしっかり持っているように思います。

 企業が求める学生像は、今は英語ができて当たり前、さらに日本のことも知っていて、自分の意見を主張できること。中身のあるコミュニケーションができる人物でなければ、世界に出たときに仕事をしていけないためです。

 そのことは単に就職の問題ではなく、本人のためにも必要だと私は思っているんです。日本企業の支社や工場はアジアや欧米だけでなく、次はアフリカ、その次は北欧に進出するかもしれません。特定の場所にとどまらず、グローバルな視野を持って生きていけないと、これからは仕事が得られない可能性がある。そういう危機感を学生たちに持ってもらい、大学側も真剣に人材育成をしていかなければならないと思います。

 もちろん、大学側は学生以上に危機意識を持っています。大学の数や学部が一時期すごく増えましたが、少子化が急速に進み、もはや拡大路線では運営していけない現実があります。だからといって、縮小すればいいという問題でもありません。

 そういう意味では、もっと市民に開かれた大学にする必要がありますし、働きながら勉強できるシステムも構築しなければいけません。これは社会的な要請としてすでにあるんですね。私が総長としてやるべき仕事もそこにあると。江戸の想像力と柔軟性を生かして、大学改革に臨みたいと思っています。

江戸時代の女性たちはみんな働いていた

1986年、34歳。対談で

1986年、34歳。対談で

 今回、私が東京六大学初の女性総長になったことで、メディアの報道もずいぶんあったようですが、女性の社会進出といえば、江戸時代の女性たちも、専業主婦は武士の上位階級の妻ぐらいのもので、ほとんどの女性は働いていました。

 江戸時代、経済力がある女性というと、1つは商家で、商家は、今に例えると企業であり家なんですね。ですから、台所のことはお手伝いに任せて、妻は集金に出ている夫(社長)の代わりにお店を守る専務のような役割を担っていました。

 商家が多い日本橋辺りには、女の子の寺子屋もありました。大きくなったら仕事をする前提で育てられている人たちが多かったので、小さいころから読み・書き・計算を教える必要があったのでしょう。

 もう1つは農家の機織りです。機織りは現金収入ですから、腕が良ければ商品を買い取られて、どんどんお金を稼いじゃう(笑)。今の多摩地域では織物が非常に盛んで、そういう女性がたくさんいたようです。

 今は、結婚して、子どもを産んでも働く女性が増えてきたといわれますが、昔はそれが当たり前だったわけですね。

着物へのこだわり 着こなしは祖母譲り

田中 優子さん

 江戸時代の普段着といえば着物ですが、私も着物は大好きで、講演やTV出演など、大学の仕事以外では、ほとんど着物で出掛けます。

 着付けは母に習いましたが、着方は祖母の影響が大きいと思います。祖母はお茶屋の女将をしていましたから、楽に着るのが上手なんですね。本当に自分の体に巻いているだけ。帯もガチガチに締めると、とても体を自由に動かせませんから、自分の体に合わせてゆったり着る。時々「襟の抜き方が粋だ」なんておっしゃっていただきますが、まさに祖母の影響ですね。

 祖母とは体型もよく似ているんですよ。だから、着物もまったく直さなくていいので、祖母の着物や帯は母を通り越してほとんど私が受け継いでいます。

 今日、私が着ているのは祖母の着物とは違いますが、祖母の着物は、シンプルで控えめなものが多いですね。母はもう少し派手なものの方が似合うんです。今はちょっと足が弱ってしまって、なかなか出掛けることも叶いませんが、以前は2人で着物を着て、お正月の歌舞伎を観に行くこともありました。

 今は日々が忙しく、お休みもほとんどありませんが、それでも元気でいられるのは、健康へのささやかな努力をしているおかげでしょうか。できるだけ歩く。お風呂で体を温める。夜はほんのちょっとのおつまみとお酒(笑)だけにして、睡眠をしっかり取る。こうすることで、早朝から爽快で、「今日もがんばろう!」と思えます。


(法政大学にて取材)



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