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218号 注目の人 作家/桐島 洋子さん

「『林住期』からは力を抜いて生きること。それが最高のキーですね」
桐島 洋子/作家
Profile

桐島 洋子/作家
1937年東京生まれ。
都立駒場高校を卒業後、文藝春秋に入社。65年フリーライターとなり世界を巡遊。
67年には従軍記者となり、ベトナム戦争を取材。
72年、アメリカ社会の深層を鋭くえぐった「淋しいアメリカ人」で第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
その後、講演や著作など幅広く活動する一方、独身のまま、かれん(モデル)、ノエル(エッセイスト)、ローランド(写真家)を育て上げる。
子育てを終えてからは「林住期」を宣言し、年の3分の1をカナダで過ごしていたが、最近は日本に向き直りエンジンを再始動中。
著書にベストセラー「聡明な女は料理がうまい」ほか多数。「森羅塾」の開催など、今後の予定はHPにて公開。
http://www.yoko-kirishima.net


映画のヒロインのような母


上海にて。ご両親と

 私の人生最初の記憶は上海に向かう船の中。ほとんどの船客が船酔いでダウンしている大揺れをものともせず、元気に甲板で遊んでいたので、船長さんから「男の子なら船長になれたのに」と言われたのを覚えています。

 私が3才のころ、生まれ育った東京から一家で上海に渡りました。父は画家志望の夢を財界の重鎮だった祖父に許されず、東大から一流会社へという後継ぎコースにはめ込まれていたのですが、祖父が亡くなった途端、これで親孝行は終わりだと会社を辞め、財産を持って上海に新天地を求めたわけです。父は新聞社を作り、絵を描いたり、亡命芸術家たちを支援したり優雅な生活でしたね。

 上海に渡った翌年太平洋戦争が始まり、どうせ死ぬなら日本に帰ろうと、私が小学1年生のときに帰国。一時は葉山の別荘に住みましたが、敵前上陸に備えて、1番海から遠い、木曾の妻籠に疎開しようと父が言い出して。親しい友達を引き連れて、桐島村を作ったわけ。今は博物館になっている由緒ある旧家を借りたのはいいけれど、荒地を開墾して芋を作る厳しい生活でした。

 間もなく、あっけなく戦争は終わり、葉山の別荘に戻りました。昔は大勢お手伝いさんがいた大きな家に、家族だけで暮らすのは大変でした。庭を畑にしたり、海山を駆け巡って魚貝や山菜を探したり、自給自足の生活。でも、そのおかげで70才を過ぎた今でもほとんど病気知らずの健康体です。

 でも、父は病弱でしたから、母が働き、着物や骨董を売って何とか生活していました。もともと下町の病院長の娘で明るい性格だった母は、桐島家に嫁いでからというもの、家の格式を守ることに一生を賭けていた祖母から嫁いびりをされ、大変な苦労をしたようです。だから上海ですべてから解放された母は、とても輝いて見えましたね。華やかな社交生活から、敗戦、そして一家を支えて働く逞しい女性に変身していった母。その人生は、両親ともに大ファンだった映画「風と共に去りぬ」のスカーレットそのものだった気がします。

嵐のような恋をして


文藝春秋に勤務していたころ

 音楽好きな両親は私をプリマドンナにするのが夢でしたが、私は全く興味なし。その代わり、絵にはすごい才能を発揮して、自分の夢を娘が継いでくれるかと父を驚喜させたけど、学校で写生ばかりさせられるようになって絵が嫌いになり、作文に方向転換しました。

 小さいころから親の蔵書を読みふけり、「文藝春秋」を真似て、自分で「子ども春秋」を作っていたほど。その憧れの文藝春秋に入社できたのは、筆まめだったおかげです。

 葉山時代の親友が作家の永井龍雄先生のお嬢さんで、中学2年生のときに東京に引っ越してからもずっと文通を続けていたんです。その私のハガキが先生の目に留まり、「この子は文才があるな」と文藝春秋の受験をすすめてくださったのです。

 入社しても、高卒だしすぐ編集者になれるわけではなく、はじめは雑用ばかり。それでも、「本を運ぶのは美容体操、宛名書きはお習字の勉強」とポジティブに考えて、一生懸命頑張りました。全国から届く読者の手紙への対応も大仕事でしたが、私は1人1人にきちんと返事を書き、それがとても評判が良かったんですよ。後に物書きとして名前が知られるようになって「あのとき懇切丁寧なお返事を頂いた桐島さんですか?」と、あちこちからお手紙を頂きました。いい仕事をしておくものだなとうれしかったですね。そのうち才能を認められ、やっと念願の編集部に配属。私は水を得た魚のようにバリバリと仕事をこなしていました。

 いつかは文藝春秋の編集長になろうと思っていたのに、あるとき、嵐のように恋をして…。彼はスキンダイビングの草分けで世界記録も作った米海軍の退役中佐。文春は結婚退社の規定があるし、彼もアメリカの妻と離婚係争中。とりあえず結婚は棚上げだけど、子どもを産むには「定年」があると焦った末に私が選んだのは、例の悪名高い秘密出産(笑)。

 いつも8ヵ月まではうまくおなかを隠して、何食わぬ顔で働き、最後の2ヵ月だけ姿を消すのです。1回目は急性腎炎と称して海辺に「転地療養」し、泳ぎ暮らしながら長女かれんを出産し、1週間目には職場復帰。2回目はユーラシア大陸横断の大旅行を決行し、帰りのフランス船上で次女のノエルを出産。遂にバレることはなかったものの、いつまでも隠せるものではないので、思い切って2人目で退職。今ならフリーの記者としてバリバリ稼げたでしょうが、当時はほとんど仕事はなくたちまち困窮しました。

 そのころ、彼が船長としてベトナム行きの船に乗ることになり、私も同行したら、船主と喧嘩した彼は船長をクビになって私たちはベトナムに置き去りにされたのです。

 そこで、「今度は私が働くわ」と従軍記者になり、ベトナム戦争の最前線に乗り込んでいきました。同じ塹壕で身を寄せ合っていた兵士たちが次々と命を落としていく光景は、今でも私のトラウマになっていますね。サバイバーズ・ギルト、つまり生き残った者の罪悪感みたいなものがあって、ほとんど人生の愉しみを知らないまま無残に未来をもぎとられてしまった若者たちの無念を思うと、私は生きているだけでありがたい、これ以上欲張ったら申し訳ないと思うのです。

処女作は子どもへの存在証明


 そしてベトナムから帰国後、3人目の子どもを出産。でも、当時の日本ではまだシングルマザーとして生活していく道は見つからず、無謀にも女性差別のないアメリカに行こうと決めたんです。

 しかし、英語の国で編集者になれるわけはなく、結局1番役に立ったのは生活者としての技術でした。ホームステイ先で得意の料理を披露したら、「今度はうちでもパーティーをやってください」と次々に頼まれて。そのうち、面白い人がいるからと講演を頼まれたり。

 そうして何とか生き延びてはいたものの、子ども3人抱えて、明日をも知れない生活でした。それでも親子心中だけは絶対するまいと。アメリカでは養子制度が発達しているので、万が一のときは母の座を降りて、より良い親に子を託そうと悲壮な覚悟を心に秘めていました。でも、それは考えるだに悔しいこと。そこで、何があろうと、せめて自分の存在証明は残しておきたい、子どもへの遺言という意味もこめて書いたのが処女作「渚と澪と舵」でした。

 それを日本に送って出版したら、いろんな方から励ましのお手紙をいただいたんです。そのとき、私に何か才能があるとしたら、それは日本語で本を書くことだと。もう1度、自分の本来の居場所で勝負しよう。そう思い、突然帰国することを決心しました。

 そして、アメリカ放浪中の体験をまとめた「淋しいアメリカ人」で大宅賞を頂き、今日に至っているというわけです。考えれば、本当に綱渡りの人生だったと思いますね。


アメリカ
イーストハンプトンでの生活

イーストハンプトンでいのちの洗濯

 ところが、物書きとして成功し始めると、子どもたちも周りからちやほやされて、だんだんスポイルされていく。私自身もふと気が付いたら39才。40代を前に休暇を取って、いのちの洗濯をしなければ。ちょうどそう思っていたころ、「聡明な女は料理がうまい」という本がベストセラーになり、まとまったお金ができたので、1年間の大休暇を自分と子どもたちにプレゼントしアメリカに渡りました。

 イーストハンプトンという美しい別荘地で家を借り、大自然の中で子どもたちと存分に付き合いました。子どもたちにとっても、素晴らしい体験だったらしく、今でも「人生にとって大事な1年半だった」と言っています。

 食事の支度も当番制にして、子どもたちにも家事を全部手伝わせ、教えられる限りのことを教えました。この機会に子どもたちの日本語も直したいと思い、まず「マミー」ではなく「お母様」と呼びなさいと。2人称を正すと、連繋的にほかの言葉も改まっていくのです。

 この休暇で人生をリセットし、もう1度生まれ直したようにみずみずしい気分で40代を迎えることができました。

 その後、50才で子育て卒業大旅行を計画し、親子4人で2ヵ月間世界中を回りました。それで子育てはもう卒業。

イーストハンプトンでいのちの洗濯


ベトナム従軍記者時代


アメリカ放浪生活から帰国直後


カナダにて、
次女・ノエルと孫の馨林と一緒に
ピクニック

 50代は1年の3分の1をカナダで過ごしていました。ちょうど50才になったとき、インドで「四住期」という思想に出合って、自分も「林住期」に入ると宣言したんです。「林住期」は四季に例えると人生の秋、汗みずくで働く夏の「家住期」を終え、豊かな実りを愉しむ季節です。改めて人生の意味を考え、自然に心身を解き放ち、芸術を愉しむゆとりの日々を過ごすときが来て、ちょうどそのころカナダのバンクーバーでまさに「林住期」にぴったりな家を見つけ、「林住庵」と名付けて晴耕雨読の日々を楽しむことにしたわけです。

 毎日、バンクーバーの海に赤々ととろけ落ちる夕陽を見ているだけで、どんなに壮麗な大寺院に詣でるよりも深い畏敬の念に打たれます。どんな芸術も及ばないこの美しい大自然を創造し、司っているサムシング・グレートというか、超越的な力の存在をひしひしと実感します。

 林住期になったら、その大きな力に身をゆだねて、力を抜くこと。それが最高のキーですね。もともと、私は力を抜くことはうまかったんですよ。

 子どものころ、毎日葉山の海で波と闘っては叩きのめされていた。でもあるとき、もうなるようになれとあきらめて力を抜き身を任せたら、波が体を優しく持ち上げ降ろしてくれた。「あっ、逆らわずにお任せすればいいんだ」と悟ったんです。

 その体験は、その後の人生のさまざまな場面で役に立ちましたね。冒険だらけだったけど、大変なときほど、力を抜いて流れに身を任せてきた。そうすると、天のエネルギーがうまく計らってくれるような気がします。

 「林住期」も十分に愉しんだので、冬の「遊行期」に入る前にまたしばらく「家住期」に戻ってひと働きしたい気分になってきています。この夏に古希を迎えたので、「長老」として後輩に伝えるべきことは伝えておきたい、そう思って、この秋ぐらいから自分の居間で寺子屋のようなもの(「森羅塾」と命名)を始めたいと考えているんです。

 20人くらいでお茶を飲みながら、ときには一緒に料理を作ったりしながらゆっくり話をする。ときには、かれんのインテリア講座とか、ノエルのアロマテラピーとか、ローランドの写真教室とか、子どもたちにもお礼奉公させてね(笑)。

(東京都目黒区の「骨董部屋」にて取材)



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