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240号 注目の人 衆議院議員/小池 百合子さん

「何事も現場主義ですね。現場を知っていると、説得力が違うんです」
小池 百合子/衆議院議員
Profile

小池 百合子/衆議院議員
1952年兵庫県生まれ。76年エジプト・カイロ大学社会学科卒業。
アラビア語通訳を務め、テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」メインキャスターなど、キャスターとして活躍。
92年、政治家に転身し、現在まで参議院議員1期、衆議院議員5期連続当選。
2003年9月環境大臣就任に加え、翌年内閣府特命担当大臣を兼務。
元内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)。
07年7月には女性初の防衛大臣を務める。クールビズの仕掛け人でもある。


これまでサポートしてくださった方々には心から感謝しています


昭和34年 バイオリン発表会
(小学校2年生のころ)

 「10年で日本を変える」を標榜し、キャスターから政治家に転身して早17年。その間、想定外のことばかりいろいろ重なって、自分が描いたロードマップ通りにはいかないものだなと実感しています。何しろ政治の世界は、1人の力では動かない。コツコツと支援者を集め、党内での足場を固めて…。個人の努力プラスアルファ、そのアルファの部分がバカでかい。でもだからこそ、やりがいがありますね。

 ここまで歩んでこられたのは、多くの人たちの支えがあったからこそ。人とのご縁というのは本当に大事だといつも思います。これまでサポートしてくださった方々には心から感謝しています。

「人と同じことをするな」 が母の教え


昭和40年ごろ ガールスカウト

 私の人生にとって、生まれ育った家庭環境の影響はとても大きかったと思います。父方の祖父は20世紀初頭、アメリカのシアトルに渡って貿易業を学び、神戸で会社を立ち上げました。そこからわが家の海外志向のDNAが始まり、父、私へと3代確実に受け継がれていますね。

 父は祖父の会社を受け継ぎ、石油製品などを扱う貿易会社を経営。中東や欧米などいつも世界中を飛び回り、「国家の基本はエネルギーだ」とまだ幼かった兄と私に世界戦略や天下国家を論じる。それが日常会話でしたから、ちょっと普通の家庭じゃない(笑)。

 子どものころの私は、とにかく元気でおてんば。兄の後にくっついてチャンバラごっこをしたり、いつも走り回っていました。小さいころから母には「結婚を目的にしないで、自立して生きていけるようになりなさい」と言い聞かされていました。さらに「人と同じことをするな」と。

 例えば、中学生のころ、流行っている洋服が欲しくて買おうとすると、「あなたには似合いません」と一言。「流行っているかどうかは関係ない。それよりも自分に似合うかどうかを選ぶ目安にしなさい。何が似合うか、自分で知らなくちゃダメよね」って。日本ではみんなと一緒なら安心という感じですけど、それに甘んじるな、あえて挑戦しろというのが小池家の空気でした。

 母はちょうど戦争のさなかに青春時代を過ごし、やりたいことが何もできなかったから、私には「何でも好きなことをしなさい」と言ってくれました。何かにチャレンジしようとすると、一番応援してくれたのも母ですね。

 私がカイロ大学に留学することを決めたときも両親に話すと、「それは面白い」ともろ手を挙げて大賛成。最初、母は東京の大学は遠すぎると言っていたのに、いったいどういう距離感なのか(笑)。

 多分、普通の親だったらとんでもない、って言うんでしょうけど。母は、私の留学中に訪れたカイロで、突然日本料理店を開くと言い出し、とうとう自分でやり遂げた人ですから、そのパイオニア精神は大いに学ばせてもらいました。

世界の火薬庫、中東で学んだ日々


昭和51年
カイロ大学卒業記念にピラミッド登頂

 カイロ大学に行こうと思い立ったのは、父親からいつも中東について嫌というほど聞かされていたことと、まず何より好奇心。当時から中東では戦争が絶えず、何となく血なまぐさいイメージでした。エジプトといっても、思い浮かぶのはピラミッドとかクレオパトラ。日本では中東の情報はほとんどなく、断片的にしか知らされていなかった。だったら、自分で行ってどんな国か確かめてみたい、エジプトで学んで、日本に伝える価値があると思ったんです。

 留学時代は、それこそ毎日が発見の日々でしたね。学生運動に巻き込まれて、催涙弾を投げられたり、第4次中東戦争も体験。最初は授業もチンプンカンプンだったアラビア語も一生懸命勉強し、石油取引の通訳や観光ガイドのアルバイトでなんとか生活していました。今、私が国家の安全保障や危機管理、エネルギーや環境問題など総合的な政策に取り組んでいるのも、この留学した5年間で学んだことが大きいですね。

 エジプトでアラビア語という特殊言語を身に付けたことも、私にとっては大きな武器になりました。日本語と英語、そこにアラビア語が加わることで、情報量は圧倒的に増えました。情報が増えることで、ものの見方も多面的に変わってくる。日本は、日本語というバリアーで守られていると同時に、実は見落としている情報がたくさんあるんです。最近、オバマ政権が誕生してから、ジャパン・パッシング(日本素通り)を懸念する声がありましたけど、アメリカが日本を無視するんじゃなくて、日本が柵の中に閉じ込もっているだけなんだと思いますね。

アラビア語を武器にキャスターへの道へ


平成2年
湾岸戦争による邦人人質を救出。
帰国特別機の機中で

 そのアラビア語を出発点に、キャスターへと進むわけですが、そのきっかけになったのが、リビアのカダフィ大佐の単独インタビューを成功させたことでした。留学時代、アラブの王様や大統領などの通訳もしていた関係で、コーディネート役を任されたのですが、現地で3週間ねばり、大佐だけでなく大佐の両親まで取材でき、世界的なスクープとなりました。

 それを機に、日本テレビ「竹村健一の世相講談」のアシスタント役を任され、その後「ワールドビジネスサテライト」の初代キャスターに抜擢されることに。東京・ロンドン・ニューヨークを結ぶ、経済情報番組。生放送でしたから、緊張感の連続でやりがいがありましたね。その当時私は、毎日変動する日経平均株価や為替、金利、石油価格など、毎日日記代わりに手帳に書いていました。そうすることで、自分の体温の変化を感じるように、経済情勢に対して、パッと反射的に反応できるようになったんです。91年の湾岸戦争では、アラビア語を駆使して現地で日本人の人質解放の交渉にもあたりました。

「誰もやらないなら、私が」で政界入り


平成6年 イラク観察。子どもたちと

 その番組にゲストとして細川護熙さんをお迎えしたことが、私にとって次なる大きな転機となりました。新党結成を宣言した細川さんから、後日「日本新党から出馬してほしい。無理なら誰か候補者を紹介してほしい」と頼まれたんです。友人に声を掛けてもすべて断られ、結局、悩んだ末に政治の世界に入ってみようと決心しました。

 キャスターから政治の世界へ、それまでの批判する側から、批判される側に立つことになったわけですが、人の批判ばかりしていても物事は動かない。それなら自分がやるしかない。そんな気持ちでしたね。

 日本の政治は、いわゆる政・官・財、3つのトライアングルが高度成長の1つの原動力でもあったんですが、その成功ストーリーが、かえって日本の次のステージへの転換を遅らせているのではないだろうか。それなら、そのトライアングルを壊すしかない。私はそう思って、ずっとやってきているんです。政界再編の荒波の真っ只中に身を置いていますが、私自身の公約、目標は最初の選挙のときからまったく同じ。基調は何も変わっていないですね。

 17年かけて、やろうとしたことがいまだに実現できていないのは、日本がそれだけスローだということ。今、1番日本に欠けているのはスピード感だと思うんです。例えば、空港や港湾施設の充実もまだ道半ば。ところが、中国ではあっという間に新しい道路や空港が造られている。民主的とは言えないまでも、スピード感不足では、日本は世界の変化に間に合わないと思いますね。

 私がずっと言い続けているのは、変えるべきところはさっさと変えましょう。ただし、守るべきことは断固として守りましょうと。変えるべきものは何かというと、世界競争の中で日本が居場所を確保するために必要な環境やインフラの整備。これらのことはスピーディーに改革をする。そして守るべきものは何かというと、まず平和。そして自然環境。歴史や伝統という日本の文化。守るべきものは徹底して守りましょうと。そういうメリハリが必要だと、常に申し上げているんです。

エコを体験、究極のエコハウスを作成中


 昨年9月のリーマン・ショックで、世界的な金融危機に陥っていますが、日本は金融危機もさることながら、円高という思わぬ伏兵に今大変苦慮しています。これはいうなれば、血液型がA型からO型に急に変わったようなもので、一気に体質改善しなくちゃいけないわけですね。また昨年は、前半は石油価格や食料品価格もうなぎ上りで、後半はまったく逆。山と谷を経験し、体脂肪率を減らすなど、あらゆる対策が今必要なときなんです。

 だからこそ、発想を変えるべきなんです。例えば、これまで何十年もかかった公共事業なども、この際、一気にやってしまうとか。これは内需拡大にもつながります。日本はこれまでアメリカという巨大マーケットや中国という新興市場など外需に頼り、その旺盛な購買欲に対して日本が品物を提供していたわけですが、今はそれがスローダウンしている。だったら、国内的な需要をつくらなくてはいけない。その1つの切り口が環境問題。

 私はずっと環境をテーマに、環境立国をと訴えてきたこともあって、実は今自分自身の家を究極のエコハウスにしようと、設計しているところなんです。よく太陽光発電や、地熱発電、燃料電池など耳にされると思いますが、私自身が実際にエコハウスを造って、住んでみる。それでどういう効果があるのかを私自身が感じて、皆さんにお伝えしようと。

 基本的なコンセプトは、家が発電所。CO2の排出がゼロ。ゴミの排出もゼロ、ゼロエミッションハウスを目指していきたい。そうやって、見える形にすれば、皆さん、興味を持ってくださるでしょうし。家というと、一生ものの大きな買い物なので、すぐにまねしましょうというわけにはいかないかもしれませんが、住宅産業は非常に裾野が広いので、経済の刺激には最も大きい効果があると思います。地元の練馬に建設しますが、秋口には完成できたらいいなと思っています。

 もう1つ。練馬は練馬大根の産地でもあるので、今とても農業に関心があるんです。ゆくゆくは、自分で練馬大根を育てて、お漬物でも作ろうかと。“ユリコ漬け”なんてブランドも作って(笑)。

 クールビズの仕掛けもそうですが、留学時代も、メディアの世界でも、何かしら工夫して、自分なりの切り口や努力の方法を見出して進んできた、その積み重ねが今の私につながっているんだと思います。何でもまず自分で動く、行動する。

 私は基本的には現場主義ですね。ガザが空爆されたと聞けば、すぐに飛んで行きますし。やはり現場を見て、状況をつかむことです。実際にやってみること。それが人を動かすのだと思います。人を説得するには、やはり現場を知らないと説得力が違うでしょう。これからもその主義で、走り回っていくんでしょうね。

 単なる貧乏性かもしれませんが…。

(東京都千代田区の衆議院会館にて取材)



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