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274号 注目の人 女優/仁科 亜季子さん

「天職」と思えたほど、子育てが楽しかった
仁科 亜季子/女優
Profile

仁科 亜季子/女優
1953年歌舞伎俳優10代目・岩井半四郎の次女として生まれる。1972年学習院女子高等科卒業後、NHKドラマ『白鳥の歌なんか聞こえない』でデビュー。その後約6年間NHK大河ドラマなどで、清純派女優として活躍。1979年~1998年の芸能活動休止を経て、2000年本格的に女優業を再開。近年では、自身の経験をもとに、がん治療に関する講演を行うなど、幅広い活動を行っている。


「瞬間湯沸かし器」というあだ名のあった父

3歳のころ。ショートヘアでまるで男の子のようだった

3歳のころ。ショートヘアでまるで男の子のようだった

 私が生まれたのは東京・四谷。父親は、歌舞伎俳優10代目・岩井半四郎、母は松竹歌劇団の女優・月城彰子で、4人きょうだいの次女です。父は昨年の12月25日、クリスマスの夜に天国に旅立ちましたが、寂しがり屋の父だったから、皆が忘れないこの日を選んだんじゃないか、そう家族と話しました。母は2年前に旅立ちましたが、あの大震災のちょうど1年前、3月11日という、家族だけでなく日本中の皆さんの記憶に残る日に亡くなりました。

 幼いころから舞台に上がっていた父は、とにかく声が大きかったんですが、くしゃみも3連発、5連発と、威勢がいい(笑)。だから、玄関の扉を開くまでもなく、家の前の通りで父が帰ってきたのが分かるんです。2つ上の姉と1つ下の弟、それに私と、いつも3人でお団子のようにかたまっていましたが、幼いころは、父が私たちに踊りの稽古をつけていました。それが父の帰宅後、9時10時になってもお稽古をすることがあるんです。だから、通りで父のくしゃみが聞こえると、「あ、はやく寝たふりしなきゃ!」って(笑)。

 父は典型的な江戸っ子で、かわいくておっちょこちょいだし、せっかち。でも「瞬間湯沸かし器」というあだ名があるくらい、叱る時には突然大きな声を出す、それがとても怖かった。その怒りを一番まともに受けていたのは、私だったかも。要領が良く愛想のある姉と、かわいくて泣き虫の弟の真ん中で、小さいころの写真もほとんど笑った顔がないんです。
 

母は、父からのラブレターを大切に保存

 父と母は大恋愛だったそうです。松竹の合同公演で出会い、父が一目ぼれ。父は母より7つ下で、父が22歳の時に結婚。その年齢差もあってか、父が母に頼ってたような印象でしたし、実際に、母は縁の下の力持ちで父を支え続けていました。ぜいたくもしないし、慎ましい暮らしを心掛けた人でした。父は母のことをずっと「ママちゃん」と呼んで。亡くなった後に母のたんすを整理してたら、「ママちゃんへ」と書かれた、セピア色に変わった父からのラブレターがたくさん出てきたんです(笑)。結婚前から結婚後のものまで。内容は、日常のちょっとしたことをつづったようなものでしたが。

おてんばだった幼少時代

 小さいころ、私はおてんばでした。弟と一緒にチャンバラごっこや木登りで外を駆け回っていて、冬でも真っ黒け。セミ取りなんかも大得意でしたね。体育はずっと「5」だったし、スカートなんて持ってなかったかもしれない。弟と私2人とも真ん丸だったので、「おせんべい姉弟」なんて呼ばれてました。

 そのくせ、変に臆病なところもあるんです。中学に入りバレー部に入部しましたが、部活後の時間には、辺りがすっかり暗くなってる。そうすると、帰る途中にある公園が怖くてしょうがなくて、それで退部。

 

「子育て」が天職

 私が10歳のときに、3人のきょうだいたちから歳が離れた妹が生まれました。私は昔から子どもが大好きでしたから、うれしくてうれしくて妹の面倒をよくみていました。まだ妹のへその緒もついてるうちからお風呂にも入れていました。周りからは「乳母」と呼ばれるほどで、自分の子どもたちを授かったときは、「子育て」が自分の天職だと思っていたくらいでした。

 自分の子育てを振り返っても、実家に里帰りして子どもの世話を頼んだことも、子どもを預けたこともない。下の子どもの出産の際に1週間だけ上の子を預かってもらった時と、がんで入院した時に2人を1カ月間サマースクールに入れましたが、わが子を自分の手から離したのはその間だけ。「自分の時間を持ちたい」というお母さんが時々いらっしゃいます。確かに赤ちゃんの世話はとても大変ですが、実はその考え方自体がよく理解できないんです。私は、子どもと一緒にいるだけでとにかく楽しかったから、子どもといる時間が「自分の時間」でもありました。

 

「つ」がつく間は親に全責任がある

踊りで初舞台を踏んだ3歳のころ

踊りで初舞台を踏んだ3歳のころ

 子育てに関しては、父の教えが頭にありましたね。「八つ」「九つ」と、子どもの年齢に「つ」がつく間は親に全責任がある、でも10歳になったら、人間として同じ目線で理解できる年ごろになるんだから、ちゃんと1人の人間として接しろ。そういう教えでした。私が実際にそれを実践できていたかは、ちょっと疑問ですけど。

 子どもに手をあげることもありましたよ。新聞紙を丸めてひっぱたいたり。子どもはかわいがるだけではなくて、必要と思ったらちゃんとぶつ。でも、ぶったあとに抱きしめてあげることが必要。片方の手は子どもの手をしっかりと握ってあげた状態でぶつとか、親からの愛情を伝えながらであれば、子どもにトラウマを与えることもないと思ってます。

 子どもたちにとって、小さいときは頼りがいがある親だったとは思うけど、今は関係性が逆転してるかんじ。「超天然」だと子どもによく言われます。日本テレビの番組に出演した時に日テレの楽屋の窓から外のビルを眺めながら「日テレのビルってどこなんだっけ?」。周りはシーン(笑)。冷蔵庫の前で、何を取り出すんだっけ?って開けっ放しにしてると娘に後ろからぼそっと「とりあえず閉めてから考えれば?」って言われます。こんなエピソードは数え上げればきりがないほど(笑)。


デビュー前には、猛特訓を受けました

長男・克基さん4歳、長女・仁美さん2歳

長男・克基さん4歳、長女・仁美さん2歳

 デビューのきっかけは、高校3年のときで、『文藝春秋』の中の「父と娘」という巻末グラビアへの出演。それをご覧になったNHKの方が声をかけてくださいました。そして、庄司薫さん原作のドラマのオーディションを受けることになりました。

 母は、父のお弟子さんたちが私たち子どもを特別扱いするのを嫌がっていた。とにかく普通の子として育てたかったようです。姉の岩井友見は早くから女優をしていましたが、弟は歌舞伎は継がずに薬剤師の道へ。私も、芸能界でのお仕事などそれまでまったく考えていませんでしたし、今考えると不謹慎だったとは思いますが、社会勉強をかねて少しの間、この世界をのぞいてみようかなというくらいの気持ちでした。

 役者の家に育ったとはいえ、私はずぶの素人。演技の勉強もしていないし、撮影に入る前にしばらく特訓を受けました。そのころ、「冷凍の金魚」って言われてたんです。カチンカチンで、口だけがパクパク動いていたから(笑)。芝居が楽しいというよりは、「現場」が楽しかった。このお仕事をきっかけに次々に仕事をいただくことになりました。女優という仕事にそうがむしゃらに進む気持ちはなかったのですが、元来負けず嫌いだったし、ひとつひとつの仕事には責任感を持って取り組んでいました。

 ただ、子どものころの夢は「お嫁さんになること」だった私は、父母と同じように大恋愛の末、25歳のときに結婚。同時に芸能界を引退。2人の子どもにも恵まれ、すべての愛情を注ぎ子どもたちを育ててきましたし、幸せな家庭を築くことに邁進していました。

想像以上の辛さだった子宮頸がん治療

21年前、子宮頸がんで入院していたころ。娘の仁美さんは6歳

21年前、子宮頸がんで入院していたころ。娘の仁美さんは6歳

 私は自分の苦い経験をもとに、いろいろな場所で子宮頸がん予防の大切さをお伝えしています。

 21年前に、子宮頸がんであることが判明しました。食中毒でかかりつけの内科に行ったのがきっかけ。そのころまだ30代でしたが「更年期障害」が気になっていて、「そろそろ始まりますか?」と聞いたところ、出産以降検診も受けていなかったし、検査を受けてみたらと勧められ、偶然に子宮頸がんを発見していただきました。人間の個性と同じ、がん細胞にも顔と性格があるらしいのですが、私のがん細胞はひねくれ者だったらしく、そのときに見つからなかったら2年くらいの命だったかもしれないと後で言われ、本当にぞっとする思いをしました。

 まさか、日々元気に過ごしてる自分ががんになるなんて、思ってもいませんでしたし、「死」とは無関係のところにいると思っていたんです。

 子どもたちのことも知ってる総看護師長がカーテンの陰で鼻をすすってる、それを耳にしたとき、「ああこれは大変なことなのか」と、はじめて、がん=死ということが頭をかすめました。告知後、どうにか自分の車までたどり着き、病院の駐車場で2時間涙が止まりませんでした。自分が死ぬ恐怖より、そのあとに残された子どもたちのことが気がかりで。子どもたちがいたから、私はがんに立ち向かえたのだと思います。

 長期にわたる治療は想像以上の辛さでした。でも私にとっては治療の苦しさもさることながら、まだ6歳と8歳の子どもたちと一緒に生活できないことが何より辛かった。そのころは、子どもたちから届く手紙が闘病の活力源でした。

子宮頸がんは撲滅できるがんです

2005年の誕生日に2人の子どもと

2005年の誕生日に2人の子どもと

 退院後は転移の心配や不安で2年間は肉体的にも精神的にも、かなり辛い思いをしました。「完治」という言葉は残念ながら、がんにはないと思います。後遺症も含め、一生付き合わなければいけないもの。1度がんになったら前の生活には絶対に戻れないんです。

 私自身は、子宮、卵巣、リンパ節を摘出しました。真夏でも寒くて震え、電気毛布が必需品、かと思うと、服を絞れるくらい汗をかいたり。リンパ浮腫で脚がむくんで、自分のつま先がみえないくらい膨れましたし、地中から引っ張られるような重くだるい感じで、まっすぐ立つことすら難しかった。

 放射線治療を何度も繰り返したので、皮膚が軽いやけどのようになり、表皮が剥離してくる。この20年の間には、放射線治療の影響で腸壁がむくんだり、手術後の腸の癒着で腸が細くなってしまったり、腸閉塞も何度も起こしました。病院にかけこみそのまま入院。絶食を余儀なくされることを繰り返していました。今も半年に1度は検査です。

 今、子宮頸がんは20代30代の女性にとても多いんです。検診とワクチンは必ず受けてほしい。誰しもそうですが、健康なときはなかなか自分の体に目を向けない。「自分は絶対に平気。だったら検診は無駄」と言う。でもそれは間違ってます。検診を受けて何も見つからなければそれはとてもラッキーだし、そのことが分かるだけでもいいんです。無駄ってことは絶対にない。子宮頸がんの検診は非常にシンプルで比較的お金もかからない。がんにかかってしまったら、一生涯びくびくしながら後遺症と付き合わなきゃいけない、それって損じゃないですか?肉体的、精神的、金額的負担は本当に大きい。

 11歳から14歳の若いうちにワクチンを打っていれば70%というかなり高い確率で予防ができる。その後、20歳になったらちゃんと検診を受けていれば、子宮頸がんは必ず防げるがんですし、撲滅できるがんだとも思います。

 だから私が自分の経験をもとに子宮頸がん予防の必要性をお話することは意味があることだと思うし、私の役目だと思います。

PPKを目指して

仁科 亜季子さん

 最近、人生のパートナーと巡り合うことができましたが、これは老後の保険に新しく入ったみたいだと2人で冗談を言ってます(笑)。子どもに迷惑をかけたくないので、老後は女性同士でもいいから誰か一緒にいれば安心だと思っていたので。

 PPK=ぴんぴんころり、を目指してますね。子どもたちには、「気持ちの準備ができないから、せめて1週間くらいは看病させてほしい」って言われたけど、うれしい反面、「たった1週間だけ?」って思いましたけどね(笑)。

(東京港区の事務所にて取材)


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