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280号 注目の人 歌手/八神 純子さん

被災地支援も、歌も、「本当の思い」を保ちながら続けていきたい
八神 純子/歌手
Profile

八神 純子/歌手
1958年名古屋生まれ。1978年『思い出は美しすぎて』でデビュー。その後『みずいろの雨』『パープルタウン』などがヒット。2011年、同年3月に発生した東日本大震災を受けて5月には「トランス・パシフィック・キャンペーン」を自身で企画、被災地となった岩手県陸前高田市や宮城県南三陸町での支援活動をその後継続して行う。同年11月には、約10年ぶりとなる日本公演を東京・渋谷のSHIBUYA-AXで行い大成功を収める。2012年1月に15年ぶりのアルバム『VREATH』、シングル『さくら証書』を発売し、現在全国ツアー『翼』実施中。


歌うことが私のアイデンティティー

家族と行った旅行先で。小学生のころ

家族と行った旅行先で。小学生のころ

 米国滞在で長らくお休みしていた音楽活動を、昨年の11月に日本で再スタートさせました。

 きっかけは、NHKの『SONGS』という番組への出演で、このときに「コンサートをやりたい」と強く思ったんです。歌うことが私の一番好きなことであり、私のアイデンティティーだと再確認できました。

 再活動を決めたら、コネクションを広げようと意欲的に動きました。何でもやりますよ、って周りにアピール。そうしたら、いろんなことができるようになり、スムーズに事が運びました。もちろん、困った状況になるときもあるんですが、そんなときは、自分がやりたいことをやっているんだ、自分がリーダーなんだから、と思うと出口が見つかりますね。

小さいころは引っ込み思案。友人たちに引っ張ってもらってました

中学生のころ

中学生のころ

 私が生まれ育ったのは、名古屋です。4人きょうだいの一番上で、弟に妹2人。毎年夏に親戚中集まって、車で旅行に出かけていたのが一番楽しい思い出。父が面倒見のいい気質で、親戚を束ねていた感じもあったみたい。

 母は引っ込み思案でしたが、60歳になってからスキューバダイビングを始めてしまうような、冒険心旺盛な女性。冒険心がエネルギー源になる、そうした部分が自分と似てるなと思いますね。

 家族とは高校まで一緒で、東京では2年間はホテル住まい。家が厳しくて東京での一人暮らしは許してもらえなかったんです。

 小さいころは内気で恥ずかしがり屋、なんだかほわーんとしたタイプの子でした。反して、周りの友人たちは皆勝ち気でリーダータイプ。彼女たちからは、この子はほっといちゃいけないと思われてたみたいで(笑)、何するにも友人たちに引っ張ってもらってましたね。

初めて応募した曲が優秀曲賞を受賞

 ピアノを習い始めたのは3歳でしたが、クラシックはあまり好きではなかったんです。ポピュラーピアノを弾いていたんですが、中学のときに初めて、ピアノにも「コード」があると知り、これで曲が作れるんだ、と楽しくて一晩中寝ないでコードを覚えました。そこから、ピアノとのつきあい方が変わりました。私の大事な作曲ツールになったんです。

 ヤマハのボーカルスクールに通っていたので、そのうち歌い手として、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)の応募曲を歌うようになったんです。でも、曲が賞を取っても、その曲を歌う歌手は何ももらえない。それで悔しくて、初めて作った曲をこのコンテストに応募したところ、入賞。それが高校1年生のときでした。初めての応募で優秀曲賞なんて順風満帆だと周囲にも言われましたが、自分自身ではその順調さを、そのころは意識してなかったですね。

 高校が厳しく、音楽活動ができなかったので、デビューは高校卒業後ということになりました。「デビューを待つ間はきちんと曲をかきためていました」、と言えればいいんですが、実際はそうではなく(笑)。なぜかというと、ぜいたくな悩みではあるんですが、曲をかくとやはりコンテストに出したいなと思って、応募しちゃう。そうすると、それが入賞しちゃうんです。入賞曲は即レコードに、というような流れだったから、おいそれと曲もかけない。もちろん応募して入賞しなかった曲もありますが、自分で後から聴くと、やはり入賞しない理由がよく分かるという仕上がりですね。

 一度、自信作を応募したのに、結局グランプリを中島みゆきさんが受賞したときがあって。そのときには悔しくて、一晩泣きました。でも翌日には「まあまたチャンスはあるさ」って立ち直ってましたね(笑)。だから、高校時代は曲作りはお預け。部活も音楽系ではなく写真部で、純粋に学生生活を謳歌していました。

 

20代前半で周りのスタッフの人生を抱え込んでしまった

デビュー後間もないころ。ステージで

デビュー後間もないころ。ステージで

 デビュー曲の『思い出は美しすぎて』がヒット。続いて出した曲も軒並み売れて、順調な音楽生活のスタートでした。

 でも20代前半のころ、スタッフの人生を考え始めたことで、自分自身を制御することになってしまいました。周りの大人たちの人生が自分の音楽活動で左右されてしまう、だったら自分の好きなことばっかりやってちゃいけない、そう考えてしまったんです。大人の第一歩とでもいうのでしょうか。でも今思うと、そこまで考えるべきではなかった、まだ若いそのころなら、むしろ自分のやりたいことだけに突き進むべき時期だったと思います。周囲の人たちへの責任を感じたわけですが、それは間違った責任感。自分の考えるべき部分じゃなかったな、と。

 でも、音楽をやっていて何が楽しかったって、各地の音楽祭に参加できたことです。特に、20歳のころに参加した南米のチリでの音楽祭は、今でも忘れられない。いろんな国からミュージシャンが参加するんですが、彼らと音楽を通じてのコミュニケーションができた、その充実感と楽しさは得難いものでした。

 

子どもには十分な愛情をかけたい、と活動休止を決めた

アメリカの自宅周辺をジョギング中。ほぼ毎日走っている

アメリカの自宅周辺をジョギング中。ほぼ毎日走っている

 28歳のとき、結婚してアメリカに渡りました。夫はイギリス人の音楽プロデューサー。渡米するまでは日本でコンスタントに活動を続けていましたが、デビュー後10年たち、その10年という活動期間も、あのころは長いと思っていました。もう国内ではやるだけやった、ここらで一区切りつけたい、と。

 最初のうちはアメリカでもライブをやっていたんですが、子どもが大きくなると、そういう時間は取れなくなって、年に1〜2回の日本でのテレビ出演をキープしつつ、結局13年の間、音楽活動はほぼ休止していました。

 そう決めたのは、子どもとちゃんと向かい合い、しっかり育てたかったから。子育ては一生に一度のこと、失敗したら大変なことになると思ったんです。十分な愛情をかけたい、そうしないと自分が後悔すると思ったから、子どもたちが18歳になるまでは、彼らのことを第一に考えようと決めていました。

 私の母は子どもが帰宅してるときには必ず家にいることを守ろうと決めていたそうです。そういう話を聞いて自分も子どもにはそうしたい、と思っていました。

 子育てで心がけていたことは「あまり怒らないように。うるさくない親でいよう」。“シュアデイ”というものもつくりました。シュア=もちろん!という意味で、要するに、怒らず何でも肯定してあげる日。でも怒らないでいることって難しくて、つい声を荒げてしまうことも多い日々でした。自分がイメージしていた母親からはだんだん離れていっちゃいましたね(笑)。

 あとはとにかく、親に愛されていることをこれっぽっちも疑わない子どもに育てたかった。私たち親は、何よりも子どものことを一番に考えてる、そのことを彼らに伝えたかった。それは達成できたみたいです。上の子は23歳、下の子は今年ハイスクールを卒業しましたが、2人からは親としていい評価をもらえてるみたい。でもそれはこうして遠くにいるからだと思います(笑)。離れていると親子の理解が深まりますよね。

 先日、上の子がしみじみ、「あのときのあのママの行動は全部私のためにやってくれたのね」と。こんな風に言ってもらえるのは、遠くにいるからで、近くにいると私も言い過ぎちゃうし、面倒見過ぎちゃう。そうなると子どもも感謝の気持ちがなかなか持てないですよね。

東北被災地支援で得た仲間たちとの大事な絆

 子育てという大変な日々の真っ只中にいるときには、こうしてまた音楽活動を再開できるとは想像できませんでした。

 復活ライブのスケジュールは東北大震災の前に決まっていたんですが、震災で延期。ですが、震災直後は居ても立ってもいられない気持ちになり、出演したラジオで“一緒に援助活動しましょう”とリスナーに呼びかけました。「トランス・パシフィック・キャンペーン」というキャンペーンを自ら立ち上げ、そこで全国のいろんな立場の人たちとつながり、継続的な援助活動を行っています。

 活動を一緒にやっている仲間とは、大きな信頼関係が築けていると思います。活動していく中で思うのは、「本当の思い」しか残らない。純粋な気持ち以外の思惑が入っちゃうと続かないです。1年以上活動してきて、参加したいという問い合わせもかなり来ました。今のメーンのメンバーは、本当に心からの思いを持ってくれています。大人になった今、利害関係を全く越えて、そうした関係を築けるということ自体が、幸せだと思います。音楽をやっているだけでは巡り合えない人たちだった。一生続く縁かなという予感はあります。

 必要なときに必要な人と会える。それは、東北の被災地支援で動いて実感したことです。これは本当に不思議で、ここで歌いたいと発言するとその場が与えられたり。見えない力というものは本当にあるんじゃないかと、スタッフみんなが信じてしまうほど。でも発信することによって自分の発言への責任感が持て、行動に結びつく。だから実現するのかもしれませんね。

復興のために何ができるかを、常に考えています

津波で残されたがれきを材料に作られたペンダントヘッド

津波で残されたがれきを材料に作られたペンダントヘッド

 被災地で歌って、はじめて「ああ、ヒット曲って素晴らしいものだな」と思えました。自分では何度も歌ってきたものだけど、聴く人にとっては、それは例えば青春を思い出す歌で、聴くとそのころの思い出が胸に溢れてくるし、熱くなれたあのころの自分をはっきりと思い出すことができ、あの楽しかったころに一瞬で戻れる。そして、その幸せな気持ちのままで朝を迎えることができる。それは、私にしかできないこと。あの当時と同じ歌い手しかよみがえらせることはできないと思うんです。

 今の夢は、被災地で皆が集まれる場所をつくること。カラオケボックスでもいいんです。情報交換し、そこでビジネスが生まれて、という流れをつくっていけるコミュニティーセンターのような建物が必要です。

 スイスなど外国には、被災地が申請を提出すると助成金を出してくれる団体などもある。そういったことも自分たちで地道に調べて。

 いつも考え続けていると閃きがあるから、復興のために何ができるかを、常に考えています。

 今日着けているペンダントヘッドは、津波で残されたがれきの木材で作られたキーチェーン。スイスでも受賞した書家である、岩手県大槌の中学生が書いた書です。

 この「和」という文字を横にすると、下ががれきで上が鳥、その鳥ががれきから飛び立とうとしています。

 家も物もすべて流されたし、がれきも撤去される。でも自分たちの物だった何かを持っていたい、そう願った被災者の方々がいらして、その思いを実現させた支援グループが、作成したんです。

 一つ一つ手作りなんですが、私は彼らを応援しているので、いつもこれを身に着けていますし、コンサート会場でも販売しています。

50を過ぎたら子離れのとき

八神 純子さん

 女性は50を境に、ようやく自分自身の人生を歩めるときが来ると思うんです。

 アメリカで暮らしてよかったと思うことの1つは、子離れが上手にできたこと。あちらの女性は50を過ぎてから、上手に自分探しができている。だから私も50歳を迎えて、これからの人生を楽しもうと自然に思えました。じゃなきゃ、この歳でコンサート活動再開しようなんて考えません(笑)。

 母親というのは、子育てで持久力がついている。子育てが一段落したら、そのエネルギーをもう子どもに使う必要はないと思います。

 そして、大事なのがこうした時期の見極め。日本人だとそういう切り替えができずに辛い。子どもも、親にあれこれ世話やいてもらうことに慣れているから、意識して子どもとの関係を切り離すことが大事だと思います。親離れと子離れ、親子双方の意識が大事ですね。
(港区・レコード会社のスタジオにて取材)


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