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349号 注目の人 フラワーアクティビスト/志穂美 悦子さん

日本初アクション女優 花と一緒に笑顔を届ける
志穂美 悦子/フラワーアクティビスト
Profile

志穂美 悦子/フラワーアクティビスト
1955年生まれ。日本初のアクション女優としてテレビや映画で活躍するも、結婚を機に芸能活動を引退。2013年奈良明日香村、天武天皇御陵献花。14年世界遺産 奈良薬師寺にて「聖観世音菩薩に捧げる花展」を開催。15、16、17、18年「世界らん展」、16、17年「国際バラとガーデニングショウ」にて特別展示、ステージパフォーマンスを披露。被災地復興支援として「ひまわりプロジェクト」を立ち上げ、ひまわりを種より育て、宮城県、福島県、熊本県へ届けた。17年には宮城県石巻市にひまわりを咲かせた。



子どものころからスポーツ万能

3歳の七五三の晴れ着姿

3歳の七五三の晴れ着姿

2歳半ごろ。自宅にて母と

2歳半ごろ。自宅にて母と

 両親と母方の祖母と私と弟、5人家族で育ちました。幼稚園の時からすでに、「私はみんなより足が速い」と感じていました。それほどおてんばというわけではありませんでしたが、小学生のころは、男子よりも速かったです。

 中学校では陸上部に所属し、幅跳び・高跳び・ハードル・100m・200mと、全種目に出場していました。県大会での最高成績は、ハードルの2位。でも、1位にならないと中国大会に進めなかったので、とても悔しかったことを覚えています。

教育熱心だった元軍人の父

 両親は、大蔵省印刷局の職場で知り合い、結婚。母は卓球をずっとやっていて、小さいころは、体育館へ母の練習をよく見に行っていました。

 父は、陸軍中野学校出身の元軍人で、剣道は3段とか4段の腕前でした。なので、運動神経は両親からのDNAだと思います。

 父は、小学校のPTA会長をやるほど教育熱心で、参観日には父が仕事を休んで来ていました。私たち子どもたちに何かを強いることはありませんでしたが、家の空気は常にピリッとしていました。父が大声で笑ったところは、ほとんど見た記憶がないですね。

秘めた女優への思い

 中学生のころから、将来の職業選択肢の中に「女優」がありました。それも、自分の運動神経を生かした女優になりたいと、黙々と、一人だけで思っていました。ロールモデルはありませんでしたが、自分の中に漠然としたイメージはありました。

 でも、それを親に言えるような空気ではなかったので、中学校3年生の時にはひそかに「東京の大学に入って、そこから養成所みたいなところに通いたいな」と考えていました。当時、アクション女優は日本にいなかったので、誰よりも先にやりたいと思っていました。人の後からやるのでは、つまらないですから。負けず嫌いですね(笑)。

JACとの出会い

 高校2年生の時、雑誌に載っていたジャパンアクションクラブ(JAC)の記事がたまたま目に留まり、「私もこういうことがしたい」と書いて、JACに手紙を出したのです。もちろん、親に言える空気はわが家にはなく、知れたら大変ですから、誰にも言わずにこっそりと。

 すると、「JACの試験を受けませんか」という返事が来たのです。夢の扉が少し開き、そこに手をかけたような気分でした。

 意を決して、その夜、初めて自分の思いを父に伝えました。父は、娘がそんなことを考えているとはカケラも思っていなかったので、「いったいお前は何を考えていたんだ!」と激怒。もちろん反対されました。でも私は、自分の思いを必死に伝えました。話しながら、涙が止まらなかったことを覚えています。

 翌日、父に「話がある」と呼ばれました。すると父は、自分も若い時、「満州に行きたい」と父親に言ったら、一刀両断で断念させられたことがあると。「だから、お前の可能性の芽を最初から摘むことはしない。受験は認める」と言ってくれたのです。

 そして、母に東京までついてきてもらい、JACの試験を受けました。スポーツの受賞歴を書いた履歴書を提出して、「自分は絶対にアクションがやりたいんです。運動能力は誰にも負けません」ということを熱く語りました。すると、「前転をしてみてください」と言われ、でんぐり返しをしたら、その場でOKが出ました。それだけで分かると、後から言われました。

鮮烈デビューと絶頂期での引退

24歳、『柳生あばれ旅』の撮影中(東映京都太秦撮影所)

24歳、『柳生あばれ旅』の撮影中(東映京都太秦撮影所)

 JACに入った直後、『燃えよドラゴン』が大ヒット。ブルース・リーの世界的ブームが到来して、東映もカンフー映画を撮ることになりました。それは、これからアクション女優でやっていこうという私にとって、願ってもない流れでした。

 練習生のころ、勉強も兼ねて、女優さんの空手シーンのスタントマンとして作品に出ました。立ち回りが2、3シーンあり、顔が分からないように後ろから撮りました。私も映画館でその作品を見たのですが、その空手シーンが流れた時、会場が「うぉぉー!」とどよめいたのです。顔は写っていないけれど、明らかに女の子がやっているのが分かる。それに皆さんが驚いたのだと思います。これには感動しました。

 クレジットは、10人くらい並んだ中の一番端っこに、本名の「塩見悦子」と小さく流れました。あの時はっきりと、これから私がやっていくことを確信し、そして、それが大きな自信になりました。

 たくさんの映画に出させていただきましたが、やっぱり印象に残っているのは18歳での初主演作『女必殺拳』です。自分の名前が最初にバーンと大きく出て、中学生から思い描いていた私の「日本初のアクション女優」としての夢をかなえられた瞬間は、うれしかったですね。

 当時、映画は2本立ての時代で、2週間に1回作品が変わり、映画館も活況で、ものすごく忙しかったです。何年間も、寝る間もないほどでした。最後の出演は、1986年『男はつらいよ』のマドンナ役。本当にありがたいことに、順風満帆な13年間でした。

 ちょうど30歳の時、結婚を機に、芸能界を引退しました。アクションはやり切った感もありましたし、「今度は実生活を実り豊かなものにしたい」と思っていたのも事実です。でも、今思うと、引退も次のステージへの道だったのかなと思います。

花との出会い、転機となった薬師寺花会式(はなえしき)

作品制作風景

作品制作風景

 花との出会いは、義父の7回忌の時に頂いたフラワーアレンジメントです。

 ワインレッドに黄緑をあわせたようなシックなもので、テーブルの上に飾るくらいの大きさでしたが、とてもカッコよかったのです。それで「こういうものを自分で作ってみたい」と思い、習い始めました。

 それが2010年のことです。自分でいろいろ作れるのが楽しくて、毎日のように作っては写真を撮り、趣味として楽しんでいました。

 するとその翌年、東日本大震災が起きました。私も何かできないかと考え、撮りためていたフラワーアレンジメントの写真を本にして、その売り上げを被災地に寄付しようと、自費出版で写真集を作りました。たくさんたまっていたので、2年間で3冊出して、その売り上げを寄付しました。

 それがきっかけとなり、震災から約1年後、仮設住宅でボランティアのフラワーアレンジメント教室を開かせてもらったのです。15人くらいのおばあちゃんたちと、アレンジメントを作りました。すると、参加者の方が、「よくできたわ。お父ちゃんの祭壇に供えてあげよう」と、笑顔で言ってくれて。その時のことは、今思い出しても涙が出てきます。

 たった2時間で、そんなふうに笑顔になってくれるというのがすごくうれしくて。「こういう活動を、これからもずっとやっていきたい」と思わせてくれたきっかけになりました。

 すると、そういう活動が薬師寺のお坊さんたちの知るところとなり、「志穂美さんと何か一緒にやれることを考えたいので、会いに来てほしい」と、連絡がありました。

 まず実現したのが、2013年10月「天武忌」での天武天皇御陵への献花でした。

 さらにその翌年、2014年3月には、「花会式」で国宝・東院堂を丸ごと花で飾ることになりました。花会式というのは、7日間にわたって行われる、とても大きな行事です。

 薬師寺の1300年の歴史に対峙するには、花の勉強もしなくちゃいけない、歴史の勉強もしなきゃいけない。もちろん、自分の体よりも大きなものを作るには、体も鍛えなきゃいけない。ランニングや筋トレを始め、コーチをつけて、徹底的にやりました。

 式の期間中は、御堂の聖観世音菩薩様の真後ろについ立てを立てて控え室を作っていただき、花という「命」との真剣勝負の7日間でした。御堂をきれいに元の状態にしてお返しした瞬間は、泣けて泣けて仕方なかったです。感動のあまり、声を上げて泣きました。「もう、半端な気持ちで「花」はできない」と覚悟をし、大きなターニングポイントになった経験でした。

この人生を生き切りたい

2016年より毎年行っている「被災地に届け!ひまわり10,000本プロジェクト」

2016年より毎年行っている「被災地に届け!ひまわり10,000本プロジェクト」

志穂美 悦子さん

 私は「フラワーアクティビスト」を自称しています。まず、華道家とは言えませんし、フラワーアーティスト・フラワーデザイナーとも言えません。何か別の名前をつけないと、お花の世界で生きている方々に失礼になります。

 ただ、私の中に、既成概念にとらわれない、これまで誰もやったことがないことをやりたいという思いもありました。最初は「花活動家」などと言っていた時期もありましたが、懇意にしていただいている湯川れい子さんが「フラワーアクティビストってどう?」と、命名してくださいました。

 私は、花という展示物を活けるだけではなく、「ひまわりプロジェクト」のように、花と一緒に笑顔を届ける活動を中心にしたかったので、この呼び名が気に入っています。

 芸能界を引退した後、専業主婦として過ごしてきました。そして、世の中に出て行くことは、おそらくもうないだろうと思っていました。ですから、人生何があるか分からないものだと思います。みなさんの明日にも、何が起きるか分かりません。

 私、100歳まで生きようと思っています!まずは健康でいなければいけませんが、死ぬときに「やり切った。生き切った」と言って死にたい。良い意味で、生きることに欲張りでいたいと思っています。
(東京都目黒区にある事務所の一室にて取材)


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