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290号 注目の人 茶道家/塩月 弥栄子さん

波瀾万丈な人生を支え、 良い方向に導いてくれた「お茶の道」
塩月 弥栄子/茶道家
Profile

塩月 弥栄子/茶道家
1918年生まれ。父は裏千家14世家元碩叟宗室。弟は第15世家元汎叟宗室。娘は茶道家の五藤禮子。茶道教室「塩月弥栄子の茶室 養和会」を主宰。(財)淡交会顧問、裏千家的伝名誉教授、(財)青少年研究所理事、(社)日本ブライダル文化振興協会名誉会長、その他多数の役職を務める。著書では『冠婚葬祭入門』(光文社刊)があり、シリーズ全体(全4冊)で700万部を超える大ミリオンセラーとなり、同名でTVドラマ化、映画化もされた。その他、『弥栄子の言葉のこだわり』(淡交社刊)、『上品な話し方』(光文社刊)など多数。


のびのび「やんちゃ」に育った幼少時代

5歳のとき。母と妹と。

5歳のとき。母と妹と。

 私は5人きょうだいの長女で、すぐ下に2つ違いの妹が1人と、弟が3人。いちばん下の弟とは11歳も離れていました。それに私は子どものころから大柄でしたから、小さいころは大人と子どものような感じで、弟たちをお相撲で投げ飛ばしたこともありました。


 先日、5月に出版した本(『塩月弥栄子95歳 思いのままに生きなさい』小学館刊)を、弟(裏千家15代家元鵬雲斎、現・大宗匠 千玄室)に送りましたら、「ワガママなあなたの生き方が、そのまま書いてあるね」という手紙が来たんですよ。小さいころから、とってもおてんば。今は「おてん婆」ですけどね(笑)。


 子ども部屋から大屋根によじ登ったことも武勇伝かしら。裏千家の大屋根は、国の重要文化財ですから、今ではとても考えられないことですね。


 そうそう、私たちきょうだいは同志社幼稚園(1897年創立)に通っていたんですけれど、通園の途中で妹の良子がお弁当箱をひっくり返してしまったことがありました。それで幼稚園の先生が「弥栄子さんはお姉さんなのだから、良子さんに半分分けてあげなさいね」っておっしゃったの。その日のおかずは私の大好きなタラコ。「半分、妹に取られちゃう」って、それがとっても残念で。そんなことも思い出されます。食べ物の恨みはおそろしいですね(笑)。

お茶の正式なお稽古は女学校に入ってから

女学校1年 16歳のときの家族写真

女学校1年 16歳のときの家族写真

 私たちきょうだいは皆、お茶のお稽古は自分から頭を下げて「お稽古をつけていただきたい」と思ったときが始まりでした。両親は、私にも妹や弟たちにも無理強いは一切せず、知らん顔していましたよ。私が正式にお茶のお稽古を始めたのは、女学校のころ。今でいうと、中学校の2年生くらいのときですね。


 ただ、幼稚園の年長さんくらいになって、お茶碗を持って歩けるようになると「お運び」といって、着物を着てお客さまにお菓子やお茶をお持ちするんです。「まあ、お嬢ちゃん、かわいいこと」なんて言われて。そういうのは大好きでした。


 子ども時代の思い出といえば、クッキーで有名な泉屋さん(昭和2年京都で創業)ってありますでしょう。今はもちろん全国的に有名ですけれど、その泉屋さんが、まだご商売を始められる前、京都にご家族で住んでいらっしゃったんです。


 奥さまがクッキーをお作りになるのがとってもお上手で、遠足とか、何かにつけて持ってきてくださるの。家族そろっていただきましたけれど、それがおいしくて、うれしくて。最初は、奥さまが子どもたちのために手作りされていたんですね。


 それが評判になって、本格的にお店を始められたんだと思います。

私を支えた「おてんば精神」

 大正生まれの私。今、振り返ってみても、ほんとうに大変な時代を生きてきたと思います。自分でも「かわいそうにねえ(笑)」って思います。ほんとうに、いろんなことがありましたもの。


 戦争中は子どもを連れて疎開もしました。離婚したときには、勘当同然で、職業安定所でお仕事を探して。当時は今と違って離婚はタブーでしたから、裏千家の娘であることを会社にも隠して、就職しました。


 終戦直後でしたから、住まいはバラックの三畳間。そこで必死にOLのお仕事をしました。時代時代で、大変なことは、たくさんありました。


 そのころの私を支えてくれたのが「おてんば」な気持ち。だから、何も怖くなかったの。心の中で「負けるもんか! 日本一のお茶くみになってやる」と思っていました(笑)。

 
 私の人生、波瀾万丈。順風満帆なときばかりではありませんでした。

多忙を極めた40代

NHKテレビ番組『私の秘密』出演時(1962年〜1967年)

NHKテレビ番組『私の秘密』出演時(1962年〜1967年)

 お茶の教室(「塩月弥栄子の茶室 養和会」)を開いたのも、元々はOL時代に職場の皆さんにお点前をお教えしたのがきっかけでした。会社にお茶室はありませんでしたから、あるものを使って。まさに「芸は身を助く」ですね。


 その苦難の時代を支えてくれたのは、のちに再婚した亡夫、塩月正雄でした。彼との再婚を両親に報告し、ようやく長い冬が溶けました。


 その後、本格的に茶道教師として身を立てるようになり、ラジオや雑誌などのメディアからお声がかかるようになりました。


 NHKのテレビ番組『私の秘密』に出ることになったのは44歳のときでした。当時は生放送でしたから、時には番組出演者は皆一緒になって全国を回って番組を放送しました。沖縄にはパスポートを持って行ったものです。この番組への出演が転機になって、それからはテレビやラジオへの出演がますます増えていきました。新しいものには何でも挑戦しよう、という「おてんば精神」を発揮して、当時大流行したボウリングのレポーターになって、プロボウラーの中山律子さんにインタビューしたこともありました。


 テレビに出ることに反対された方もいたけれど、私は「お茶の魅力や楽しさを新しい媒体を使って、皆さんに分かりやすくお伝えするためにやるんだ」という気持ちでいました。


 テレビやラジオに出るようになってからは、とにかく全国各地での講演が増えましたね。もう、講演講演で、何の講演だか分からなくなるほど。講演が終わると、必ず現地のボウリング場に行って投げていました。当時はのめり込んでいましたから、269というハイスコアを出すほどの腕前になりました。今だったら「あんなものがなんで楽しいんだろう」って思いますけどね、それが気持ちいいの!(笑)。ボウリングは70代までやっていたんですよ。どんなに忙しいときにも、趣味の時間を持つことは大切ですね。

『冠婚葬祭シリーズ』が大ベストセラーに

 茶道教室でお稽古をしていると、通ってくる皆さんから冠婚葬祭のマナーや、いろんな質問が出るんです。ちょうどそのころは、それまでの大家族から核家族化が進んで、おじいちゃんおばあちゃんが周りにいなくて、教えてくれる人がいなかったんでしょうね。


 その質問と答えを書きとめたものや、『淡交』という裏千家の季刊誌に毎月書いていたエッセイを一冊にしたのが、『冠婚葬祭入門』(1970・昭和45年刊行)です。発売されると評判になって、次から次へとシリーズになりました(※シリーズ累計部数は700万部を超える)。高度経済成長で「衣食足りて礼節を知る」という時代と本の内容がちょうどタイミングよく合って「一家に一冊」といわれるベストセラー本になったのでしょうね。


 そのころは、大阪万博の準備委員会とか、婦人問題などの役職にもたくさん就いていて、「君は"元気"という病気なんじゃないか」なんておっしゃる方もいらしたほど、世界中を飛び回っていました。

「お茶って楽しいよ」一緒に勉強しましょう

 「お茶」っていうと、堅苦しくて敷居が高いと思われる方が多いでしょう?でも、私はお目にかかった皆さんに「お茶って楽しいよ、お稽古にいらっしゃい」って、お誘いしてきました。


 外国の方も一緒です。男女も年齢も、貴賤も国籍も関係ないですよ。皆がどこかで「お茶を一服頂いた。その頂き方はこうだったよ」っていう体験があれば、すてきですよね。お茶のお稽古をすると、「なるほどな」っていうことがたくさんありますね。ボウリングも楽しいですよ。皆それぞれ、いろんなことでいいんだけれど、お茶を知っていると違うの、ほんとうに。


 テレビや講演もそういう気持ちでやってきましたから、それまでお茶とはあまり縁のなかったような、幅広い方々がお稽古に通ってくださるようになりました。


 私の根底にあるもの、私を支え、良い方向に人生を導いてくれたのは、やっぱりお茶の道。


 お茶の心、たとえばご家庭でも季節のお花を飾ったり、お料理に合った器を選んだりしますね。そういう茶道から発祥したものは、畳のない今の時代でも、日本人の心のどこかに根付いているんです。


 今は電気でスイッチを入れれば何でもできますけれど、炭から火を起こしてお湯を沸かし、手順を踏んでお茶を差し上げる。そのなかに、大切なものがあるんです。


 お茶は単なるおもてなしではなく、自分を研鑽するもの。その研鑽を形にして、お客さまとのキャッチボールのなかで、結果として現れてくるのがほんとうの「おもてなし」。お茶をそういう「道」と呼ばれるものにまで発展させてきた日本人の精神性って、素晴らしいですよね。


 高貴な公家さんだけのものだった茶道を大衆に広げ、日本人の文化にまで高めたのはやっぱり千利休さんです。私はこれからも利休さんの考えを、私なりに分かりやすく、皆さんにお伝えしていきたいの。だから、お目にかかった方には「みんな一緒にお茶をやりましょうね」とお誘いするんですよ。

どんなときにも笑顔でシルバーロードを生きる

塩月 弥栄子さん

 これまで私は、たくさんの方にお目にかかってまいりました。周りの方はどんな方も、男性も女性も、みんな大切。「ようこそおいでくださいました」「送ってくださってありがとう」。どなたとも、お目にかかったらニコニコ、笑顔。お話しするのは楽しいことだけ。嫌な話はしませんよ。もちろん、誰にでもあるはずですけれどね。


 大変なときこそ、笑顔が大事なの。終戦後の厳しい時代、シュンとなっちゃった人もたくさんいたでしょう。当たり前のことですよね。だけど私は、「そういう気持ちは捨てましょう」と思って生きてきました。


 昨年は、久しぶりに大好きなニューカレドニアへ行ってまいりました。日本人移民120周年を記念した式典に、裏千家大宗匠の名代として出席するためです。ニューカレドニアには裏千家の支部があって、私もその立ち上げに関わったので「私が行かないで、誰が行く!」ということでね、今でもおてんば(笑)。


 そして今年3月末には、95歳の誕生日を祝う、祝賀の茶会をお弟子さんたちに開いていただきました。


 子ども時代から、やんちゃでおてんばで、自分の意思を貫いて生きてきた私。これからもご先祖さまに感謝しながら、私の人生を実り多きものにしてくれたお茶のために、尽くしてまいります。

 


(港区 塩月弥栄子の茶室にて取材)


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