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255号 注目の人 映画監督・プロデューサー/松井 久子さん

「運命を受容しプラスに転化する 女性たちの秘めたる力」
松井 久子/映画監督・プロデューサー
Profile

松井 久子/映画監督・プロデューサー
1946年岐阜県生まれ。東京深川育ち。
早稲田大学文学部卒業後、雑誌の編集ライター、俳優のマネジメントを経てテレビの企画制作会社を設立。
優れたドラマ、ドキュメンタリーを多く手がけ、1998年公開の『ユキエ』で映画初監督。社会現象になった『折り梅』(2002年)を経て3作目となる『レオニー』は11 月20日(土)、角川シネマ新宿ほか全国ロードショー。


もう一本だけ、映画を


『レオニー』の撮影風景。中央が松井さん
の息子である伊藤勇気プロデューサー

 『レオニー』は、『ユキエ』『折り梅』に続く私の3本目の映画です。レオニーというのは世界的な彫刻家、イサム・ノグチの母親の名前。晩年のイサムに「ぼくは母の想像力の落とし子」と言わしめた女性です。ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ』という本で、初めて彼女の存在を知りました。私の2本目の映画『折り梅』の上映会で高松を訪れ、たまたま立ち寄ったイサム・ノグチ庭園美術館のショップでこの本を手に取ったんです。そのとき「どうしてもこの女性を映画に撮りたい」と思ったの。「もう一本だけ、映画を」と。

 もともと私は映画監督になろうと思っていたわけではないんです。前作『折り梅』を撮り終えたときも、もう私の映画はこれっきりで、次の映画を撮ることなんてないだろうと考えていました。

50歳で監督デビュー

 私が初めての映画『ユキエ』を撮ったのは50歳のとき。シナリオを書いてくださった映画監督の新藤兼人さんに「監督も」とお願いしに行ったとき、「これはあなたの映画ですよ。自分で撮らないでどうする」と言われて、それじゃやってみようか、という気になったんです。これはアルツハイマー病に侵された日本人の妻とアメリカ人の夫との愛情を描いた作品でした。映画制作で1番大変なのはお金集めですが、『ユキエ』はアメリカでのロケだったし、私には映画監督という仕事が初めてですから、なかなか現場のスタッフの信頼が得られず苦労を味わいました。人心掌握術というか、自分が揺らいでいると、人もついてこない。

 『ユキエ』を撮り終わってこれで映画は終わり、と思っていましたが、『ユキエ』の上映会の観客の方から一冊の本を手渡されました。『忘れても、しあわせ』という介護の日記をまとめた本です。それを読んで、あと一本だけ撮りたいと思いました。認知症の義母と彼女を世話する嫁。介護を通して再生していく家族の物語です。それが『折り梅』。認知症という病を通して、生きるとは何か、人間とは何か、家族とは何かということを『ユキエ』のときよりさらに深めて描けると思ったのです。

100万人の『折り梅』

 『折り梅』は今、多くの人に関心の高い認知症がテーマでしたから、自主上映というかたちで公開から2年で100万人の方に観ていただきました。この映画はテレビ局や広告代理店と組んで作る今のメジャーな日本映画とは作り方も流通の仕方も異なりますから、マスコミにもあまり取り上げられず、映画業界からも評価されず、お客さまたちだけが支持してくださった作品と言えます。

 『ユキエ』『折り梅』と映画を2本撮って2本ともかなりの数のお客さまに観てもらえたのに、相変わらず映画界からは無視されたままの存在でした。きっと男性監督なら「次は何を?」なんていう話も来るでしょうけど、私にはそういう誘いはまったくなかった。だからもう2度と監督はできないと思っていました。

『レオニー』に賭けたい


アメリカ・ニューオーリンズの現場にて
(右が主演のエミリー・モーティマー)

 レオニー。この女性を映画にしたら、きっとまた観てくださる方がたくさんいるはず、と思いました。『ユキエ』から『折り梅』に行くときもそうでした。私の拠りどころは、私が考えていること、伝えたいことを受け入れてくださる方々が絶対にいるんだという観客への信頼感。それは2本の映画を作った経験から得たものですね。

 また「福祉映画の松井」とか、「介護映画の監督」と言われることへの「それは違う」という思いもありましたね。それに2本ともローバジェット映画で、もちろんそれは内容にふさわしいものだったけれど、撮った舞台はいずれも小さな家のダイニングキッチンまわり。もうちょっと映画らしい映画も撮ってみたいな、と。

 もうひとつ、『レオニー』は日米合作作品なんですが、海外の市場で観てもらえる日本映画を、という野心もありました。もし世界で観てもらえれば、制作費をもっとかけて映画らしい作品を作ることができる。その点レオニーは格好の題材だし、『ユキエ』でアメリカのスタッフと一緒に働いた経験もあったので、向こうで映画を作ることが怖くもなかった。「これが最後と思って、この話に賭けてみたいな」と思ったんです。思ったけれど、実現するまでこれほど大変になるとは思いませんでしたね。原作を手に取ったのが2003年3月のことですから、完成まで7年もかかった。でもこれだけ長い時間がかかったからこそ、現場で揺るがない自分でいることができましたね。そうじゃないとハッタリもかませない(笑)。

出発点は雑誌ライター


雑誌ライター時代 新人の頃の俳優・三浦友和さんと

 早稲田大学の演劇科を卒業して小さな劇団をやっていたとき、雑誌のライターの仕事を始めました。『週刊平凡』の編集部にいた大学時代の同級生が、「割りのいいアルバイトがあるよ」と声をかけてくれたんです。人気女優さんなんかが自慢料理を紹介する記事なんだけど、実は毎回私が登場人物の顔を思い浮かべながらメニューやテーブルセッティングまで考えて、ご本人には後で顔写真をもらいに行くだけ。料理は得意だったし、楽しかったですよ。当時は女性のライターは少なくて、この連載を入り口に、特にデビューしたての俳優さんたちをよく取材するようになりました。当時の雑誌は、テレビ局や映画会社と私たちとが一緒になって育てようという気風があった時代です。『レオニー』に出ていただいた中村雅俊さんもそのときからのご縁。雅俊さん、草刈正雄さん、水谷豊さん、三浦友和さん…、そういうお付き合いの中に荻島眞一さんも。彼は劇団四季から独立してテレビの仕事をしたいからとマネジャーを探していたの。「やってみない?」「じゃあ勉強してみようかな」とライターからマネジャー業に転身しました。

 ライター稼業で会いたい人とはほとんど会ってしまったし、このまま雅俊さんや荻島さんと一緒にいても私の仕事はいつも「外側」で作品の内容には関われない。もうちょっと作る側のインサイドに入っていきたいと思ったんです。でもすぐに、マネジャーも外側だってことが分かりましたけどね。

何か作るインサイドへ


マネジャー時代。
松井さんの事務所所属の荻島眞一さん高橋惠子さんと

 テレビの制作会社を作ってプロデュース業を始めたのが39歳のとき。書くことは好きだし、ドラマの企画書を40枚から60枚の原稿用紙に書いては持ち歩き、マネジャーとして知り合ったテレビのプロデューサーに「こういうドラマやりません?」と。結構それが実現するんですね。それでもらえた企画料がたった 5万円だったりして、なんとも効率が悪い。人に「そんなに自分で考えた企画が通るんだったら、制作会社を作って全部請け負ってやった方がいい」ってアドバイスされてその気になった。マネジャーの仕事は、どうも自分の性に合わなかった。だから制作会社を始めたときは、これを一生の仕事にしようと思いましたね。

 『ユキエ』の原作になる小説『寂寥郊野』に出会ったときも、私はプロデューサーですから、異色のテレビドラマになるんじゃないか、NHKならこういうドラマを作ってくれるんじゃないかと企画を持ち歩いたのが始まりで、自分で監督することになるとは思いもしませんでした。

娘時代は良妻賢母が夢


下町の夏祭り。母の店の前で
(下段左が6歳頃の松井さん)

 私が生まれたのは、両親が戦争で疎開していた岐阜の飛騨の山の奥。戦争が終わって1年後のことでした。2歳になって家族で東京に戻り、今はすっかり変わってしまったけれど、豊洲で大学1年までを過ごしました。銀座や門前仲町が近いのでバスに乗って出かけたものです。

 父はサラリーマンですが、芸能好きな人で、私が小さいころからよく歌舞伎に連れて行ってくれたり、浅草の国際劇場でSKD(松竹歌劇団)のレビューとか美空ひばりの映画、東映の時代劇なんかもよく観ました。花やしきでも遊びましたね。家族でよく出かける一家でした。私の初めての洋画体験は、銀座で父に連れられて観たダニー・ケイとビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』。今になって思えば、そういう体験が私には大きかったかもしれませんね。


息子の伊藤勇気さん(3歳のころ)と。身内の結婚式にて

 家族構成は姉、私、妹、弟。お嬢様で育てられた姉や日本舞踊を習っていた妹なんかに比べると、私は区立の中学から都立の高校へ進んで、お勉強一辺倒。全然お金がかからない娘でした(笑)。

 下町のご近所さんを相手に、パンとちょっとしたお惣菜を売る小さなお店を母がやってたんですよ。ですから家庭内のことはおばあちゃんから、お行儀から料理までなんでも習いました。お味噌汁を作るのに鰹節を削ることから…。教えられたっていうんじゃなく、手伝うのが当たり前だったから、なんでも自然に覚えましたね。向田邦子さんが描いたあの世界の最後の世代が、私たちじゃないかしら。娘時代の目標は「良妻賢母」。夫に尽くしながら、たくさんの子どもに囲まれて働く「商人のおかみさん」が私の未来像でした。

女性には力がある

 早稲田時代の同級生と早々に結婚して27歳で息子を産んで、子育てしながら雑誌の仕事を続けて、33歳で別れました。忙しすぎたんですね。夫に尽くしていたつもりでしたし、当時の私には「女らしさ」の美学のようなものがあって、最終決断はすべて夫に委ねてきたんです。だから、離婚することになって、1番怖かったのは、これからはなんでも自分で決めなくちゃなんないんだっていうことでしたね。


   それから後の私の人生…。10年ごとに仕事を変わり、3本の映画を撮った私の人生とは、日本女性のDNAの中に深く組み込まれている「依存心」を克服する歴史だったんです。でも今は、他人にどう思われようが、自分が夢中になれることをやる、それが私の生き方のスタンス。どんな人の人生にもさまざまな不幸はあるものだけど、女性にはそれを受容してプラスに転化して生きていく力がある…。それは私がここまで生きてきて学んだこと。『折り梅』の主人公に私が重ねたものであり、『レオニー』に託したメッセージです。60代になって晴れて宣言します(笑)。「自分の人生は自分で決めるべきです。自分で決断するのって気持ちいいよ」って。

(東京都千代田区 角川映画株式会社にて取材)



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