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238号 注目の人 歌手/秋元 順子さん

「年を重ねることは宝物が増えること~長い熟成期間の蓄えが今実っています」
秋元 順子/歌手
Profile

秋元 順子/歌手
1947年東京生まれ。
ハワイアンバンドから歌手生活が始まり、スタンダードジャズやシャンソン、ラテン、ポップス、民謡、歌謡曲などジャンルを問わず幅広くライブ活動をする中、デビュー曲「マディソン郡の恋」と出合い、2004年4月インディーズで発売。この歌の評判が口コミで広がり、有線問い合わせランキングで連続1位となり、05年7月メジャーデビュー。
08年3rdシングル「愛のままで…」で、日本レコード大賞優秀作品賞受賞、NHK「紅白歌合戦」初出場最年長記録、09年オリコンランキング総合1位シングル最年長首位記録樹立。


ごく普通の主婦だった私がメジャーデビュー


昭和32年、10歳のとき
(左が秋元さん)

 昨年は、61歳最年長で「紅白」初出場。年が明けたら、オリコンランキング・シングル総合1位最年長と記録づくめでした。でも、私は年齢なんて全然気にしていないので、最年長と言われても誰のこと?って感じですけど(笑)。

 ごく普通の主婦だった私がメジャーデビューしたのは3年前、58歳のとき。ここまで認めていただけるようになるなんて、本当に夢のようですね。今まで私を支えてくれた家族や友人たち、そしてずっと歌をあきらめなかった自分への勲章をいただいたような気持ちです。

 「紅白」の本番で、歌う直前、司会の方が娘の手紙を読み上げてくださったんですけど、そんな演出になっているとは全く知らなくて。娘の言葉を聞いた途端、熱いものがこみ上げてきて、手紙の後半はほとんど耳に入っていませんでした。ダメ、ここで泣いたら私の歌がダメになる。グッとおなかに力を入れ、舞台の端から中央へ歩く間に涙を飲み込みました。よく、気持ちの切り替えが早くて男みたいって言われますけど、これが長年積み重ねてきた年の功なんでしょうか(笑)。

 さらに今年は、4月8日の東京を皮切りに、まず春ツアーとして25カ所のコンサートを予定しています。これまで応援してくださった皆さんの前で歌えるのが楽しみで、楽しみで。こんなに全国を回るのは初めてですが、なんとか健康で頑張りたいと思っています。

「いい声ね」の一言でコンプレックスを克服


 子どものころから歌手になろうなんて、考えていたわけではないんです。家のラジオからはいつも歌が流れていて、父は浪曲、母も民謡が大好きでしたから、歌うことが自然に好きになっていたんですね。でも、小さいころは、ハスキーな自分の声にコンプレックスを持っていたんです。

 東京・深川で生まれたのですが、産声があまりに低音なので「男の子かと思った」と母から聞かされました。その言葉を本当は男の子がほしかったんだ、と勘違いして一人傷付いていたんです。友達からは「ガラガラ声」とからかわれて、大好きな歌も人前では歌えない。

 そんなモヤモヤが晴れたのは小学校3年のときでした。音楽の授業で、毎回一人ずつ交代でみんなの前で歌うんですが、私は『月の砂漠』を歌ったんです。そしたら担任の先生が「とってもいい声ね」と褒めてくださって。友達もみんな拍手してくれました。それがものすごくうれしくて。やっぱり、子どもは褒めて育てないとダメですね。

 それからは180度転換しました。中学では英語の歌唱コンクールで優勝、高校では歌とセリフのオペレッタ「シンデレラ」で、憎らしい母親役を演じたこともあります。終わった後、廊下で後輩の子から「あの人、あの憎たらしい母親よ」なんて指をさされたことも。それは、役が成功したということだから、とってもうれしかった。

 男役と演出、衣装担当と3役こなしたこともありましたね。父親が紳士服の仕立て職人だったこともあって、小学生のころから自分で洋服を作っていましたから、衣装なんてお手のものだったのです。

結婚後、歌とは無縁の忙しい日々


昭和50年代、子どもたちと

 高校卒業後は、石油会社に就職。本当は幼少のころから憧れていた音楽の先生になりたいと思っていたんですけど、家計を助けてほしいという親の意向もありましたし、当時の風潮がそうでした。でも、音楽は捨てられなくて、会社のハワイアンバンドに入ったのです。ボーカルとして、ハワイアンだけでなく、ジャズやポップス民謡などいろんなジャンルの歌を歌っていました。そのうち、社内だけでなく、ほかの会社からも声がかかって大忙し。ある年のクリスマスには一晩でパーティーを4つもかけ持ちしたり。仕事のほうも残業が月60時間もあって、結局、倒れてしまったこともありました。

 そのころ、友達の紹介で生花店を営む男性と結婚、退社しました。結婚後もバンドは続けましたが、長女を妊娠してドレスが着られなくなり、バンド活動は休止。その後長男も生まれ、家事と生花店の手伝いで本当に目が回るような忙しさでした。朝早く仕入れに行く夫を送り出し、子どもを起こして学校に行かせて、お店に出る。配達の途中、スーパーで買い物をして家に戻って晩ごはんの下ごしらえをし、また店に戻って翌日の準備。子どもたちの参観日も、いつも最後に教室に入って、少し顔を出すぐらい。夜、家に帰ると、娘から「順子さん、今日の洋服、すごく派手だった」と怒られて。下町にある学校なので、普段着のお母さんが多い中、私は仕事の途中なのでビシッとスーツにスカーフも巻いて。ちょっと目立っていたようなのです。娘は小学校のころから私のことを「順子さん」と呼んでいて、まるで友達のような関係でしたね。

やっぱり歌うことはあきらめられない


アマチュア時代

 40代までの13~4年間、歌とは全く無縁の生活。でも、私は歌をあきらめたわけではない、ちょっと休んでいるだけだ、と自分に言い聞かせていたんです。そんなとき、昔のバンド仲間から電話があって、久しぶりに出掛けたんです。そこで「バンドを再結成するから、一緒にやろうよ」と誘われて。「今日だけでも歌って」とマイクを渡されて恐る恐る歌ったら、なんと声が出ちゃったんです! みんなびっくりして、「やっぱり、バンドをやろうよ」と。すぐに主人に電話したら「やってもいいよ」と。

 ただし、その後に「今までとすべて同じにできるなら」という厳しい条件付きでしたが…。それでも私はうれしくて「ありがとう」と電話を切ったのです。

 でも、それからがもう大変。夫の生花店も順調に業績を伸ばして従業員も使うようになっていましたし、それに加えてバンドのステージも月2~3回と回数が増えていきました。アマチュアなので、練習もしっかりしなければいけない。毎日、どうやって時間を節約するかを考え、要領良く家事の手を抜くことも覚えました。ときには、バンドをやめてしまおうかと思ったこともありましたが、「本当にやりたいんだったらやめちゃダメ。私も応援するから」という娘の言葉に励まされました。娘は料理などよく手伝ってくれましたね。

 そんなころ、「あなたの声はジャズ向きね」とある方に言われ、ジャズの本場を訪ねるツアーに参加することに。長年、頑張って働いてくれたご褒美に、と主人もOKしてくれました。ニューヨークとニューオリンズを2週間回ったのですが、ジャズを聴いて血が騒ぐのを感じました。これが私の求めていた音楽、ずっとアメリカにいたいと思ったほど。そして、熱いジャズへの想いを胸に帰国すると、すぐにチャンスが訪れました。同じツアーに参加していた方から「ライブハウスで歌ってみませんか」とお声がかかったのです。

 早速、本格的なボイストレーニングを始め、深夜には辞書を片手に英語の勉強。ジャズの歌詞にはスラングも多いので、本当の意味を理解しないと全く違う歌になってしまうのです。

奇跡のような出会いが重なって


歌手活動再開当時。ライブハウスにて

 そして、ジャズ歌手として遅咲きのスタートを切った私は、ライブハウスやホテルのラウンジなどで歌い始めました。でも、セミプロの世界は思った以上に厳しく、最初はお客さまが3人という日もありました。そんなとき、これはお客さまの声を聞くチャンスとばかりに「どんな歌が聞きたいですか?」「次はどうぞお友達と来てください」と話しかける。そうして、少しずつお客さまが増えていきました。

 このままジャズ歌手として歌い続けていくのかしら? そう思っていた私が友人の紹介で、作曲家・星桂三さんと出会ったのは、2004年のこと。オリジナル曲『マディソン郡の恋』をいただき、星さんとCDをインディーズの形で共同制作したのです。キャリーバッグにCDを詰め込んで、知り合いのクラブやカラオケバーなどを回って手売りしました。

 そのうち、有線放送で反響が広がり、6000枚のCDが完売したころ、レコード会社からお声をかけていただき、歌手としてメジャーデビューが決まったのです。さらに花岡さんに作詞・作曲していただいた『愛のままで…』が大きな花を咲かせ、おかげさまで多くの方々に知っていただくことができました。

 『愛のままで…』の歌の中に「この世に生まれ/巡り逢う奇跡/すべての偶然が/あなたへとつづく」という歌詞があるのですが、私の人生もこの通りだと今、つくづく思っています。もし歌をあきらめていたら、「巡り逢う奇跡」もなかったと思います。この世はすべて出会いですね。その出会いを大切にできるかどうか。ヨーロッパには、「幸運の神様の前髪をつかめ」という意味のことわざがありますが、ボーッとしているとチャンスをつかみ損ねてしまう。日々アンテナを磨き、奇跡も偶然のチャンスも、自分からつかむことが大切なんだと思います。

 50歳を過ぎたころ、ある方にこう言われました。「年を重ねるということは、宝物が増えること」そして、「自分が何を積み重ねてきたかで宝物の大きさが変わるの」と。その言葉を聞いて、年を重ねることがとても楽しみになりましたね。


2008年コンサートツアーにて

 私にとっては、メジャーデビューまでの長い潜伏期間(笑)、学んだことが今すべて実を結んでいる気がします。「あなたの歌は、ジャズやポップス、いろんなジャンルの音が聞こえる」と言われることが多いのですが、それも今までの集大成。ライブハウスで3人のお客さまの前で歌ったときと同じ気持ちで、これからも多くの方々の心に響く「愛」の歌を歌い続けたいと思っています。

 『愛のままで…』は、「熟年離婚防止ソング」などとも言われていますが、夫婦円満のコツは会話を多くすること。今でも夜少しでも時間があると、お酒を飲みながら夫と話す時間を大切にしています。おつまみも2、3品作って「居酒屋順子」の開店(笑)。

 今まで私の「信念」という名の「わがまま」をずっと陰で支えてくれた夫や子どもたち。紅白の後、「今まで頑張った甲斐があったね」と声をそろえてくれました。今後は海外コンサートも、と意気込む私に「飛べるだけ、飛んで」と娘。「そんなに飛んで大丈夫?」という私に、「飛ぶ鳥はいつか着地するのよ」ですって。  紅白の本番でこらえた涙が今ごろになってこみ上げてきました。

(東京都文京区のキングレコードで取材 )



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