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243号 映画監督 龍村 仁さん

「抹茶と氷河」

映画監督 龍村 仁

映画監督 龍村 仁さん

龍村 仁/映画監督

1940年、兵庫県生まれ。京都大学文学部卒業後、NHK入局。74年、ATG映画『キャロル』を制作・監督したのがきっかけでNHKを退職。その後、ドキュメンタリー、ドラマ、コマーシャルなど数多くの作品を手がけ、ACC優秀賞など数々の賞を受賞。2000年有限会社龍村仁事務所設立。

 私は、海外ロケに赴くとき、必ず旅用の抹茶セットを携えて行く。小さな安物の茶碗と茶筅、茶杓がワンセットになった市販のものだ。抹茶だけは、その時手に入る最も新鮮で上質のものを持ってゆく。旅先の宿で、朝起きぬけにまず一服点て独りで楽しむことも多い。

 なんと優雅な趣味、と思われるかもしれないが、これが結構その後始まる現実の苛酷な撮影の旅に役立っているのだ。私は抹茶に助けられて「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」を撮り続けている、と言っても過言ではない。

 こんな思い出がある。

 96年の「第三番」のアラスカロケのときのことだ。撮影開始直前に出演者であり、魂の友でもあった星野道夫が突然熊に襲われてこの世を去った。私は出演者がいないまま、彼と約束したアラスカの旅を続けていた。これが彼の望んだ道なのか、これで映画ができるのか、そんな不安が渦巻き、眠れない夜が続いていた。

 そんなある朝、私は彼が生前、こよなく愛した氷河の氷を砕いて湯を沸かし抹茶を点てた。美しく緑色に泡立った抹茶を一口含んだ瞬間、なにか言葉にはできない激しい奔流のようなものが私の全身を貫いて走り、私は思わず「うまい!」と叫んでしまった。そして、私の中に、抹茶をうまいと感じるような回路がまだ遺っていたことに驚いた。不安と苦しみのために閉じていた神経回路の扉が次々と開いてゆくような気がした。抹茶を一気に飲み干して外に出た。

 あたり一面が白く発光する白夜の朝、気温マイナス30度、氷原を吹き抜けて来る風は肌を刺すように痛かった。しかし私は、その冷たい風の中に春の気配を感じたのだ。

 「結果が最初の思惑どおりならなくとも、そこで過ごしてしまった時間は確実に存在する。そして、最後に意味を持つのは結果ではなく、過ごしてしまったそのかけがえのない時間である」星野が遺したこの言葉が繰り返し風の中に聞こえていた。

 海外で抹茶を点てるとき、心に決めていることがひとつある。それは、その土地の人が飲んでいる水、その出演者が飲んでいる水で点てることだ。おいしい抹茶が点つか否かは、水の性質だけで決まるものではない。点てる私の「気」が、土地の自然や人の「気」と共鳴し始めたとき、おいしい抹茶が点つ。朝の一服の抹茶の味は、そのロケが上手くいっているか否かを計るバロメーターでもあるのだ。


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