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333号 注目の人 女性学研究者田嶋 陽子さん

私の生き方は母との葛藤から生まれた
田嶋 陽子/女性学研究者
Profile

田嶋 陽子/女性学研究者
1941年、岡山県生まれ。元法政大学教授、元参議院議員。英文学、女性学研究者。津田塾大学大学院博士課程修了。女性学の第一人者として、またオピニオンリーダーとしてマスコミでも活躍中。定年を過ぎてから歌と書を始め、現在、歌手活動とともに、書アートは個展歴5回。著書に『愛という名の支配』『ヒロインは、なぜ殺されるのか』『田嶋陽子の我が人生歌曲』など多数。



疎開先で受けた差別がフェミニズムの原点

1歳のころ、母と。2人とも幸せなころ

1歳のころ、母と。2人とも幸せなころ

 私は太平洋戦争が始まった年に生まれました。生まれて半年で満州へ連れて行かれ、その後、百貨店の仕事をしていた父の転勤で朝鮮へ。そこで父が召集され、1歳8カ月のときに母に連れられて日本に戻って来ました。そのときは、一時帰国のつもりで、財産もすべて朝鮮に置いたままだったのですが、そのまま朝鮮に帰れなくなり、母と私は、その後転々と親戚の世話になることになったのです。

 このとき、人に食べさせてもらうみじめさを知りました。親戚家族のお膳には魚の切り身があるのに、私と母にはありません。私は2歳ぐらいですから「お母ちゃん、お魚食べたい」と泣くわけです。すると母にピシャッと叩かれる。母自身も切ない思いをしていたのでしょう。夜になると「お前さえいなければ、私も働けるのに」と言って泣いていました。

 今思えば、食卓で受けた小さな差別が、私のフェミニズムの原点だったのかもしれません。母のつらかった体験を繰り返し聞くうちに「私は何があっても自分の食いぶちは自分で稼ぐ」という意識を芽生えさせていったのです。

しつけとは、「愛」という名のいじめ

 それでも終戦までは、まだ母と私の関係はよかった。戦後、父が復員してきて、私にとって本当の地獄が始まりました。

 親子3人で静岡県の沼津に居を移し、父は酒屋を開店。7歳離れた弟も生まれました。しかし、母が脊椎カリエス(背骨が結核菌に侵される病気)にかかり、長くは生きられないと宣告されて寝たきりになってしまったのです。ベッドでは石膏でできた箱型のコルセットみたいなものの中に寝ていましたから、体を動かすこともできません。父は「俺が戦争に行ったばかりにこんな病気になったんだから、俺が必ず治してやる」と、子どもの目から見ても感心するぐらい、よく母の面倒を看ていました。

 母はそんな父に感謝していたけれど、自分が死ぬと思っていたから、私を自立した女性に育てようと厳しくしつけました。学校から帰ると母のベッドの横で勉強するのが私の義務でした。教科書を暗記できないと2尺ものさしでピシャリと叩かれる。厳しいことばが飛ぶ。母は寝たきりなのだから逃げればよかったのでしょうが、子どもなりに病気の母から逃げたら悪いと思い、黙って叩かれていました。でも、あれはお仕置きではなく、30歳そこそこで死を宣告された母のうっぷん晴らし。暴力でしたね。

自分の家を持ちたい 間取りを書くのが趣味

11歳ごろ。母が体調回復して初めての家族旅行

11歳ごろ。母が体調回復して初めての家族旅行

 弟の子守も私の役目でした。自分が親にかわいがられていないと思っていたせいか、私はいつもあることをして弟をいじめていました。弟をおぶって遊びに行き、そこで弟を下ろして隠れてしまうのです。しばらくして弟が「ヨコちゃーん」と泣き始めると、私も泣きながら「ここにいるよ」と出て行って弟を抱擁する。弟が喜んで飛びついてきてくれるのがうれしかったのでしょう。

 問題はそのあとで、私にいじめられた弟が夜中になるとうなされて泣くのです。すると、父は疲れているから、「またいじめたな」と私を叱って外に放り出す。怖くて、寂しくて、そのとき知らないおじさんに声をかけられたら、あとをついて行ったかもしれません。

 その後、画期的な新薬が出て、母の病気は完治しましたが、家に私の居場所は見つからなかった。小さいときから「早く自分の家を持とう」と心に決めていました。小学校の高学年から中学生ぐらいまでは、家の間取りを書くのが趣味だったほどです。給料をもらえるようになると、頭金を貯め始めました。30歳のとき就職して、自分の家を持ったのは35歳のとき。その後は仕事の都合に合わせて売り払っては新しい家を買うという感じで、次々と新しい住まいを楽しみました。

 イギリスに留学したときの恋人が家の1部屋を書斎に提供してくれたこともありましたが、他人の家でプライバシーは守れません。「やっぱり自分の家でないと落ち着かない」という想いをあらためて強く持ちました。

女であることの戸惑いすべての夢を捨てた

 話を少女時代に戻します。家では寂しい思いをしていましたが、子どもの私は、それなりに夢を持っていました。

 小学校6年生のときの作文で「将来は総理大臣になる」と書いたことがあります。先生は「道は遠くない」とコメントしてくれました。中学時代は、私のささやかなルネサンスでした。勉強はできたし、絵を描けば市で金賞を取り、読書感想文は全国で入賞、テニスは市で1位。このころは、世界一の外科医になることが夢でした。

 ところが、尊敬していた先生から「勉強ができても女だからな」「女はメンスがきたら終わりだよ」などと面と向かって言われ、その言葉で脳天をぶち抜かれました。

 その上、私の初恋日記が親に見つかり、ノート1枚1枚をはがして火鉢で燃やされて、「こんな色気づいた娘は男女共学にはやれない」と、進学校に行かせてもらえなかった。地元の女子高に進み、夢も希望も自信もなくしてしまいました。

 それでも一刻も早く家を出たかった私は、「大学だけは行かせてほしい」と頼み込み、図書館の本の中で出会った津田梅子に憧れ、東京の津田塾大学を受験。女というだけで夢は挫折しましたが、親元だけはなんとか離れることができました。

女らしさの病にかかり体も心も傷ついた

津田塾大学大学院博士過程3年生のころ。初めての海外旅行。イタリアで

津田塾大学大学院博士過程3年生のころ。初めての海外旅行。イタリアで

 当時の女の勲章は結婚して嫁に行くこと。女性にとって女らしくあることが一番の価値基準だったのです。幼いころから私に自立を促していたはずの母からも「勉強ばかりできても嫁に行けないような女じゃしょうがない」「女の子なんだから、控え目にしろ」と言われ続け、家を離れてもその言葉が私の中で生きていました。それが化け物のように私を操っていったのです。

 いつしかタイトスカートにハイヒールを履き、見た目の女らしさを求めるようになっていました。ところが当時、私の足のサイズ24.5センチの靴は売っていません。それで24センチのハイヒールを無理して履きつづけたため第5腰椎を傷め、病院通いが続くことになりました。

 健康と同時に精神も病んでいきました。体中から吹き出物が出る、自分で物事を決められない…。たとえば、1枚のスカーフを買うのにも3時間かかっても決められないことがありました。

 女らしさの病はけっこう長く続くのですね。「あれ?私ちょっとおかしいんじゃないかな」と気づいたときには内面化しているから、今度はそう簡単には女らしさが捨てられない。とっくにハイヒールは脱いでいるのに“女”をやめられなかった。病から完全に解放されたと自覚したのは46歳のとき、3つ目の恋愛が終わりを迎えたときでした。

フェミニズム理論が私を助けてくれた

 高校2年生のとき英語の弁論大会でイプセンの『人形の家』を語り、校友会誌には、2人の女性の生き方を短篇小説にして発表、社会科の授業の教材になったこともありました。私はすでに従来の女性の生き方に疑問をもったおませな文学少女で、人と違っていていつも孤独でした。でも、そんな女の子の悩みが世界共通だということを知らせてくれたのがフェミニズムです。そのフェミニズム(=女性がこの社会で不当な扱いを受けていることに対する異議申し立ての思想)を核とした女性学が、私を助けてくれて、少しずつ自分を取り戻す力になりました。

 女性学の視点で研究活動をしながら自分で自分をセラピーしていく中で気づいたのは、母は私の敵であると同時に1番の師であったということです。母は幼い私相手によくつぶやきました。「なんであたしだけが茶碗洗ってなきゃいけないの」「なんで兄弟みんな学校だしてもらったのにあたしだけ小学校なの」と。またなぜ母があんなに私を痛めつけたのか、なぜ母自身あんなに苦しんだのか、なぜ家族の中で私だけに当たったのか…。満身創痍(そうい)になりながらも考えるきっかけをくれたのが母。母との具体的な関係を通してフェミニズムの理論を確認し、学び、わが痛みを相対化し、食い尽くすことができたのですね。

 「ここまでくれば私の人生、私のもの」と思えたのが46歳。悔しいから、これまで無駄にした時間を取り戻すために倍の92歳までは生きてやろうと思っています(笑)。

50代で母と和解心に平穏が訪れた

母と一緒のハワイ旅行

母と一緒のハワイ旅行

 その後、ひょんなことから『笑っていいとも!』に出て、50代からテレビでみんなのイヤがるフェミニズムを訴えるようになり、四面楚歌になったりもしましたが、自分を取り戻してからは、人の批判も気にならなくなりました。

 私のフェミニズムの考え方に賛否両論あるのは当たり前。だからといって、世間に迎合するつもりはありません。自分が自分であるために死に物狂いで得た結論がこの理屈なのですから。

 NHKの『母と娘』という番組で、母が「お前がそんなにつらかったなら、お母さんも悪かったね」と謝ってくれて、さらに気持ちが楽になりました。幼いころは毎日がつらくて、線路に横たわって死のうとしたこともありましたが、その一言で救われました。母に愛されているかどうかは関係なく、たとえ嫌われたって、私は私なんだとやっと自信が持てたのですね。

ステージで歌うときはつけまつ毛で大変身

ライブでシャンソンを歌う

ライブでシャンソンを歌う

法政大学での講義中

法政大学での講義中

 60歳で法政大学を辞め、63歳で議員を辞めてから、今も住んでいる軽井沢の冬の町おこしに声をかけられ、それがきっかけでシャンソンを習い始めました。

 もともとは町のためにひと肌脱いだつもりが、いつの間にか話が流れて私一人がやるはめに。でも、ホテル音羽ノ森を借りて初めてのコンサートを開いたら、80人しか入らないところに200人以上の人たちが来てくれて、それから毎年1回軽井沢でコンサートを開くようになりました。今ではすっかり歌も仕事のひとつ。1カ月に3回ぐらいはいろんなところでライブをやっています。

 歌うときの私はフリフリのロングドレスにハイヒール。変身の仕上げはつけまつ毛です。つけまつ毛で、私はステージプレイヤーに大変身。田嶋陽子の主張に反するじゃないかって批判もありますが、歌は聴いてくれる人を楽しませるものでしょ?途中でつけまつ毛を落としてみんなに笑われたり(笑)。それもサービス精神かな。

田嶋 陽子さん

 70歳を迎えると、今度は白と黒と筆の世界に興味を持ち、書アートを始めました。軽井沢の雪景色がすごく好きで、何とかしてあの雪景色を自分のものにしたいと思ったのが原点です。いろんな先生に出会い、書は「一」の字を1000本書くことが基本と言われたときは、人生の残り時間を考えて気が遠くなりましたが、ある先生の「上手に書こうとするな。人間力で書けばいい」のひと言に救われ、「書道」ではなく、ラインアートとしての「書」なら自分の世界がつくれるかもしれないと、希望が広がりました。

 先日「一日一生」と書きました。一日を一生だと思えば、先のことを心配するより今を精一杯生きるしかない。そうやって92歳まで自分らしくがんばろうと思っています。
(田嶋陽子女性学研究所にて取材)


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