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211号 注目の人 キャスター・千葉大学教育学部特命教授/木場 弘子さん

「人生は運と縁とタイミング。人との縁を大切にすれば、楽しい人生が開けると思いますよ」
木場 弘子/キャスター・千葉大学教育学部特命教授
Profile

木場 弘子/キャスター・千葉大学教育学部特命教授
1964年岡山市生まれ。
千葉大学教育学部卒業後、87年TBSに入社。在局中は民放初の女性スポーツキャスターとして活躍し、「筑紫哲也ニュース23」などに出演。
92年、プロ野球選手与田剛(現在野球解説者)との結婚を機にフリーランスに。
2001年千葉大学教育学部非常勤講師、千葉県浦安市教育委員就任。
06年4月、千葉大学教育学部初の特命教授就任。経済産業省内にて、エネルギー広報を中心にいくつもの委員を務めている。
著書に「子連れキャスター走る!」がある。


コミュニケーションの基本は表現力


横浜の自宅ベッドで

 5年前から、母校の千葉大学で非常勤講師を務め、教師を目指す学生たちに講義をしています。

 さらに、今年の春からは、学部初の特命教授にも任命され、学生の進路指導と広報活動も担当することになりました。大学の魅力をPRすべく、リリースを作って新聞社に送ったり、忙しい日々ですが、面白いですね。いじめ問題も多発し、教育のあり方や教師の質が問われる今だからこそ、教育に関わることにやりがいを感じています。

 私が担当している講義のテーマは、「教育と表現」。大学から、教育の専門家としてではなく、先輩として、社会について語ってほしいと依頼されたのです。そこで私は、キャスターとして、母親として、また教育委員としての行政の立場、この3つの視点から自分の体験を通じて、語ろうと思いました。教育の現場で、「どう表現したら、子どもたちに伝わるのか」。私が講義の中でよく話すのは、「『伝える』と『伝わる』は、1字違いだけど、大きな差がある」と。キャスターも同じで、例えばニュースを読むときも、視聴者の方が理解できなければ本当に伝わったことにはならない。教師は相手が子どもだから、なおさら理解してもらう努力をしなければならないと。

 コミュニケーションの基本は、相手を分かろうとする気持ちと、分かってほしいという気持ち、それをお互いにどう表現できるかにかかっていると思います。ところが、最近の学生たちを見ていて、とても気になるのが、コミュニケーション力の著しい不足。5年前に比べると随分学生がおとなしくなった気がします。

 講義中、「寝てる人、私語してる人は、義務教育じゃないから出ていっていいわよ」と注意すると、ピタッと静かになる代わりに、能面のようにじっとして何もリアクションがない。これはちょっと不気味というか、やりにくいですね。レポートを書かせると筆圧が弱いので、字が薄くて読めない。それと、テレビの影響なのか視覚に頼りすぎ、話を聞く力が非常に落ちています。講義を聞いていても、テレビを見ているのと同じ感覚で、すべてが受身。どんな教師になるのかな?と思いながら、学生たちと格闘を続けています。

ノルウェーで異文化体験


川崎の自宅の玄関で。
3才下の妹と

 とはいえ、私自身も小さいころは、内気でおとなしい子どもでした。私は東京オリンピックがあった年に、岡山で生まれました。父親が貿易関係の仕事をしていて転勤が多く、10才までに何と7回も引っ越しを経験したんです。でも、そのおかげで、新しい人や環境にもすぐに馴染むコツを学んだ気がします。

 川崎で小学校に上がったときのこと、国語の授業で教科書を読み、「言葉が訛ってる」とみんなに笑われたことがありました。両親が四国出身なので、私も四国弁で話していたら、先生にまで笑われ、ものすごく傷付いたんです。もともと内気だったのに、それ以来、人前では絶対しゃべるものか、とますます心を閉ざすようになりました。

 その翌年、父がノルウェーに転勤することになり、家族も一緒に1年間ノルウェーに住むことになったんです。私が小学校2年で、妹はまだ4才のときでした。ノルウェーでは、ブリティッシュスクールに通い、1日中ずっと英語の授業。何を言っているのかさっぱり分からず、あれはつらかったですね。楽しかったのは給食のときだけ(笑)。でも、逆に日本語も通じないから、言葉が訛っていることなんか大したことじゃないとすごく気持ちが楽になったんです。もしあのときノルウェーに行かなかったら、ずっと言葉のコンプレックスを抱えていたでしょうね。



 日本では、みんなが同じだと安心するけど、外国ではみんな違うのが当たり前。だからこそ、お互いに分かり合うための努力はエネルギーがいりますね。大好きなおにぎりを学校に持って行ったら、黒い海苔が気持ち悪いと言われ、ショックを受けたり、異文化もいろいろと経験しました。最後には、花いちもんめなど日本の遊びを普及させて帰ってきましたけど。

 そして1年後、日本に帰国したら、今度は帰国子女ということでいじめられて。日本の子どもは心が狭いんだなって、思いましたね。1年間日本のテレビを見ていないので、流行歌やドラマの話題にもついていけなくて。それからは、何とか遅れを取り戻そうと、テレビばかり見ていました。ノルウェーでは、ドラマも週1回ぐらいしか放送されず、ほとんど娯楽がなかったので、あらためて日本のテレビは面白いなと思ったんです。

1枚のハガキからアナウンサーに


2005年 星野仙一さんと。
レギュラー番組で


局アナ時代。
1992年オールスターゲームの前に
ご主人の与田剛さんと。
千葉マリンスタジアムにて

 だんだんテレビに興味を覚え、小学校4、5年のころにはテレビ局のプロデューサーになり、番組を作りたいと思っていました。そしてもう1つの夢が数学の教師になること。オスロでも算数だけは分かったので、科目の中で算数が1番好きだったんですよ。

 それで、千葉大学の教育学部に進学したんですが、中学数学の副専攻の試験に落ちて、それなら一般企業の就職試験も受けようかなと。

 テレビ局には縁もないしと、あきらめていたんです。ところが、たまたま大学の進路指導室に行ったときに、フジテレビのアナウンサー講習会の応募ハガキが3枚残っていたんです。友達に「弘子なら絶対受かるよ」と言われて、受けてみようかなと。フジテレビは最終試験で落ちたものの、TBSには運良く合格。もしあの日、進路指導室に行かなかったらと考えると、運命って面白いなと思いますね。

 TBSでは、民放初の女性スポーツキャスターに抜擢されたんですが、後で理由を聞くと、男女雇用機会均等法ができて最初の採用だったから、1人ぐらい女性のキャスターを、ということだったらしいんです。もしスポーツキャスターになっていなければ、野球選手と結婚することもなかっただろうし。思えば、私の人生は、運と縁とタイミング、それで決まってきたようなものですね。

孤独を救ってくれた「パジャマ友達」


1992年12月 披露宴。
新高輪プリンスホテル

 私にとって、1番大きな転機になったのは、やっぱり結婚と出産でした。TBSを退社して、当時中日ドラゴンズの投手だった夫(与田剛さん・現在野球解説者)と結婚し、名古屋に引っ越してから生活が180度変わりましたから。

 それまでの仕事しかない生活から、名古屋の見知らぬ土地で、知り合いもいない。夫は1年の半分は家にいないし、仕事もない。もう抜け殻のようでした。夜、高層マンションの部屋で、1人夜景を見ながら、「なぜ私はここにいるの?」と。その上、結婚してから、夫は成績不振になり、外に出るとファンの方や周りからいろいろ言われて、だんだん壁を作るようになってしまったんです。

 そんな孤独から救われたのは、出産してご近所とのお付き合いが始まってからのこと。実は、息子の出産は大変な難産でした。陣痛促進剤を点滴して3日目になっても産まれず、帝王切開で無事誕生したものの、一時仮死状態になり、生後1ヵ月もICUに入院したのです。その後も後遺症が心配されたのですが、幸い順調に回復しました。

 でも、夫も相変わらず家にいない生活で、1人で子育てをするのはとても大変でした。車の免許を持っていないので、真冬に乳母車を押して買い物に行って。1日中1人子どもと向き合っていると、なぜかすごく孤独を感じるんです。そんなとき、近所の方が「何か困ったことがあったら言ってくださいね」と声をかけてくださったんです。うれしかったですね。

 それ以来、同じマンションの奥さまたちと仲良くなり、お風呂上がりに集まってお酒を飲みながらビデオを見たり、すっかり「パジャマ友達」の仲に。いろいろな面で、本当に助けていただきました。何より心強かったのは、先輩ママたちの「大丈夫!」という言葉。育児書よりも、経験に裏打ちされた一言が、私を救ってくれました。

子どもの命が1番大切


千葉大学教育学部の講義風景


浦安市の自宅のソファーで

 最近、子どもの虐待が増え、密室の育児での煮詰まり現象などと言われますが、育児を1人で抱え込まず、地域の人たちに助けてもらうことも必要ですね。私は名古屋から千葉県の浦安に引っ越したとき、まずご近所の方にタオルを配りました。そうすると人間関係も良くなって、子どもの面倒もよく見てくださるんですよ。以前は完ぺき主義で甘え下手でしたけど、名古屋での経験から甘え上手になった気がします。

 講演でもよくお話するのです。自分の子どもが健康だということに、感謝してくださいねと。ともすると、健康は当たり前で、親の期待ばかりを押し付けてしまいがち。でも、私自身の経験から、子どもが元気なら、それでいいじゃないって。子どもの命に代わるものは何もないんですから。

 また、子どもの命を守るのは親の責任でもあると思います。2001年、大阪教育大附属池田小学校で殺傷事件が起きたとき、子どもは小学1年生でした。私は他人事とは思えず、市長に対応策を提案し意見を求めました。それが縁で、浦安市の教育委員を頼まれ、もう6年目を迎えます。私が提案した対応策もいくつか採用され、今年度、保育所の待機児童がゼロになったことはうれしかったですね。だから、あきらめないで、行政にもどんどん言い続けることが大事。面倒なことから逃げずに、地域のことにも積極的に関わろうとする親の姿勢を、子どもはちゃんと見ているものです。

まだまだ人生これから

 今までずっと走り続けてきた感じですが、私の場合、本業の仕事のほかにも、いろいろな役割が多いので、逆にそれを楽しめるし、気持ちを切り替えることがストレス発散になってますね。 

 結婚してフリーランスになり、自分なりの道を探そうともがいた時期もありましたが、目の前のことを一生懸命やっているうちに、いつの間にかいろんなお仕事をいただいて。だから、焦らず流れに逆らわず、人との縁を大切にしていけば、楽しい人生が開けてくる、そんな気がしています。まだまだこの先、いったい何があるのかと楽しみにしています。

(千葉県浦安ブライトンホテルにて取材)



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