Wendy-Net トップページ > Ms Wendy > Back Number > 297号 注目の人 ハーブ研究家・英会話学校経営/ベニシア・スタンリー・スミスさん

Ms Wendy

BackNumber

297号 注目の人 ハーブ研究家・英会話学校経営/ベニシア・スタンリー・スミスさん

心落ち着く時間の大切さ、自然の大切さが分かります
ベニシア・スタンリー・スミス/ハーブ研究家・英会話学校経営
Profile

ベニシア・スタンリー・スミス/ハーブ研究家・英会話学校経営
1950年、イギリス・ケドルストンに生まれる。19歳のときにインドを旅し、71年に来日。78年から京都で英会話学校をはじめ、現在の「ベニシア・インターナショナル」を設立。96年、夫の梶山正さん(山岳写真家)と末っ子の悠仁くんとともに大原に移住してハーブガーデンをつくり始め、手づくりの暮らしを実践。四季折々にハーブを育て、衣食住のあらゆるシーンに活用。ハーブを活用する日用生活品のアイデアは多数に及ぶ。ハーブやガーデニングに関する記事を雑誌や新聞に執筆し注目を浴びている。2013年12月『ベニシアの庭づくり』(世界文化社)を発刊。



貴族の家に生まれ全寮制学校で暮らしたころ

3歳のころ。弟のチャールズ(2歳)とフランス人の乳母、ディンディンと一緒に雪遊び(右が本人)

3歳のころ。弟のチャールズ(2歳)とフランス人の乳母、ディンディンと一緒に雪遊び(右が本人)

 私の母はイギリスの貴族、カーゾン家の娘で、私はその母と発明家の父の間に生まれました。母は、ある意味自由で奔放な人。私の父とも私が幼いころに離婚し、その後3人の男性と結婚します。不思議なことに、母が結婚した男性4人は、みなお金持ち。私の父の先祖はセーフティフィールド(建設作業などでダイナマイトを使用する際、作業員が危険にさらされないようにつくられたカバー的なもの)を発明しましたが、その次の父の先祖もスクリュー付のネジを発明した人で、みな産業革命時代にひと財産を築いた事業家ばかりだったんです。

 私は、そんな母とは小さいころからなんとなくそりが合わなかった。父の方が好きだったけれど、父はスペインで他の女性と結婚し、私は母のもとで乳母に育てられました。ときには父が暮らすスイスに行ったり、スペインの親戚に預けられたり。10歳で全寮制の寄宿学校に入るまでは、いろんなところで暮らしました。乳母や弟や妹たちといる時間が長かったから、母と生活していたという感覚はとても薄い。

 12歳のときに、父が突然亡くなります。そして、ちょうどそのころ乳母が仕事を辞め、母が3番目の父と結婚。私は自分がひとりぼっちだと感じました。これから先は自分で生きていかなければいけない、自分の進む道は自分で決めるんだと思ったのは、そのときでした。

 そんなとき、落ち込んでいた私を励ましてくれたのが、体育の先生でした。スポーツは苦手だったけれど、その先生はいつも親身になって私の話を聞いてくれて、「スポーツが苦手なら、音楽の道に進んだら?」と。その先生のすすめで、学校の合唱団のオーディションを受け、ソプラノの一人として迎えられたことが、音楽を始めるきっかけでした。歌うことは楽しかったし、今でも好きなことの一つです。

社交界デビューとインドへの旅

3歳のころ。夏の午後、弟チャールズ(2歳)と一緒にひなたぼっこ(左が本人)

3歳のころ。夏の午後、弟チャールズ(2歳)と一緒にひなたぼっこ(左が本人)

 母は、父を早くに亡くした私の行く末を、お金持ちの父親のいる他の弟や妹たちよりも気にしていたようです。18歳になると社交界にデビューさせられ、「誰かお金持ちの人と結婚してくれれば」と言われました。けれど、私は社交界の空気や華やかなものになじめなかった。世界では戦争が起き、戦っている人や飢えに苦しんでいる人がいるのに、シャンパンを片手に優雅に過ごすなんて。

 私は、母の想いとは反対に、社交界よりビートルズなどの音楽にひかれ、バンド活動に力を注いでいました。でも、その音楽も、もう一歩でメジャーデビューというところまでいき、断念。『スカボローフェア』っていう曲を知っているでしょう。実はあの曲はイギリスの古い曲で、それをレコードにしようと思っていたんだけど、偶然にも、サイモン&ガーファンクルが同じ曲を見つけてレコーディングしてしまった。本当に残念だったけれど、それもご縁だから、仕方ないですね。

 そんなとき、バンドのメンバーから聞いたのが、インド北東部のデラドゥンという小さな町に暮らすスピリチュアルマスター、当時はまだ12歳の少年だったプレム・ラワットのことでした。

 私たちは、彼に会うために、陸路でインドを目指しました。トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンという国々を、時間をかけて旅しました。昔は、アジアは遠い国で言葉も通じない異教徒が暮らしていると思っていたし、実際、当時は英語を話す人なんて一人もいなかった。だけど、仲間の1人がギターをとりだして歌うと、村の人たちも手をたたいたりダンスを始めたりと、いつしか一緒になって音楽を楽しんでくれる。いつしか私たちは村の人たちと仲良くなって。顔や言葉は確かに違うけれど、それも急激に変わるのではなく、ヨーロッパからアジアへと、ゆるやかに変わっていく。「ああ、地球はやっぱりつながっている。みんなが同じ地球に暮らしているんだ」って実感しました。

インドで出合ったもの、得たもの

4歳のころ。フォックス・ハンティングの日に、チャールズ(3歳)と

4歳のころ。フォックス・ハンティングの日に、チャールズ(3歳)と

 私たちは、プレム・ラワットの弟子たちが建てたインド風のしっくいの建物で暮らしていました。毎朝4時に起床し、2時間ほど瞑想。庭で花を育てたり、一緒に料理を作って食べる。そんなとき、プレム・ラワットは、心を落ち着けるには、呼吸が一番だということを話してくれました。

 毎日の生活のなかにはイライラすることや心配もある。現代人は、おいしいものを食べたりお酒を飲んでストレスを解消するけれど、いずれも過ぎると体に悪い。何にも頼らず、心を落ち着けるには、呼吸が大切だと。けれど、それは私にとっては当たり前のことだった。教えられる前から私はそれを意識していたから。ほとんどの人は、普段は意識して呼吸をしていません。けれど、たまにリラックスして、ただ呼吸に集中する。考えが頭に広がっても、気にせず呼吸に集中していると、いつしか心が落ち着いていくんです。

インドから日本へ

18歳のころ。社交界デビュー

18歳のころ。社交界デビュー

 その後、ロンドンとインドを何度か行き来した後、私は新たな旅を始めることにしました。一つには、インドで見た壺がアジアの焼き物で、その壺にとても心ひかれたからです。ヨーロッパの文化とは違うアジアの文化をもっと見てみたかった。でも、当時ベトナム戦争が勃発していて、ベトナムは通れない、中国本土にも入れなかったので、インドから船に乗って香港、台湾へと旅し、そこからまた船で沖縄、九州南部に渡りました。

 日本に着いたときには、お金もなくて、でも東京にはどうしても行ってみたかった。私は、ヒッチハイクで東京まで行きました。インドを出てからわずか11日、1971年のことでした。東京では、風月堂というクラシック喫茶に通い、そこに集う外国人たちから、日本についての情報を得たこともありました。当時は本当に活動的でしたね。

 その後、日本各地を放浪し、京都にたどり着いたのが1973年。本当なら京都も放浪の場所の一つだったかもしれません。けれど、私は、京都で過ごすうちに、伝統を重んじるイギリスと、この町はとても似ていると感じたんです。なぜ京都に住むことにしたのか?ってよく聞かれるんですが、そんなとき私は、「イギリスと京都の文化や人が似ているからで、京都には、伝統的なものや芸術性の高いものもあるから」と答えています。京都人はイギリス人と同じようにお茶が好きで、一見シャイです。そんなところが、私に故郷を思わせ、この地にいて、ほっと和む時間を与えてくれたんです。

母になり離婚 そして再婚へ

フォークソング・グループ「スウィート・ドリーム」のプロモーション写真。中央が本人

フォークソング・グループ「スウィート・ドリーム」のプロモーション写真。中央が本人

 1973年、23歳のときに結婚し、母になりました。当時私は京都で英会話を教えていました。13年間、結婚生活を続けていましたが、どうしても夫との間に折り合いのつかないことがあって、離婚することに。12歳と11歳の娘2人と、8歳の息子がいました。親の意思で離婚はしたけれども、子どもたちにはその影響は及ぼしたくありませんでした。私は、1日に英語のクラスを8コマも教えるハードな生活を送っていました。本当なら、子どものそばにいて一緒に過ごしたいけれど、経済的なことを優先すると、そうもできない。ある意味、葛藤の日々でした。

 母親ではあるけれど、父親の役目も果たしたい、そんな想いが、私を仕事へと追い立て、子どもと向き合う時間を削っていたように思います。再婚なんて、もちろん考えられなかったし、まさか自分がまた日本の男性と再婚するとも思っていなかった。

 現在の主人・正とは、1991年に出会いました。これまでの人生はこの人と出会うためにあったのだと思える、運命的なものでした。ちょうどその前の年に、星占いの人に、「1年間の間に誰かと結婚しなければ、あなたは尼さんになる」と言われて(笑)。尼さんになるのはいやだから、正と出会えて本当によかった。彼に私の子どもたちの父親になってほしい、そう思って結婚を決めました。2人の間に、息子も生まれ、その息子が絆になって、家族が一つになることができた。本当に幸せで、私の生活が充実していきました。

 一方で、私は英会話教室の生徒たちに私が好きなハーブティーを出していました。すると、当時はまだ今ほど知られていなかったハーブティーのおいしさや体にいいという効能を知って、多くの人が興味を持ってくれるようになりました。なかには、そのハーブティーが欲しいという人もいて、だったらイギリスから取り寄せるより、自分でつくったほうがいいなと思ったんです。そこでハーブを育てるために選んだのが、自然豊かな京都・大原の地でした。ハーブをつくり、周りの人にも教えるうちに、すごく面白くなってはまってしまって。たくさん勉強もしたし、実際にいろんなハーブをつくりました。その積み重ねが、今の暮らしにつながったんだと思います。

ハーブのある生活 エッセイが映画や本に

 私は、小さなころに暮らしたイギリスやスペイン、大人になって訪ねたアジアなど、さまざまな場所の自然をとても愛してきました。幼いころから、いつか庭の花やハーブの世話をしながら、家族と暮らしたいと思ってきた。それが今は実現できているのだから、本当にうれしいですね。

 ハーブは今100種くらい育てていますが、それぞれに違った特徴や味わいがあって、料理やお茶、入浴剤やせっけんなどにして使えます。でも、ここまでの庭にするには、時間もかかるし手間もかかる、そういう時間を楽しめないとつくれないのかもしれません。

 年季の入った実り多い庭ができるまでには、忍耐力と想像力とすべての生き物への共感力が必要。庭で育つ植物が何を必要としているか、自然の微妙なバランスを感じとって共存していく。結局私たち人間もまた、自然の恵みで育てられているんですものね。

 私のこんな生活に、共感してくださる方や、ハーブづくりを教わりたいという方もいて、NHKで『猫のしっぽ カエルの手 京都大原 ベニシアの手づくり暮らし』という番組を2009年から続けてきました。四季折々の自然について、ハーブについて、さまざまな人たちとの出会いを紹介しています。この番組は、2013年9月に映画としても公開されました。

 また、書籍も何冊か書かせていただく機会を得ました。『ベニシアのハーブ便り』のときは、自分でもいろいろと考えることがあったし、次作の『ベニシアの京都里山日記』では、娘が病気になってつらかった。だから、本を書くことは、私にとって修行みたいな感じかもしれない(笑)。 

 2013年12月には、世界文化社から、『ベニシアの庭づくり』という本を発刊しました。この本は、『ベニシアのハーブ便り』の続編で、1月~12月までのガーデニング日記と、庭で育てているハーブについてのエッセイです。ハーブの育て方のコツやお料理のレシピなどもあって、充実した本。多くの方に読んでいただき、自然の素晴らしさを感じていただけるといいなと思います。

これからの私

ベニシア・スタンリー・スミスさん

 私はできなかったけれど、本当は、母親は子どものそばにいて、子どもと向き合って暮らすべきだと今は思います。だからというわけではないけれど、これからは、いいおばあちゃんになりたいなあと思っています。娘にも子どもができ、私はかつて私が子どもたちにできなかったことを、孫のためにしたい。

 夫のケガや娘の病気など、私もいろいろなことを経験してきたから、そこから得たものを本や講演などで、多くの人に伝えていきたいですね。


(京都市左京区大原のご自宅にて取材)



BackNumber

(無断転載禁ず)