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278号 注目の人 女優/前田 美波里さん

“アプローズ”の興奮が忘れられず、29歳で一から始める決意を
前田 美波里/女優
Profile

前田 美波里/女優
1948年神奈川県生まれ。15歳で舞台デビュー。1966年の資生堂夏のキャンペーンで一躍脚光を浴びる。2009年2月ジーンズフィフティ大賞 特別賞受賞。2009年3月第30回松尾芸能賞 優秀賞受賞。数多くの東宝や劇団四季のミュージカル舞台に出演するほか、最近ではバラエティーやドラマをはじめとするTV、CMなど多才に活躍している。7月15日のNHKホールを始めとする「パリ祭」に出演予定。今夏公開予定のアニメ映画『マクダルのカンフーようちえん』でミセス・マク役の吹き替えにも挑戦。


父親がわりの祖父に厳しくしつけられました

2〜3歳ころ、銀座で母と

2〜3歳ころ、銀座で母と

 私の母は、5人きょうだいの中でただ1人の女の子。アメリカ人の父と恋愛し、私を出産しました。母は帰国する父についてアメリカに行くつもりでしたが、愛する娘を手放したくないと祖父母の猛反対を受け、泣く泣く諦めたようです。

 母が働きに出ていたので私は鎌倉に住む祖父母に育てられましたが、それはそれは厳しいしつけを受けました。礼儀作法に始まり、靴の脱ぎ方や箸の使い方まで。おかげで、顔が派手なのに反して、古風な性格に育ちました(笑)。

 通った小学校は十二所(じゅうにそ※現在は鎌倉市二階堂)にあった聖ミカエル学園。三井財閥のお嬢さまのためにつくられた学校で、そのお嬢さまが卒業後は、幼稚園だけ残し、あとは、なくしてしまったらしいです。

 そう裕福でもなかったわが家は、学費の工面に苦労していましたが、祖父母は、父が外国人という理由で私に引け目を感じさせたくなかったんです。それだけかわいがられて育てられたんですが、おかげでわがままに育ちました(笑)。

 祖父は、学校の行事も、母をさしおいてオレが行く、と張り切って参加。校内では名物おじいちゃんでした。ものづくりが大好きで、図工を手伝ってくれたり、海に行けば、漁師が使う地引き網を自分で編んでみたり、貝殻を一緒に拾ってくれたりと、まるで父親のようでした。私に寂しさを感じさせないようにと、いろいろ気を遣ってくれていたようです。

 小学1年のころはまだ私の髪には金髪が残っていましたが、近辺に外国人が住んでいましたし学校でも外国人はいたし、そう意地悪はされずにすみました。先生方も配慮してくださったと思います。
 

高校生で資生堂のCMデビュー。当時は大変な騒ぎに

バレエを習い始めた小学4年生のころ

バレエを習い始めた小学4年生のころ

 小学4年のとき、レッスンに通う友人がいてクラシックバレエに憧れたんです。でも母にお月謝の負担はかけられない。何度も見学に通ううちに、先生が声をかけてくださり、それで始めることに。先生は、分け隔てなく子どもに接してくださる、とってもいい先生でした。いいところのお嬢さんであろうが関係ない、レッスンを真面目にする子はちゃんと褒めるし、厳しく教えてくださる。だから、雨が降っても嵐でも決して休まずにレッスンに通いました。小さいころから、1つのことにのめり込む性質なんです。

 中学生くらいから、外国の映画を見始めるように。大好きだった『ウエスト・サイド・ストーリー』は、次に上映される町まではるばる出かけるくらい夢中になりました。女性が男役を演じる宝塚歌劇にはあまり憧れず、男性の力強い部分もちゃんと表現されていた「日劇ダンシングチーム」に憧れましたね。男性にエスコートされる踊りが好きでしたね。ませていたんでしょうね(笑)。

 高校生のときにご縁があって芸能プロダクションに所属することになり、「堀内完ユニークバレエ団」に通いました。私は身長が高いからクラシックより、ジャズを少し勉強した方がいいと言われたんですが、クラシック一筋でと突っぱねました。後々になって、あの時にやっておけばよかった、と後悔することになるんですけどね(笑)。

 高校2年の時に、資生堂のCM出演が決まりましたが、突然決まり、あっという間に自分が世間に露出してしまったという感じでした。いつの間にかハワイ行きの飛行機に乗っていて、撮影して帰ってきたら、もうあちこちに自分のポスターが貼られ、このモデルは誰だと大騒ぎになっていたんです。

歌と踊りのレビューショーが私の仕事の基礎を作ってくれた

48歳のとき。母と父と、アメリカにて

48歳のとき。母と父と、アメリカにて

 結婚を決めたのは、高校のころです。このハワイロケが縁で彼(マイク真木氏)と知り合い、お互いにすぐに惹かれ合いました。

 結婚後は完全に引退するつもりでした。というのも、それまで祖父母が守ってくれたおかげで、父親が外国人であることを切実に辛いと思ったことはなかったのに、この業界の人たちは皆口さがなくて、それまで言われたことのなかった「混血」とか「合いの子」なんて言葉を平気で使うし、肉体的なことばかりを取り上げるんです。資生堂のデビューポスターが水着だったために、取材はなんでも「水着で」とリクエストされるのがとっても嫌で。もう嫌だ、好きな人と一緒にいたい、と。結婚してすぐにハワイに脱出。アメリカで旅をしながら1年半暮らしました。

 仕事をやめることにしたもう1つの理由は、日本では自分が興味を持ったミュージカルの仕事が全くできなかったこと。そのころ日本にはミュージカルは定着しておらず、ストーリーはなく歌とダンスだけのレビューのお仕事だけ。ホテルのディナーショーや日劇の舞台がせいぜいでした。でも1日に3〜4回行うこのレビューの仕事がミュージカルをやる基礎をつくってくれたと思います。ただ、レビューを観てくださるお客さまからは、「衣装がきれいね」「今度何の歌を歌うの」そんな感想ばかりで、自分の満足感には結びつかなかったんです。

 

学生時代に受けた“喝采”が忘れられず、29歳でミュージカルオーディションを

初舞台『ノー・ストリングス』(提供:東宝演劇部) 舞台『アプローズ』(撮影/小安勇次)

初舞台『ノー・ストリングス』(提供:東宝演劇部)

舞台『アプローズ』(撮影/小安勇次)

 私のミュージカルデビュー作品は、雪村いづみさん主演の『ノー・ストリングス』。これは当時のマネジャーが、私の知らないうちに応募し、受かった役でした。だから思い入れはそうなかったし、そのころまでは、実はミュージカルに対しての熱意は強くなかった。それが強くなったのは結婚し家庭に入ってからですね。踊ることがなにより好きな人間が家庭に入っちゃって、私これでいいんだろうかと思い始めたんです。

 バレエの発表会や中学ダンス部の発表会、そうした場でお客さまからもらうアプローズ(喝采)の興奮が心に残り、ずっと忘れられなくて。それが家庭に入ると一切ないことが寂しくて、だったらやるしかない、と。離婚後、アプローズが受けられる世界に戻ることを決めました。

 復帰後29歳のとき、劇団四季の『コーラスライン』のオーディションを受けました。名前は知られているが、踊りや歌がまだまだと言われ落とされたんですが、3カ月稽古させてくださいと食い下がりました。

 何とかそれを認めてもらえましたが、演出の浅利先生に、15分で落ちていなくなる役でもやるかと問われました。「3カ月練習して結局オーディションに落ちていなくなっちゃう役なの?」と一瞬思ったけれど、すぐに「やります」と答えました。どうやら試されていたようで、その即答ぶりに「この子は根性がある、じゃあやらせてみよう」と。

 一番苦労したのが、ジャズっぽい動きが入ったダンス。帰宅後、エレベーターの前の踊り場や屋上、少しのスペースを見つけては自主練。1日8時間は練習しないと、ついていけなかった。なぜそこまで頑張れたか、それはその作品が自分の生い立ちに近かったからでした。私の役は、父母が離婚して辛い日々のなかバレエが支えだったという女の子。「私の人生で一番楽しかったのはクラシックバレエを踊っていたとき」という台詞、そして切ない幼児体験を持っていた点も同じ。まさに私だ、と深く思い入れられた。

 だからこそ、この役を演じきれないともうあとがない、これでダメだったら自分の道を考え直さなきゃと、そんな切羽詰まった気持ちもありました。

 舞台の基礎的なことはこの時にみっちり教わりました。声がよく通るようにもなったし、この時に得たものは今でも私の宝です。

 5年連続で出演したこの作品は大当りし、そのころは私も舞台の魅力に完全にはまっていました。

 客演3年目に劇団四季のご厚意で、越路吹雪さんが演じられた『アプローズ』と、『日曜はダメよ』の2本をやらせていただきました。でも大スターを演じる『アプローズ』は、自分が若すぎて納得がいく作品にできなかった。その時の悔しい思いがずっと尾を引き、その27年後に再演させていただき、さらにこれで初めて賞をいただきました。

 ミュージカルの魅力は、題材が暗くてもうまく料理できるところ。一番いい例が『レ・ミゼラブル』。あのままお芝居したら暗すぎるお話で終わっちゃうんですが、いいメロディーが入ると上手に見せられる。最近は、ブロードウェイ版の楽しいだけのものではなく、ウエストエンド版の大掛かりな装置で楽しませるというタイプもある。幅が広がってるから、より観客のすそ野も広がったと思います。

 

喜劇ができる役者を目指して

舞台『ジョセフィン 虹を夢見て』

舞台『ジョセフィン 虹を夢見て』

 でも最近は、お芝居の方に興味が出てきました。

 最近では、平幹二朗さんが演じる『王女メディア』は素晴らしかった。まず年齢をまったく感じさせないし、艶女のような少女のような母親のような、1人の女性のさまざまな顔を演じられていて、同じ役者としてこんな芝居ができたらな、と嫉妬しました。

 役者としては、これから「喜劇のできる」役者になりたいんです。『アイ・ラブ・ルーシー』のルシール・ボールみたいな。ドタバタ的なものをやりたいですね。最近はコミカルな役のオファーもいただくんですが、もともと私にそういう要素があるんでしょうね。お芝居で、ジョセフィン・ベーカーを演じたんですが、恥ずかしいとより目になっちゃうようなコケティッシュな女性で、彼女を演じてから、喜劇を、と思うようになりましたね。

バラエティー出演のきっかけは、孫が発した一言

前田 美波里さん

 最近はバラエティー番組の出演も多いんですが、これにはきっかけがありまして。孫の面倒を見ているとき、息子(真木蔵人氏)が出演した昔のドラマ映像を見せたんです。そしたら「パパかっこいい」って、孫が目をキラキラさせるんです。その反応を見て、「あれ、私は孫に見せてあげられるもの、記録として残る映像が何もないぞ」と思ったんです。

 前の事務所は舞台優先で、一旦舞台の仕事を受けると地方公演も入るし、テレビのお仕事は入れづらいんです。一度それでお断りすると再オファーも来づらくなるし。それで、後々孫に見せられるよう今の自分のテレビ映像を残そう、と事務所を変わりました。

 でも笑わせるのって、本当に難しいと思う。テレビのお仕事では出演者全員知らない人ばかりで緊張しっぱなし。1人でも知ってる人がいると収録現場でもかなり安心して喋れるんですが。バラエティーなどでは今までのイメージとのギャップが面白がられているようだけど、まだその部分を自分で楽しむというところまではいかなくて。こわがりだから、周りの若い役者さんたちに相談して、周りのアドバイスを聞きながら少しずつ踏み出しています。

 プライベートでは、6〜7年前から温泉にはまっていて、月に一度は行かないと気が済まないほど。あれこれ旅の計画を練るのも楽しいですね。

 もう一つのこだわりは、エゴスキューという方が考案した体操で、毎日やってます。日々の生活習慣で生じるゆがみを正してインナーマッスルを鍛えるというもの。1クール40分ほどかけてやりますが、朝早いときとか特別な場合を除いては、毎日やってます。目がシャッキリさめるしお腹も空く。全然面倒じゃないですよ。1日の始まりに脳を動かすためのウオーミングアップだと思えばいいんです。

 今後は年齢に合った役をやり続けたい。自分から何かを発信するのではなく、要求されたら応えられるような役者でいたいんです。オファーが来たらまずは断らない。

 せっかく私にオファーしてくださるんだから、とにかくやってみよう、そんな気持ちを持って、この年齢でお仕事がある、そのことにいつも感謝して、取り組んでいます。
(東京都中央区・銀座のホテルの一室にて取材)


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