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244号 注目の人 認定NPO法人スペシャルオリンピックス日本 名誉会長/細川 佳代子さん

「すべての人を包み込む(インクルージョン)、あたたかい社会を作りたい~今はその種まきですね」
細川 佳代子/認定NPO法人スペシャルオリンピックス日本 名誉会長
Profile

細川 佳代子/認定NPO法人スペシャルオリンピックス日本 名誉会長
1942年旧満州生まれ。翌年日本に帰国し、神奈川県鵠沼で育つ。
66年上智大学英文科卒。卒業後、日本企業の欧州駐在員として勤務。
71年細川護煕氏と結婚し、一男二女の母となる。
94年「スペシャルオリンピックス日本」、「世界の子どもにワクチンを」日本委員会設立。
日本各地で、スペシャルオリンピックスの理念を広げるための啓蒙活動を行う一方、NPO法人「勇気の翼インクルージョン2015」理事長として、障害者の支援活動にも力を入れている。
著書「花も花なれ、人も人なれ~ボランティアの私~」(角川書店)


目の前のことに一生懸命取り組んできただけなんです

 私が初めて「スペシャルオリンピックス」のことを知ったのは、1991年。たまたま目にした新聞記事がきっかけでした。スペシャルオリンピックスというのは、パラリンピックと混同されがちですが、知的発達障害のある人の自立と社会参加を日常的なスポーツ活動を通して応援する国際的な組織のこと。以来、日本にその活動を浸透させるべく奔走してきましたが、今や全国にネットワークも広がり、18年前とは隔世の感があるほど、障害のある人に対する社会の視線も変わってきた気がします。

 でも、特別に障害者のためにと気負っていたわけでもなく、単純に楽しいことが大好きで、楽しくなるにはまず人を喜ばせること。そう思って目の前のことに一生懸命取り組んできただけなんです。今までの人生を振り返ると、常にベストを尽くすというのが私の性格なんでしょうね。何かやろうと思ったら、手抜きをしないで、ない知恵を絞って全力で突き進む。

 ほかの人もみんなそうだと思っていたら、そうでもなくて、私が普通ではないんだわって、このごろ気付いたの(笑)。

波乗りで磨かれたチャレンジ精神


鵠沼海岸の近くの公園で毎日遊んでいたころ。小学校2年生くらい。右が細川さん

 子どものころから、よく母に言われました。「あなたは生まれながらのボランィアね」って。人生最初のボランティアは、まだ歩き始める前のころ、お隣に住んでいた老夫婦への慰問活動。毎朝隣の家までハイハイをして、重度のリウマチで寝たきりだったおばあさんの寝床にもぐりこむ。介護や家事に明け暮れていたおじいさんにとっても、私の訪問は何よりの楽しみだったらしく、両親もそんな私を毎朝にこにこと見守っていました。

 もともと役人だった父の仕事の関係で、満州で生まれ、私が1歳のときに日本に帰国。そのまま終戦を迎え、間一髪でシベリア抑留を逃れた父は、満州から引き上げる人々や、シベリアに抑留された人たちを支援する活動などに走り回り、困っている人を喜んで支援するというのが、わが家にとって当たり前の雰囲気でした。両親そろって大らかで誰でも受け入れる。家族が喧嘩したりいがみ合ったりした記憶もないですね。家族はそういうものだと思っていたから、友達の複雑な家庭問題の悩みなどを聞くと、すごくびっくりしたものでした。

 父の希望で、小学校から高校までミッションスクールに通い、「愛と奉仕」の精神を学びました。小学校のころから、リーダーシップをとることが多く、いつもみんなのまとめ役だった私は、どうしたらみんなが仲良くできるのかと考え、「他者のために、他者とともに生きる」という生き方が自然に身に付いていったんだと思います。

 神奈川の鵠沼海岸で育ち、泳ぐことも波乗りも大得意。手作りの板に乗って、どんな高波にも挑戦しました。さすがに女の子は私1人で、何度も死にそうになったけれど、このときの体験で、どんなことでも恐れず楽しんでしまう、チャレンジ精神が培われた気がします。

 大学を卒業後、知り合いの人の会社に勤め、初めての駐在員としてヨーロッパに派遣されることに。女性が1人で海外駐在するなんて、日本ではまだ前例がない時代のこと。その采配をした社長もユニークなら、すぐにOKした私も無謀としか思えない(笑)。商品の見本を手にヨーロッパを飛び回り、思いがけないハプニングにも見舞われて、まさに孤軍奮闘。ここでも私のチャレンジ精神が大いに発揮されました。

究極の殿様?の夫を支え、選挙運動にまい進


 細川(護煕元首相)との出会いは、大学のゴルフ部でした。当時私は女子部のキャプテン、先輩である彼は男子部のキャプテン。20歳のときにプロポーズされたんですけど、そのときは全然魅力を感じなくて。

 ところが、その7年後ローマで偶然再会することに。朝日新聞の記者として現場で鍛えられ、政治家を目指して苦労していた彼は、まるで別人のようにたくましくなっていたんです。親からは勘当同然に突き離され、選挙にも落選。「僕に1番必要なのは、君の元気と明るさです」という言葉に、「必要とされているなら役に立ちたい」と素直に思いボランティア結婚。でも、2人の結婚に周囲は反対。翌年、最年少で全国区の参議院に初当選し、2人だけで結婚式を挙げました。

 細川家は、私の生家とはまるで違う家風で、父子でもほとんど口を聞かない。私はピエロのように2人の間をとりもって。終戦とともに細川家の古いしきたりをすべて断ち切った両親は、「若いあなたたちはライフスタイルを自由に選びなさい」と言ってくれたんです。その代わりただ1つ、「先祖伝来の永青文庫のコレクションは国の宝だから、これだけは守ってほしい」と。

 結婚して6年後、細川は熊本地方区から参議院に出馬。東京生まれの細川にとって、熊本での選挙は地盤もなく、資金もないまったくゼロからのスタートでした。おまけに、選挙運動が苦手な彼に代わって、地盤作りは私がやるしかないと。1日100軒を目標に、熊本県内をくまなくあいさつに回りました。秘書を主人代わりにお仲人を務めたことも。日本新党を立ち上げた後の選挙は私にすべて任され、ほとんど候補者と同じ立場に。たまに本人が出席すると、「今日は細川佳代子の代理で来ました」なんて(笑)。まだ男尊女卑の古い文化が根強い地で、体験したことのないことばかり。でも、「よし、頑張ろう」と楽しんでましたね。

 もともと細川と私はタイプがまったく違っていて、私が動なら彼は静。私は何でも人に分けちゃうのに、彼は気に入ったものはすべて1人占め。人におもねることも嫌いだし、わが道をいく究極の殿様なんですね。旅行も一緒だと大名旅行になるので、私は1人安いチケットを買って別行動したり。最近は、湯河原と東京でそれぞれ自分のペースで生活しています。世話になったという気持ちがあるからでしょうか。今は私が何をしても文句は言わないし(笑)。たまに会うぐらいがちょうどいいですね。

冬季世界大会を長野に誘致、奇跡のドラマ


2008年スペシャルオリンピックス
日本冬季ナショナルゲーム・山形での体験プログラム参加者たちと 
写真提供:スペシャルオリンピックス日本

 そして94年、細川が総理を辞任し、私も晴れてフリーの身に。これからは本格的な社会活動ができる。そう思った私は、同年「スペシャルオリンピックス日本」と「世界の子どもにワクチンを」日本委員会を設立。実は私自身も政界入りを何度も勧められましたが、政治よりもNPOやNGOの活動で世の中を良くしたい、そう思ったんです。

 スペシャルオリンピックスの活動から学んだことは、本当にたくさんありました。知的障害のある人たちがさまざまなスポーツに挑戦するこの活動で、1番大切なことは、「人に勝つこと」より「昨日の自分に勝つこと」。性別、年齢別、能力レベルによって組み分けされて競い合い、全員が表彰台で表彰され、最後までベストを尽くした選手が勝利者、という理念。すべてが競争主義、利益第一という偏った価値観の世の中に、1人1人の努力と勇気を讃える。こういう価値観を広めることこそが大切だと痛感したのです。

 でも、日本ではまだまだ障害のある人に対しては無関心で、偏見が強く、メディアも障害者に関することには摩擦を恐れて取り上げようとしない。そういう中でスペシャルオリンピックスの認知度を高めるには、世界大会を日本に誘致するしかない、そう決心しました。

 そこで、2005年冬季世界大会の開催地として、長野で立候補を宣言。「無謀だ」と反対する役員たちを説得し、翌年開催地が長野に決定。でも、開催が決まってからが本当の正念場だったのです。

 長野の世界大会では、「500万人トーチラン」も企画。オリンピックと同様、ギリシャで採火された聖火リレーのことですが、恒例のリレーだけでなく、私は、障害のある人が主役となって聖火を持ち、一般市民の方が伴走し、1年間かけて日本全国各地で走るという前代未聞の大計画を提案したのです。まずオリジナルTシャツを作って寄付を集め、さらに全国を駆け巡って、各都道府県の行政、福祉団体、経済界、警察やマスコミなどありとあらゆるところに協力のお願いに回りました。1年間だけで、なんと移動距離は13万5000キロ。

 その上、開催1年前になってもまだ地元には世界大会のための運営組織もできず、このままでは開催できないのではないか、とさすがの私もまいりましたね。でも、長野の皆さんが名誉と誇りにかけて成功させようと、一生懸命になってくださって。更に、最終的には行政や経済界の支援のおかげで準備完了。

 そして、とうとう05年2月26日、世界中からアスリートたちが長野に集まり、アジア初のスペシャルオリンピックス冬季世界大会が開幕!ここに至るまで、数々の感動のドラマがありました。今思うと、本当によくできたなと思いますね。ほとんど私の強引さと熱意だけで引っ張ってきたけれど、成功したのはまさに奇跡。その奇跡が起きたことが不思議でしょうがないんです。

弱者を主役に~思いやりあふれる社会に


毎年ワクチンを届けているミャンマーの子どもたち


細川さんの手によりポリオワクチンを接種

 今、さまざまな活動を通じて、私が目指しているのは、誰1人排除されることなく、すべての人を「インクルード(包み込む)」社会を作ること。今まで障害のある人たちは、福祉という名のもとに隔離された枠の中で生きることを余儀なくされてきました。でも、知的障害のある人たちも周りのサポートや理解があって初めて自立でき、地域で暮らしていけるんです。彼らの純粋な笑顔に出会うと、本当に励まされるし、その純真な魂こそが傲慢な人間のおごりを正していく、大きな役割を彼らは持っていると感じます。だからこそ、彼らが地域社会の主役になって、みんなが優しさや思いやりを学べる社会にしたい。

 そのために、私はこの活動をもっと若者たちにも広めたいと思っているんです。今の若者たちは恵まれた状況に感謝することにも気付かず、ストレスを抱え孤独と不安に苦しんでいる。ボランティア活動を通して人の役に立ち、感謝される喜びが自信や自尊感情を育みます。真の人間力を高める感動の体験をたくさんさせてあげることが大切な教育だと思います。

 最近は、障害者との交流プログラムをカリキュラムに取り入れてくれる学校も、少しずつですが増えてきました。1番交流しやすいのはスポーツ。自分とかなり相違ある人と友達になり一緒にスポーツをするためには、知恵や工夫が必要です。このことが素晴らしい教育となり、障害者に対する偏見や誤解がなくなるだけでなく、意識や価値観の変化もみられます。その結果、人間力が高められていじめがなくなったり、子どもたちの目つき顔つきも変わりました。そういう動きが日本中に広がれば、私の夢も実現できると思うのですが、今はまだまだ種まき。やり続けるしかありませんね。

(東京都千代田区の事務所にて取材)



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