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277号 注目の人 歌手/伊東 ゆかりさん

歌は、気持ちに寄り添ってくれる“誰の人生にも必要”なもの。
伊東 ゆかり/歌手
Profile

伊東 ゆかり/歌手
1947年生まれ。東京都出身。1958年キングレコードより『クワイ河マーチ』でデビュー。1963年中尾ミエ、園まりとともにテレビ番組『スパークショー』で「3人娘」としてトリオを組み、人気者に。2005年1月、中尾ミエ、園まりと40年ぶりに「3人娘」を再結成し、コンサートを全国展開。2007年4〜6月、『伊東ゆかりメモリアル・コンサート〜60カラットの愛の歌〜』を、有楽町朝日ホールをはじめ関東地方を中心に開催。12月、「第49回日本レコード大賞企画賞」を受賞。


歌い始めたのは6歳のとき

進駐軍で歌い始めた6歳のころ

進駐軍で歌い始めた6歳のころ

 来年で歌手生活60周年を迎えます。私に歌うきっかけを与えてくれたのは、父でした。ミュージシャンだった私の父はバンドでベースを弾き、進駐軍で演奏していました。母は、私が5歳のときにはもうおらず、父が弟と私の面倒をみてくれていました。

 6歳のころ、父のバンドをバックに東京の聖路加国際病院で歌ったのが、最初の歌の記憶です。私の歌う姿をみて、バンドのマネージャーが「この子はいける」と思ったらしく、それ以来、進駐軍で歌うようになりました。

 進駐軍訪問には、子どもや奥さんを国に残してきた兵士たちを慰労するための「子ども枠」というものがありました。私はその子ども枠に入れられ、キャンプに行くと4曲ほど歌うんです。私を見て家族を思い出し、目を潤ませる兵士たちがたくさんいました。米国人は感情表現が豊かだから、歌い終わると、がばっと抱きつかれて、びっくりして泣きだしたこともありました。

 私は、東海林太郎さんのように棒のように突っ立ったまま、笑いもしないで歌うから「ノースマイル」のあだ名がついていました(笑)。弘田三枝子さんも同じころに歌っていたんですが、彼女は情感たっぷり。私とは対照的でしたね。
 

父が亡くなる間際に言った一度きりの褒め言葉

 そもそも、幼いころの私は、笑わないし人としゃべらない、表情のない子でした。そんな私を父が心配し、歌を歌えば表情も出てくるんじゃないか、と思ったらしいんです。

 父が教えてくれる歌は、英語の歌。キャンプの中にある店から、アメリカで流行ったレコードを買ってきて家で1日中かけている。わざわざ壁を白く塗り、そこに英語の歌詞を墨汁で書いて「これを覚えろ」と。トイレにまで書かれてました(笑)。ラジオも「FEN」という英語で放送されるものしか聴いてはいけなくて、NHKに勝手に替えると怒られてました。

 実際は皆の前で歌うのが嫌でしょうがなくて。アイスやコーラ、ハンバーガー、普段なら買えないそうしたものに釣られて歌っていたようなもの。

 父が亡くなったのは平成6年でした。父は私の歌を褒めてくれる人ではなく、私には文句しか言わなかったから絶対にコンサートには呼びませんでしたが。でも、こっそり観に来ていたようです。

 父が亡くなる間際、ようやく「お前もよく働いてくれたな、感謝するよ」と言ってくれました。それが一度きりの褒め言葉でした。

 沖縄出身でしたが、娘たちがいるところがいいと沖縄を離れ新たに戸籍を作ったのです。でも亡くなったら「自分の遺灰を沖縄の海に撒いてくれ」と。その遺言がまだ果たせていないのが大きな気がかりですね。

ゆかりは扱いづらい、事務所からはそう思われていた

 結局、6歳から11歳まで進駐軍通い。その後、レコード会社のオーディションを受けましたが、江利チエミさんが引退した時期だったこともあり、第2の江利チエミということで、キングレコードからデビューが決まりました。

 父も私も干支がイノシシでお互い一歩も引かないから、ケンカばっかり。デビューが決まったときに渡辺プロの社長が、この親子は離したほうがいいと社長の家に私を住まわせました。中2のころで、そこで一緒だったのが中尾ミエさん。

 社長の家はまるで不夜城。毎晩遅くに人が訪ねてきて麻雀が始まるんです。ミエさんはお客さんたちと一緒に麻雀してたくらい物おじしない、私はお客さんにお茶を出したらすぐに引っこんじゃう。それで「ゆかりは暗い、愛想がない」と。事務所からは扱いづらい子だと思われていました。

 芸能人だから、本当ならそういう場面で愛想良くして、顔を売らなきゃいけないのに、それができないんですね。今でもパーティとか人がたくさん集まるような場所は苦手です。

 

「3人娘」時代は毎日のように先生に呼び出されて

「3人娘」でのステージ。中学生のころ。左から中尾さん、伊東さん、園さん

「3人娘」でのステージ。中学生のころ。左から中尾さん、伊東さん、園さん

 デビュー後間もなく、中尾ミエさん、園まりさんと組んだ「3人娘」。スパークショーという、テレビ番組で私たち3人がホステスを務めていてそう呼ばれるようになりました。

 当時私はまだ中学生で、学校では毎日のように教員室に呼び出されてお説教。尻を振って踊るツイストなどけしからん、と。仕事だからと言うと「あなたの仕事は学生でしょ!」と怒られる。だから、目立つことを避け、本番になるとカメラから外れるように端っこのほうに移動していたのです。

 そうしたら局の人に「ホステスだからちゃんと写らないとまずい、どういうことだ」なんて文句を言われてね。でも、嫌だなとは思いながらも、結局学校の言うことも仕事先の言うこともちゃんと聞いていた私は、3人のなかでも、良い子、真面目、優等生、そんなレッテルが貼られていました。そのレッテルに自分を合わせなきゃ、と縛られていたときもあり、それは20代まで続きました。

 その反動で、随分とはじけたこともやりましたね。こうしようと決めたら思いきったこともやっちゃうんです。昭和43年、『小指の想い出』がヒットしたころ、ディスコに超ミニを履いて毎日のように通ってたことも。でも、そんな場所に行っても、「あのゆかりがこんなところに来てるの?!」と驚かれて、事務所にもすぐにばれてしまったんです。

 

結婚引退後すぐに、ある事情で仕事復帰の羽目に

1977年、歌番組『サウンドインS』出演時。松崎しげるさん、世良譲さん、タイムファイブの皆さんと共に

1977年、歌番組『サウンドインS』出演時。松崎しげるさん、世良譲さん、タイムファイブの皆さんと共に

 結婚も、その思い切りの1つでしょうか。24歳のときでしたが、そのころもまだ、歌うことは楽しいと思えなくて。だから、結婚すれば歌がやめられると思ったんです。

 思っていた通り、結婚して歌をやめてからは楽しい日々が続いていましたが、ある日、差し押さえの紙が来たんです。原因は父。翌年に納めるべき税金のことなど頭になく、私のギャラは支えてくれているスタッフたちのために、打ち上げで全部使ってしまっていたんです。で、その税金の未払いが何年分かたまって、その請求が新婚の私の元に、どーんと来た。

 それを納めるために、一時的に仕事復帰。キャバレーで1年間歌ってそのお金を返しました。だけどそれが終わってみると、「仕事っていいな」と思えていたんですよね(笑)。そこからまた活動が始まってしまいました。それがなかったら、きっと子育てに専念していたでしょうね。

 主人と、仕事も子育ても両立すると約束して始めたけれど、歌を覚えることに一生懸命になっちゃうと、子どものことは忘れちゃう。結局両立はできませんでした。

 お客さんは、生活の煩わしさから逃れようと華やかなステージを観に来てくださる。「つけまつ毛をつけたら、家庭の臭いなんか一切させちゃいけない、出しちゃいけない」、そう言われて育ちましたから、両立は難しかった。でも、そのときでもまだ歌うことが好き、とは思えなかったんですね。

自分に自信がついてから歌うことがどんどん楽しくなった

ジャズバンドをバックに歌う

ジャズバンドをバックに歌う

 歌が楽しいと思えるようになったのは、ここ10年くらい。そのころは、自分で何か変えたいとは思うけれど、どう変えたらいいのかが分からない。

 そんなとき、2001年にお受けした、クルーズ船・飛鳥Ⅱでのステージのお仕事が変わるきっかけになりました。ホノルルから横浜まで10日間周航、お客さんとその間ずっと一緒で、共同生活をしているようなもの。最初はすごく嫌で、お風呂は誰もいない深夜の時間帯を見計らって入ってました。

 最初はお風呂で声をかけられても、ハイって下を向いて答えていたのが、毎日になるとだんだん慣れてきて、顔を上げてお話しできるようになったんですね。それで、ステージのときに、お風呂でおなじみになったそのお客さんに「あら、裸のお付き合いの方ですね」と声をかけたんです。

 言った瞬間は「あ、こんなこと言っちゃってまずかったかな」と。でもそれで、お客さんが大笑いしてくれたの。台本じゃない、アドリブでのしゃべりで笑ってくれたと、すごく自信がついたんです。「ゆかりさん、おしゃべりいけるじゃないですか」ってクルースタッフにも言われたりして、うれしかったですね。

 このことがあってから、自分がどんどん変わっていったんです。まるで重い鎧兜(よろいかぶと)が脱げたようなかんじ。高い場所で歌うステージとは違って、ライブの仕事はお客さんと距離が近い。それまでは、お客さんに声をかけるのが嫌だったのに、むしろそれが楽しくなった。

 周囲の評価も随分変わりました。「ゆかりさんってよくしゃべるね、表情がすごく出てきた、明るくなった」と言われるようになったし、「歌うことが楽しい」とようやく言えるようになりました。私が楽しく歌えばお客さんも楽しいんだと。

 でもね、「僕はゆかりさんの寂しげな様子が好きだったのに、最近は明るくなってしまってつまんない」っておっしゃるファンの方もいるの(笑)。

復活させた「3人娘」は、このままずっと続けたい

「3人娘」揃って、米作りで新潟県山古志村復興のお手伝いを。左から伊東さん、中尾さん、園さん

「3人娘」揃って、米作りで新潟県山古志村復興のお手伝いを。左から伊東さん、中尾さん、園さん

 今は、40年ぶりに復活させた「3人娘」の活動が楽しいです。歌のジャンルが違うから、と渋っていたまりさんを、数年越しでようやく説得してステージを始めてからは、まりさんもノリノリで。まりさんが入ってからは男性のお客さんがぐっと増えました(笑)。

 ミエさんは絶対に弱い部分をみせないし、弱音も吐かない。そうした部分は感心していますが、でも疲れたら疲れたって言ってもいいのにね、とまりさんと2人で話してるんです。私たち2人はすぐに、疲れたって言っちゃう性格だから(笑)。

 昨年、声帯にできたポリープを取る手術をしたのですが、手術後は、ステージでサポートしてくれたりと、2人の存在が本当にありがたかった。でもそれはお互いさまで、誰かの調子が悪かったらその分あとのメンバーで補っていきたいと思っています。

 誰か1人が欠けるまで、これからも3人娘で活動していきたい。あと10年は大丈夫でしょう。最初から10年と考えると辛いから、まず5年、それが過ぎたらまたさらに5年っていう風に頑張っていきたい。

一時的に聴覚を失い、音の素晴らしさというものを再認識

伊東 ゆかりさん

 私も65歳を迎え、年金の受け取り手続きや、60代から入れるケアハウスの広告なんかを目にしたりすると、今まで他人事だと思っていたのに自分もそんな歳になったんだな?と、ちょっとガックリ。そんな事実の積み重ねで、自分の年齢を自覚するという感じです。

 これからは、あれもしたいこれもしたい、という強い思いはないですね。大きな病気を経験したこともあり、健康で歌を歌っていければそれで十分。調子が悪いときはそれなりに、無理をしないでやっていきたい。

 あとは、日本がもっと元気になってくれれば、と思います。音楽を聴かなくても生きてはいけます。でも生活に直接関係のない音楽というものを、聴ける余裕が出てくるといいなと思うんです。音楽はぜいたく品のように思われているけれど、「必要なもの」であり、生活に寄り添って、気持ちをなごませてくれるものだとも思います。

 私は一時、鼓膜が破れ、音が聴こえなくなったんです。聴覚が戻った直後は、普段はうるさいと思っていた街の騒音が新鮮に聞こえ、音は素晴らしいなと思えたんです。その感激は今でもはっきりと覚えています。実は10年前から韓流文化にはまっていて、パク・ヨンハさんの音楽を車の中で聴くと、落ち着きます。

 来年は、歌い始めて60周年という節目の年。50年かけてようやく歌うことが好きになった私です。これからも楽しく歌い続けていければと思います。
(東京都港区の事務所にて取材)


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