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195号 注目の人 ファッションプレゼンター・歌手/秀香さん

「死ぬまで元気に50才からの女の挑戦」
秀香/ファッションプレゼンター・歌手
Profile

秀香/ファッションプレゼンター・歌手
東京・浅草生まれ。
19才のときスカウトされモデルを始める。
23才で結婚、引退。その後出産し子育てに専念するが30才のときカムバック。
その年の秋にパリコレクションで有名デザイナーのコレクションに登場し、以後10年間、世界のトップモデルとしてパリコレの常連になり活躍する。
1991年モデル引退。
以後ファッションプレゼンターとして講演、トークショー、司会、テレビ、ラジオ、CM、ディナーショー、ライブコンサート、テレビドラマ等に出演。
著書に「エレガントに自分を磨く45章」、「スーパーモデルの綺麗術」ほか。
現在はシャンソン歌手としてテレビ歌番組出演、ディナーショー、ライブコンサートを行うなど幅広い分野で活躍中。


「お相撲さんみたい」と夫に言われ

現役モデル時代大好きなヒョウ柄の衣裳で

現役モデル時代
大好きなヒョウ柄の衣裳で

 生まれは東京・浅草。浅草には家族で幸せな時代を過ごしたイメージがいっぱいあって、愛着があるんです。日曜日には家族で映画観にいって、仲見世や花やしきで遊んで。人がいっぱいいて、にぎやかで、うわべだけでない人情味があって、食べ物屋さんがたくさんあって。いまでもそんな下町の匂いを嗅ぐと、血が騒ぎます。

 小さいころから大きなコンプレックスがあったの。それは「大きい」ということ。小学校6年のときすでに身長170センチ。今なら180センチの感覚かしら。つけられたあだ名は「東京タワー」(笑)。「結婚相手は野球選手かプロレスラーね」なんて言われて。町中で私のこと知らない人がいないくらい、目立っていましたね。目立つ分、「ウドの大木」なんて言われないよう、勉強でもスポーツでも一生懸命がんばりました。すごく負けず嫌いだったから。とにかく多感な時期、どこに行っても「背が高いね」と周囲に珍しがられてきたので傷ついていました。好きな人にも身長差を気にして告白できなかったし(笑)。

 モデルにスカウトされたのは大学1年、19才のとき。母は大反対。そのとき私はこう説き伏せ、納得してもらったの。「この身体で今までずっと嫌な思いをしてきたけれど、モデルという仕事なら、持って生まれた特性を生かすことが出来る」と。

 それから4年間モデルの仕事をして、23才のとき結婚を機に引退。仕事への未練はなかったですね。まだ浮ついた娘気分でいたし、プロ意識も持っていなかったから。それより結婚願望がすごく強くて、憧れのお嫁さんになりたかった。

 こうして憧れの専業主婦になったのだけど、実際は「目からウロコ」でした。いままでなら稼いだお金は全部洋服に遣えたのに、一転して主人の給料のなかで1円のやりくりにあくせくする日々。主婦って、無給の家政婦なんですよね。誰も褒めてくれない、お休みもない、感謝もされない。そのうち社会から取り残されていくような閉塞感にとらわれていって。主人がいる間はいい奥さんをやっていたけれど、いない間は食べ物にどんどん手が伸びた。スイカを買ってくると丸ごと1個食べていましたから。そして「太ったわね」と言われるのがいやで、家にひきこもって食べてしまうという生活に。いま思えば食べ物でストレスを解消する、「ストレス性過食症」だったのかもしれない。58キロだった体重が、ジワジワ太ってなんと20キロ増の78キロになっていました。娘を出産しても体重が減らず「あれ?」と思って。でも「幸せだからいいんだもん」と気にしていませんでした。

 そんなあるとき、ヒソヒソ私を噂する近所の奥様たちの声が。「彼女、昔モデルやってたんだって」「どおりで、大きすぎるもんね~!」と。また、「太っているくらいがいいよ」と言っていた主人も「なにも、お相撲さんみたいにならなくても…」とこぼすように。これはさすがに「まずい」と思いましたね(笑)。

 かくてダイエットを決意。お金はかけられないから本を買いこんで研究し、栄養成分表をにらみながらカロリー計算をしてメニューを組み立てていきました。夜中におなかがすいて飢餓感に襲われたら耳ツボを押したり、ヨガのポーズで自律神経を整えたり、風船をふくらましたり。風船をふくらますとカロリー代謝があがるんです。ありとあらゆることを試して、10ヵ月間で23キロの減量を達成しました。

子育てしながら、30才でパリコレのモデルに

「女優へのオマージュ」より

H15年5月ディナーショー
「女優へのオマージュ」より

 そのころから、モデル復帰も考えていました。減量してきれいになったら、新しい洋服を買うお小遣いがほしくなっちゃったのね(笑)。

 何より、自分の生き方を手に入れよう、という思いがありました。なんとなく結婚して、女の子の母親となったわけだけど、女性としてこのまま甘いところで生きていていいのか?という思いがもたげてきたんです。当時は1億総中流意識で、みんなセレブになろうとしていた走りのころ。奥さんたちは、旦那がお金持ちとか子どもが成績いいとか、自分の努力以外のところで競り合おうとする傾向がありました。山の手といわれる土地柄(港区白金)のせいもありましたが、子どもの受験に関してなど、女同士で見栄の張り合いがすごい人たちがいて。自分もそんな環境のなかで流されて、教育ママにならないように、自分の持ち分を見失わないようにと考えたんです。

 こうして職業をしっかり持とうと決意し、30才のときモデルの仕事に復帰しました。すると、パリのデザイナーからパリコレに来ないかという誘いが。最初は「子どもがいるから行けない」と断っていましたが、ご近所の奥さんに「いまさらモデルやるの」と言われたことで発奮しました。当時はモデルの社会的地位がとても低かった。いまのように有名人と結婚なんてことはありえなかったのね。娘でさえ、「お母さんみたいにモデルになるの」と聞かれたら、「バカになるからやらない」って答えていたくらい。モデルを社会的に認められる立場にし、職業として確立させたい。私たちがそれをやらなければいけないという反骨精神が芽生えたんです。



 ひと月かけて、パリコレのオーディションを受けました。若くてきれいな女の子たちと並びながら、固く信じていましたね。「私はずっとオバチャンだけど、でもこの子たちは子どもを育てたこともなければ、いま大根が1本いくらかも知らない。自分には内面に違うニュアンスがあるはず。だから歳も関係ない。子どもがいたってできるはず」と。そんな内面は必ず表に出てくるんですよ。人生の経験がモデルの仕事に役立ったんです。

 年齢に関しては、フランス語をしゃべれなかったことも幸いしたのかも。私、ずっと若く見られていたみたいで、あとになってから「ヒデカ、君は一体何歳で子ども産んだんだ?」とデザイナーたちに驚かれました(笑)。

ファッションは欲望を形にしたもの

東京コレクションショーより

東京コレクションショーより

 パリに身をおくと、社会的経済的なものを含めた世の中の動きがすごくわかるのね。女性が男性と戦う時代は強い服になるし、それが行き過ぎると共存させていく服になる。だから「世の中これからはこうなるんだよ」と服が送る発信をこちらが受け取れなければ、服に「着られて」しまう。そうでなく「これがいま最高の服なのよ!」と服を着こなしてみせるには、こちらも着手として感覚を研ぎ澄まし、いつもまっさらな状態を心がけないといけない。

 服がどう見えるかは、着る人がどういう人間なのかに集約されると思うの。流行なんかどうでもいい。流行は自分で作るもの。男と女が生きていて、そのときどきの社会のスピード感、経済、歴史の背景において、「女の人がどうしたら素敵に見えるのか?」という究極なもの、それがファッションであり流行。その人なりの価値観、美意識があるなかで服を着るから素敵なのであって、お金さえあればなんでも買える、着る人間の中身は関係ないというのはおかしいと思う。

 ファッションとは、女性なら「きれいになりたい」「知的に見せたい」とか、そういった欲望を形にしたものという気がするんです。欲望はありすぎてもだめだけど、「仕事をがんばりたい」「生活を安定させたい」「輝きたい」でもいい、「~でありたい」という欲望を少しでも持っていないと人は楽しくないのよね。

 こう話していると「秀香さんはモデルやりながらそんなにモノ考えてきたの」と言われる。だけど、考えないで仕事するのは簡単なの。常に人生に起こる問題の解決は何か?と考え続けることで、人とはこう違うんだという自分の個性がアピールできるんです。

 こうしてパリコレのモデルを務めて、10年間。長く自分を支えてくれたのは、社会的地位が低かったモデルとしてのプライドだったのかもしれないですね。

50才からの夢の挑戦で人生が楽しくなった

「女優へのオマージュ」より

H15年5月ディナーショー
「女優へのオマージュ」より

 歌を始めたのは50才のとき。腰を痛めたこともあってモデルを42才で引退してからは、本やコラムを書いたり、テレビドラマに出たり。いろいろなことをしてきたけれど、「夢はなんですか?」と聞かれたとき自分の夢になるような仕事をしていないと思ったの。

 また私生活でも離婚という岐路に直面し、行き詰っていて。モデルとして華やかに脚光を浴びる影で、失うものもあったんです。

 そんな自分の気持ちを言い当てたようだったのが、シャンソン。若い子では歌えない、人生経験を重ねた人だからこそ歌えるドラマがある。人生のつらいこともサラリと表現してみせるシャンソンに共感し、これなら私の人生経験のなかで歌っていけると思ったんです。

 恥をかきながらも歌っていると時間を忘れる。「生きている」という実感が湧いてくるんです。少しでもうまく歌えたときは喜びがあるし、自分はこれだけやったという充実感があるの。お金の問題じゃない。だから歌手は私にとって、趣味と実益を兼ねた仕事。30才のときに続いて、50才からの挑戦ですね。

 なぜこんなにがんばるかというと、いまや2人の母となった娘に、「死ぬまで元気でやっている」母親の姿を見せ続けたいんですよ。子育て中の娘もそうだけど、若い人たちは気持ちが不安定で、すぐ落ち込んで悩んでしまう。人間暗くなろうと思ったら、いくらでも暗くなる要素ばかり。私自身も家に帰れば、15年間続いている母親の介護が待っている。ときどきむかつくこともありますよ。だっておいしいときにおいしいって素直に言わないんだもの。お嫁さんだったらあれ絶対務まらないわ(笑)。

 でもね。それもみんなが通ってくる道。それより努力することで、楽しみを享受できる自分に切り替えられるんです。切り替えるのは自分自身。こうして死ぬまで挑戦して、現役でい続ける。そんな母親の生き方を、女性の先輩として娘に見せて元気づけたいんです。

 30才からの25年間は、子育て、仕事、とめいっぱい忙しくて、行きたい旅行すら行けなかった。でもいま思うと、忙しくて幸せだったのかもしれない。だってまだ、やりたいことがたくさん残っているんだもの。これからも人生、楽しんでいけますものね。

(東京都港区白金台にて取材)



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