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230号 注目の人 エッセイスト/斎藤 由香さん

「真っ当な人生はサラリーマンが1番!?~会社の中には面白いネタがいっぱい」
斎藤 由香/エッセイスト
Profile

斎藤 由香/エッセイスト
成城大学文芸学部国文科卒。祖父は歌人・斎藤茂吉、父は作家・北杜夫。
サントリー株式会社広報部を経て、現在健康食品事業部勤務。
週刊新潮にコラム「窓際OLトホホな朝ウフフな夜」連載中。
著書に『猛女とよばれた淑女―祖母・齋藤輝子の生き方』(新潮社)、『窓際OLトホホな朝ウフフな夜』『窓際OL会社はいつもてんやわんや』『窓際OL親と上司は選べない』(ともに新潮文庫)、『モタ先生と窓際OLの人づきあいがラクになる本』(集英社・斎藤茂太との共著)がある。


父の躁うつ病で一変した幸福な家庭

父がまだ穏やかなころ。
世田谷の自宅の庭で母と3人で

 
 

昭和42年頃に撮影した斎藤家の家族写真。
中央に座っている>祖母・輝子に寄り添う由香さん。
左端が父・北杜夫、右端が祖父・斎藤茂太

 今、日本人の3人に1人がうつ病と言われるほど、心の病が深刻化していますが、私の父(作家・北杜夫氏)が躁うつ病を発病した昭和40年代は、うつ病はあまり知られていなかったようです。

 私が幼稚園のころ、心を病む前の父はとても穏やかで優しい人でした。

 学習院育ちの祖母輝子(歌人・斎藤茂吉の妻)の影響で、母や私に対しても「ごきげんよう」と、物腰も言葉使いも丁寧で上品だったんです。

 商社マンの家に生まれ、結婚前はドイツで暮らしていた母は、料理も洋風が多く、「健康というのはバランスのいい食事が基本だから」という強い信念から、一人娘の私のために1日30品目の食事を作っていました。まさに今でいう食育ですが、緑黄色野菜やカルシウムをたっぷり、牛乳も朝昼晩必ず飲まされて。 

 母は季節の行事も大切にしていたので、クリスマスには庭のモミの木をツリーにして飾ったり、春にはヨモギを摘んでお団子を作ったり。虫が大好きな父と近くの公園を散歩するのも楽しいひとときでした。シュークリームやケーキも母の手作り、台所にはいつもバターの香りが漂っていて、お庭に出れば美しいバラの花々が咲き乱れ……。まさに絵に描いたような幸福な家庭でした。

 その暮らしぶりが一変したのは、私が小学校1年のときでした。

 夏休みが終わって軽井沢の別荘から帰った翌朝、食卓の上に父の字で「喜美子のバカ!喜美子が先に寝やがるからオレサマは蚊に喰われたじゃないか!」とマジックで大きく書かれた紙が置いてあって。

 あまりにも突然のことに、母も私も一体何が起きたのかまったく理解できませんでした(笑)。

 その日以来、父の躁状態はエスカレートし、夜中まで大きな音でテレビを見たり、食卓やベッドの上まで雑誌や新聞をまき散らし、食事中に突然浪曲を唸り出す。

 さらに「好き勝手に生活したいから家を出て行ってくれ」と母に宣言。母は私を連れて実家に避難し、私は電車で小学校に通う日々になりました。

 その後半年で家に帰ったものの、今度は父が映画を作りたいと言い出して、資金集めに銀行で株の売買を始めたんです。

 おかげであっという間に貯金が底をつき、母が「もう家にはお金がないからやめてください」と言うと、父は「喜美子なんて作家の妻として落第だ!阿川弘之さんの家を見ろ、遠藤周作さんの家を見ろ、うちよりもっとひどいんだぞ!」と。

 私は「うちよりひどい阿川佐和子さんの家はどんなにすごいんだろう?」なんて思っていました(笑)。

「面白いことをやらかす変なお父さん」

 父は、毎年、夏休みが終わる9月ごろから2カ月ほど躁病期が続き、一転してうつ病になると、夕方まで寝て一言もしゃべらず、食事もろくに食べない日々。出版社や新聞社から原稿依頼の電話がかかってくると、父は「今、うつ病なので原稿が書けません」と。そう言うと、皆さん「うつ病って何ですか?」って聞いてました。

 何しろ時代は、高度経済成長期。猛烈サラリーマンが出世競争にしのぎを削る時代ですから、うつ病なんて誰も知らない。父の言葉も、ただの言い訳だと思われていたようです。 

 躁病になると、「頭が熱いから」と濡れタオルを頭に巻き、興奮状態の父は、ある日、家の門の前に「当家の主人、発狂中!万人注意!」と大きな立て看板を出し、クラスメート全員が面白がって見に来たことも。

 私の小学校の運動会や卒業式にも父は一切興味がなく、家族で遊園地や海水浴に行ったことも1度もありませんでした。それでも、私は伸び伸びと育ち、いつも校庭を走り回ったり、近所の家の屋根を飛び移って遊んだり、生傷が絶えなかったようです。親から「勉強しなさい」と言われたことも1度もなく、そのツケが後で回ってくることになるのですが(笑)。

 私にとって父は「面白いことをやらかす変なお父さん」。躁病になると家がにぎやかになるのが楽しかったんですが、母は大変だったと思います。

 思えば、父の発病からもう40年ですから、よく離婚しなかったなと思いますが、きっと発病する前の穏やかで優しい父の面影を、母はずっと心に抱いていたのかもしれません。

憧れのOL生活で「マカ売り娘」に


昭和58年3月
祖母・輝子87歳の最後の海外旅行。
セイシェルでゾウガメに乗る祖母と父と3人で

 そんな父の姿をずっと見て育ち、母の苦労も分かり始めた私は、大学4年になり、「作家なんて最低の職業。人間が真っ当に生きるにはサラリーマンが1番だ」。そう思って就職活動に専念しました。そして何十社も見て回った末に、サントリーに入社。ところが、入社当日に、私は「部長と課長とどちらが偉いんですか?」なんて質問するダメ社員ぶりで(笑)。

 かくて始まったOL生活は、毎日が洗濯機に放り込まれたように忙しくて、そのうち結婚をして子どもも生まれ、楽しく面白い日々があっという間に過ぎていきました。

 そして、15年ほどたったあるとき、部長から「ユカは健康だけが取柄だから健康食品事業部に行ってもらう」と言われ、私は健康食品事業部に異動。「マカ」のPR担当になることに。突如、一流大学卒の理系の研究者ばかりの部署に異動になり、話もチンプンカンプン。最初は本当に大変でした。その上、その当時は万年赤字の部署で、まったく売れていなかったんです。

 ところが、ある記者の方に「うちにはいい精力剤があるんですよ」と冗談で何気なく言った一言で、スポーツ紙に大きく記事が載り、問い合わせが殺到。なんとその年「マカ」の売り上げが前年比6000%増になったんです!

「やってみなはれ」でコラムに初挑戦


2003年、ペルー4800mの高地にあるマカ畑にて。原料部の課長と

 私はうれしくなって、その記事を配りまくっていたら、「週刊新潮」の編集長からコラムを書いてほしいと頼まれて。私はてっきり父のことを書くものとばかり思っていたのに、依頼された内容は「精力剤コラム」(笑)。

 困り果てて部長に相談すると、「やったらエエやんか」とその場で即決。サントリーには「やってみなはれ」という社風があり、開高健さんや山口瞳さんがOBという、自由で懐が深い会社なんですよね。

 部長の判断で、社長にも人事部にも報告なしで連載が始まったんですが、ある日、このコラムを読んでいた社長が「この会社はアホな社員ばっかりで気の毒やな、大丈夫やろか」と。それを聞いた秘書の方が、「実はそれを書いているのはうちの会社の斎藤さんです」と伝えると、「エッ!これもうちの社員か。アホな社員ばかりでたまらんなあ、ワッハッハッハッ」と大笑いされたとか。

 そんな社長を筆頭に大らかな会社の中で、個性豊かな上司や同僚をネタにコラムを書き続けてもう7年目。「食べてばかりの胃袋部長」とか、「ケツの穴の小さい子ねずみ部長」とか、会社の中には、面白いネタがいっぱい。最近は「コラムに書かれたら大変」とばかりに、食事の誘いも減りましたけれど(笑)。 

 連載を本にまとめた「窓際OL」シリーズももう3冊目になり、読んでくださったOLの方々から「うちの会社と同じです」という反響をたくさんいただきます。まさしく、OLたちのダメ上司への怒りはすさまじいって感じですね(笑)。

 まさか自分がコラムを書くことになろうとは夢にも思ってなかったし、もちろん作家でもないので、読者の方から「面白かった」と言っていただくのが1番うれしいです。

「猛女」そのものの祖母・輝子の人生


2006年 ハワイの自転車競技センチュリーライドに参加し、120kmを完走

 今年の2月、歌人・斎藤茂吉の妻であり、祖母・輝子の気骨あふれる生涯をまとめた評伝「猛女とよばれた淑女」を上梓しました。

実は、私はつい最近まで父の本は一切読んだことがなかったのですが、この本を書くにあたって「楡家の人びと」を読み、斎藤家のことや祖母のこと、初めて知った事実がたくさんありました。  

 明治28年、青山脳病院のお嬢様として生まれた輝子は、豪胆な性格で関東大震災や東京大空襲もものともせず、夫とも仲が悪くて夫婦別居生活が12年もあったり、娘2人を病気で亡くしても涙一つ見せることもなく、過去を振り返ることもなく、元気に、超マイペースで生きました。  

 夫の死後、64歳にして海外旅行に目覚め、79歳で南極、80歳でエベレストのトレッキングにも参加、89歳で生涯を閉じるまで、旅した国は108カ国。情報も少なくパッケージツアーもない時代に、政治家に頼み込んで南極行きの飛行機に乗せてもらおうとしたり、日本人初のモンゴル旅行では、帰路のイルクーツクで腸閉塞の手術をして九死に一生を得たり。まさに、「猛女」そのものの人生でした。

「マカ」で日本中を元気にしたい!


 そんな輝子の評伝を書きたいと思ったのは、私自身も年齢を重ね、両親の老いも感じ始めてきたころ。「そういえば輝子おばあちゃまはうつ病にもならず、いつもまっすぐに背筋を伸ばして生きていたな」と思い、「どうしたら祖母のように生きられるんだろう?」と考えたのがきっかけでした。 

 うつ病が国民病のように言われ、日本全体が何となく元気をなくしている今、祖母のように「何があっても前向きに生きられるんだ」ということを一人でも多くの方に知ってほしいと思います。

 精神科医である伯父の茂太も一昨年亡くなりましたが、90歳まで元気でしたし、父も躁うつを繰り返しながら、81歳まで生きている。最近の父は年を取り、気力がなくなり、母に怒られてばかりで、「昔のお祭り騒ぎは一体何だったんだろう」って思いますけど(笑)。

 でも今思えば、父は精神科医だったからこそ、自分の病気を面白可笑しく作品に書き、世に知らしめたかったのかもしれません。自分でも「パパの唯一の功績は躁うつ病という言葉を広めたことだ」と言っていますから。

 だから、今うつ病で苦しんでいる方々や、それを見守る家族の方々にもぜひこの本を読んでいただいて、「ああ、斎藤さんの家はこんなにひどかったんだ。うちはまだましかもしれない」とか思っていただいて、少しでも気分転換していただければと思います。 

 そうは言っても、私自身、祖母輝子の遺伝子は受け継いでいないようで、毎年、会社の人事考課の結果に落ち込んだり、小さなことにいつもクヨクヨと悩んだりしているので、あまり偉そうなことは言えませんが(笑)。 

 多分、私が70歳、80歳になってもエベレストに行こうなんて、絶対思わないだろうし。定年まで何とかクビにならないように頑張りますって感じですかね。あとは皆さまに「マカ」を飲んでいただいて(笑)、日本中を元気にしたい。今思うのは、それだけですね。

(東京都港区芝公園にて取材)



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