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250号 注目の人 スペイン舞踊家/小松原 庸子さん

「人が生きる素晴らしさを伝えたい。フラメンコと歩んだ私の長い道」
小松原 庸子/スペイン舞踊家
Profile

小松原 庸子/スペイン舞踊家
東京柳橋の邦楽一家に生まれ、5歳で日本舞踊の初舞台を踏む。兄は俳優の菅原謙次。
スペインでのフラメンコ修行を経て1969年、小松原庸子スペイン舞踊団を結成。世界各国で公演を続けている。
スペインのイサベル・ラ・カトリカ勲章をはじめ数多くの賞でその創造性と功績を讃えられている。


フラメンコとの衝撃的な出合い。そして単身スペインへ

 私が初めてスペインに渡ったのは1962年のことです。当時、日本にフラメンコを教えてくれる人などいない。ですからスペインに行くしかなかったんですね。

 私にとってフラメンコとの出合いは衝撃でした。来日したピラール・ロペスさんが率いる舞踊団の公演を見て、その美しさとドラマ性に圧倒されました。そこには、人間が生きていくことそのものが表現されていると思ったのです。

 当時の私は演劇を志していて、自分たちで作った劇団で活動していました。ちょうど安保闘争のころで、演劇も政治と積極的に関わっていた時代です。毎日のようにデモ、デモでへとへとでした。雨の中アメリカ大使館の前に座り込んで熱を出したり。でもこういう行動より、もっと人間の本質を表現できるものが何かないだろうかと思っていたところでした。そんなときにフラメンコと出合ったのです。

 どうしてもこの踊りを学びたいと、スペイン行きを決めたとき、実は私、もう結婚もしていたんです。夫と私の兄と、二人で行っておいでよと勧めてくれました。彼は絵描きで、兄は俳優の菅原謙次です。私たち、3人で一緒に暮らしていたんです。

 それまで日本舞踊、バレエと勉強していましたが、当時の私は30歳。この歳からスペインに勉強に行くなんて…。そういうところは、無鉄砲なんですね。自分がこれをやりたいと思ったら、歳だとか、大変だとか、思わない。何かをやろうと思いたったら、まず行動ありき、の人間なんです。

常磐津を子守唄に育った子ども時代


父と(4、5歳のころ)


兄妹で

 柳橋に住む邦楽一家に生まれました。父は常磐津の師匠で、常磐津が子守唄(笑)。私の面倒を見るのは祖母の係で、常磐津や長唄も祖母から教わりました。日本舞踊から始まって、芸事の世界に自然に入りましたね。

 父は邦楽の人なのにモダンでおしゃれな人でした。仕事がないときはさっそうとした洋装で、自慢のライカで撮った写真を自分で作った暗室で現像したり。母も銀座に行くときはハイヒール、浅草ならお着物。いわゆるモボとモガでした。

 兄は跡取りということでとても厳しく育てられましたが、私は放任。わがままでおてんばに育ちましたね。いつもいつも兄と一緒で、兄なしではいられない子でした。兄は俳優になりましたが、「これからの俳優は歌と踊りができないといけない」と言って、私も兄と一緒にバレエを習い始めたんです。このときバレエで踊りの基礎を徹底的に学んだことが、フラメンコをやる上でも役に立ちましたね。

 邦楽の家に育ったことは本当に良かったと思います。門前の小僧と言いますが、芸の世界の奥深さや磨き方が自然に身に付いた。芸事って、すべてのことに通じるものがあるんです。芸術というと偉そうになりますが、いい意味での芸人根性というか、職人芸を極めた名人というのは、人に喜んでもらうことを至上の願いとしていますよね。そこに計算やテクニックを超えた、生き方みたいなものが滲み出してくる。フラメンコもまったく同じ。演歌にも通じる、ダイレクトに人の情念に訴えるものもあるんですよ。

 父は三味線弾きですが、ケレン味を嫌った人でした。上手さをひけらかすのが嫌いなんです。今になって、父の稽古ぶりは私のお手本だと思いますね。

世界一周のつもりが、フラメンコにのめり込んで


BETY先生と稽古の合間

 いろんな外国の様子を見たいという気持ちもあって、最初は半年ぐらいの予定でヨーロッパをまわり、スペインで踊りを習ったらアメリカに寄って帰ってくるという世界一周のチケットでマドリードに向かいました。

 私はスペイン語なんてできないし、むこうにも英語が話せる先生なんていない。困りましたね。日本大使館がたいへん親切で、少しは英語の分かる先生を紹介していただいて、踊りを習い始めると同時にスペイン語の学校にも通い始めました。

 だんだんに勉強していくと、フラメンコというのは、振りは覚えられるんだけど、難しいのはリズムなんです。リズムを把握して、自分がリズムを作り出していくことが何よりも大変なことで、フラメンコのリズムをわずか半年で学ぶなんて、とてもとても。結局、スペイン出発を延期して勉強を続け、アメリカ行きもキャンセルして、フラメンコにのめり込んでいったんです。

 ようやく帰国したのは2年後。「そんなに帰ってこないんなら、もうお金も送らないよ」って彼と兄に言われて、しょうがなく。そこまで十数曲を習い、覚えていたんですが、そのレパートリーでリサイタルを開きました。今思えば恥ずかしいような踊りだけれど、どうしても表現してみたかった。

 これが超満員になったんですね。新聞、雑誌にも取り上げられ、褒めちぎられたんですよ。当の私は、もうそれが居ても立ってもいられなくて…。どうしてこんな踊りが褒められるんだろうって。フラメンコ歴2年なんて、まだまだ初歩ですからね。

 それでもう1回、スペインへ行くんだ、と心に決めました。今度はその結果、長くスペインに居つくことになり、結局、彼とも離婚してしまうことになりました。もしあのとき褒められていなかったら、再びスペインに行くことはなかったかもしれませんね。

帰国から1年も経たずに、再びスペインへ


帰国第1回リサイタル楽屋にて兄、菅原謙次と

 今度は南のセビリアというところ。そこに脚が悪いけれど、フラメンコの名人と呼ばれる人がいると聞いて、あるタブラオを訪ねました。タブラオとはフラメンコの舞台がある居酒屋やレストランのことです。

 夜も更けて大勢のダンサーたちが踊りを終えると、ワインを飲みながらそれを見ていた小柄なちょっと太ったおじさんが、少し脚をひきずりながら舞台に上がってギター奏者にリャマーダ(合図)をなさった。彼が手を宙に掲げ、脚をポンと打ってこちらを振り返ったその瞬間は、今も忘れられませんね。彼がその名人、エンリケ・エル・コホさんでした。われも忘れて彼の踊りに見入り、踊りが終わるとその場で、私は弟子入りを願い出たんです。「明日から来ていいよ」と先生はおっしゃってくださいました。

 エンリケ先生の稽古というのは、くたびれも何もしないんですよ。ああしろ、こうしろはいっさいおっしゃらない。ご自分が踊って、「ヨーコ、やってごらん」と。私の踊りを黙って見ていらして、終わると、ここはこうした方がいいんじゃない?とか、これを入れた方がいいね、とか。まったく自由に、感情のおもむくまま、その人らしさを出すような教え方です。フラメンコとは形式ではなく心だな、と、先生からしみじみ学びましたね。

 セビリアではプルポンさんという芸能マネージャーの知遇も得て、いよいよスペインの舞踊団で踊るチャンスをつかむこともできました。フラメンコを今日までに育てた方です。そういえば外国人が現地の舞踊団に入って踊るなんて、当時はありませんでしたね。

意地悪されたからこそ学んだこともある


 でもスペインでの最初の仕事は、私も、タブラオから始めたんですよ。お稽古をつけてもらう立場だったときはみんなにかわいがられたけれど、いったん中に入ってライバルになると、意地悪されるんです。そっぽ向いて全然違う手拍子をされたり、お客さんには分からないけれど、私には分かるような、あからさまにイヤな合いの手を入れられたり。「お前の足が雷みたいに鳴ってるぞ」とか、意地悪言われたり。

 ですからこちらも負けてはいられない。イサベル・ロメロという1番偉い踊り手のおばさんを手なづけて、「私は自分でやりたいようにやる、あなたは私についてこい、と言えるようにならなければ」と教えられました。そうやって、だんだん自信を付けていったんです。スペイン人のすごい上手な男のダンサーをパートナーにしたことがあって、私への拍手が大きいと、困らせようとしてタイミング通りに出てこないなんてこともありましたよ。それでも訓練して心構えしているから私は動じない。意地悪されたからこそ、学んだこともあるわけです。

 2度目のスペインでは、彼がしびれを切らして日本から迎えにやってきました。でもこうしてスペインで仕事をするようになっていましたから、「私は帰らない、残る」と。しばらくして、一人帰国した彼から「日本に帰るか、それとも別れるか」と言ってきました。生真面目な人でしたからね。兄が電話で烈火のごとく怒りましたが、それでも私はスペインに残りました。話し合いをして、離婚して、二人で住んでいた家を整理して…。それからずっと、半年に1度か2度、日本に帰って弟子に教えてはまたスペインに戻って、という生活が長く続くことになりました。

生きる実感を伝えるフラメンコを未来に伝えたい


舞踊団創立前1966~7年ころ

 帰国後、スペイン舞踊研究所を経て、小松原庸子スペイン舞踊団を69年に作り、日本やスペイン本国だけでなく、アメリカ、アジア、南米など世界のあちこちで見ていただくことができました。毎年、日比谷野外音楽堂で開催してきた「真夏の夜のフラメンコ」も今年で40回です。これは、スペインでもフラメンコ、オペラやバレエまで呼んで楽しむ夏のフェスティバルがあって、日本のみなさんにもあの楽しさを味わっていただきたいと思って続けてきたんですよ。

 今、40周年を終えて、「恩師に贈る」という舞台を作りたいなと思っています。フラメンコが、スペイン舞踊が、先生たちから私へ、私から舞踊団へと未来に引き継がれている、ということを伝えたい。

 自分の来た道を振り返ると、苦労したなんて自分ではちっとも思っていませんけれど、私たちの生きてきた時代というのは、戦争ですべてを失い、また戦後にはいろんなものが次々と入ってきて、生きていくことそのものが大変でした。不幸といえば不幸な時代であったかもしれないけれど、それでも好きな踊りを踊れる幸せ、生きているという実感を肌で感じることができた時代でしたね。むしろすべてがそろって整えられている今のほうが、生きる実感をつかむのが難しいのかもしれません。しかし表現する者にとって、生きる実感こそ命。私の教室ではもちろんテクニックも徹底的に教えますが、技術を超えて、人が生きることを全身で表現できるアーティストをいかに育てるか、それが今からの私の課題。これまでは私自身も常に踊り手でしたから、教師としてみたらまだ駆け出しですが。

(杉並区高円寺の舞踏研究所にて取材)



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